nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
ご返事ありがとうございます。私の与太話がお役に立てたようでなによりです。
まず最初に、私はあなたの誤解を解かなければなりません。私は先生ではありません! どこかの学問の府に所属しているわけでもなく、ただ煉瓦に(甚大な)興味を持って調べている素人に過ぎません。どうか買い被らないでください。メールに書いたことも100%正しいという保証もありません。
台湾における煉瓦研究のお話は、日本の現状とさして変わらないのだなあと思いながら拝読しました。日本でも煉瓦の研究は始まったばかりで、わからないことのほうが多いです。そもそも、学問のどの分野が取り扱うべき研究対象なのかもはっきりしていません。建築学の研究者は煉瓦で作られた建物には興味をお持ちですが、煉瓦そのものの素性についてはあまり関心をお持ちでない(とはいえ日本で唯一煉瓦製造業の歴史を包括的に明らかにしたのは建築学の先生でした)。考古学者は遺構から見つかった遺物としてその素性に迫ることが■■■、出土したもの限りの調査研究に終わってしまうことが多く、煉瓦製造業の歴史、製造会社の興廃、・・・まで包括的に明らかにしようというところまで行っていないように見受けられます。一番ふさわしいのが産業考古学の領域になるのでしょうが、日本では産業考古学ほど知名度の低い研究領域はありません。
私は素人ですが、研究領域の垣根を越え、煉瓦製造の歴史を広く追究したいと考え、いち学生のつもりで研究を続けています。 遺構で見ることのできる煉瓦について調べるのはもちろん、当時の工学書や雑誌、新聞記事から情報を拾い集め、煉瓦製造史を再構築。 煉瓦製造の技術が日本の中でどのように広まっていったのか、どのような製造会社がありどのような経営をしていたのか、どのように流通していったのか。日本では煉瓦は文明開化の象徴のように捉えられています。明治、大正、昭和初期と、日本が大きく変容していった時期に時代の最先端としてもてはやされていたもの。煉瓦を通して日本の近代を見てみたい。
お尋ねの論文は日本の小さな学術団体の会報に投稿したものです。よく見つけてくださいましたね。しかしかの論文は、いわゆる「Letters」で、こんなことをしてみましたという報告に過ぎません。また、このLettersを投稿してから以降の研究の蓄積のほうが大きく、有益でもあるだろうと思います。恐らく張さんのお眼鏡に適うものではないでしょう。要するに、過去に発行された書籍(例えば『工場通覧』や各府県の統計書など)から煉瓦工場のデータを収集し、どのような工場が存在し、いつからいつまで稼働していたかを明らかにしようと試みたという内容です。それも日本の関西地方(京都、大阪、兵庫、滋賀、奈良、和歌山)に限っての。当時はそういう基本的な情報すらありませんでしたので、無いなら自分で作ってしまえと。その後、同じ手法で日本全国の煉瓦工場のデータを収集し整理しました。その成果物は『関西地方の煉瓦刻印』ページでも公開しています。
長い時間と手間をかけて作ってみたけれども、これが完成品とはとうてい思えません。精度の問題。従業員数n人以上の工場しかピックアップできていない。(nメモ:このへんまで書くとドツボもいいところ)
台湾では台湾煉瓦が寡占的に操業したことと思いますが、日本では(特に関西地方では)いくつかの大規模工場と無数の中小工場が存在し、それらが自社製品であることを示すために刻印を使用しました。しかしどの工場がどんな刻印を用いていたか(台湾煉瓦がTRのような)は記録が残っていることが稀です。新聞広告や工場名鑑に偶然に社章が掲げられているとか、・・・とかでない限り。私は手始めに煉瓦刻印と工場の同定を試みた。明治 年頃に作られた建造物にはその頃操業していた工場の製品が使われているはずなので、工場表でその候補を絞り込み、工場跡地周辺の地域を歩き回ってどのような煉瓦刻印が見られるか確かめ。(nメモ:やめとけやめとけ・・・すでに壷に片足突っ込んでる)
窯変。まことにそう思います。私は時々、煉瓦も陶芸製品と同じくらいに鑑賞に耐えるものだと思っています。日本では手成形で煉瓦を作る時代が長く続きました。煉瓦には作り手の個性が垣間見えることもある(堺煉瓦のマークは煉瓦の隅のほうに押される傾向が強いとか。よく見てみると作業者の指紋がついていたり、掴んだ指の跡が残っていたりもします)。味わい深い作品です。(nメモ:そうかいそうかい。ならもちっと言えるだろ)
ここまで書いてメゲてきた。どう整理したものか。これに台湾伝統の磚の積み方が北海道や青森で見られる積み方に似ていることとかーーー台湾では中に土を詰めるのですね。日本では何も詰めず空気の層を挟むことで断熱効果をあげている。りんご倉庫ーーー言い出したら全然終わらんのよ。