nagajisの日不定記。
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明日は早いのに眠れぬ。困った。精密作業をぶっ続けでやったせいで脳の反応がおかしくなっている。あれあれ、テトリスをやり過ぎた晩に寝ようとして目をつぶったら瞼の裏に┴とか|とか」とかが落ちてきて眠れなくなってしまった中二の春と同じような状況。あるいはMSX版初代グラディウスで一日中弾幕除けをしていた日の晩の瞼の裏。わらわらわらと飛んで来る敵の玉を数ドットで避け続けるビックバイパーの悪夢。
仕方がないので駄文を書いて疲れることにする。
この時期になるといつも思い出すことがある。あれは確かOBになった翌年の春だった。OBなのに合宿に参加する気になって、現役生の班に混ぜてもらった、その春合宿での一コマだ。正確に言えば春合宿が始まる直前の、わずか数時間の間の出来事なのだけれど。
うちの部は人数だけはやたらと多く、班単位で合宿が行なわれていた。3泊4日の日程と集合地だけが共通で、コースや出発地は班独自のものを設定するというスタイルだ。集合地(=合宿で走るエリア)は年によってローテーションする。この年は四国だった。
自分が混ぜてもらうことになっていた班は高知県の東津野村の総合運動公園を一日目の出発地点としていた。班員の多くは高速フェリーで高知に渡り、その辺りから走って行くという。分水嶺の峠に行きたかった自分は、愛媛行きのフェリーに乗り、松山で降りて、上林峠だとか今生坂峠とかほうじが峠だとか誰も見向きもしないマイナーな峠を巡って、集合日の前日夕方にそこへ着いた。公園の片隅にある東屋にテントを張って寝た。
大学サイクリング部仕込みの自転車旅行をしていると、公園で寝泊まりするのがちっとも苦にならなくなる。水がありトイレがあり屋根がある公園がホテル並みの贅沢だとさえ思えてくる。特にここのように、山奥にあってほとんど人が来ることもない公園は最高だ。誰に気兼ねすることもなく居座ることができる。この日も深く考えずに公園の片隅にあった東屋を占拠した。風が強く粉雪が舞う寒い晩だったことは、これを書くために当時の日記を読み返して思い出した。
翌日。夕方に合流することになっていたので、それまで荷物の片づけなどしながら時間を過ごそうと思っていた。荷物の虫干し兼点呼のつもりで荷物をぶちまけたりなどしている時に、小さな子供がやってきた。
「ひみつきち、とられた〜」。笑いながら男の子が言う。後ろに同じ位の年と思える女の子。どうやら自分が泊った東屋は彼らのものだったらしい。
こういう時、都会だと変に誤解されたりからかわれたりして非常にバツが悪い。しかし彼らはそんなそぶりを見せることもなく、ぶちまけた自分の荷物を興味深く突ついたりしている。「おう、ご免な、ちょっと泊らせてもらったわ」。そんな言葉が自然と出た。Such a first contact.
それから彼らと仲良しになった。男の子の名はえんしょうといった。来年小学生になる、と誇らしげに教えてくれた。女の子はみよちゃん。春とみよちゃん、という組み合わせではっきり覚えている。えんしょうとは同い年だった。
ぶちまけている荷物をいちいち聞いてくる。これなーに。ご飯炊くの。重くない? 重いさ。炊いて炊いて。まだ昼前やがな。そんなやりとり。お決まりの「どこから来たん?」という話にもなったが、えんしょうの知識レベルに合わせるのに苦労した。
n:「おととい愛媛に着いてな、そっから山の中を通って・・・」
え:「えひめって、どこ?」
n:「ほら、四国の北西、いや、ひだりうえのほうの・・・」
え:「わからんー。あの山の向こう?」(と当別峠のほうを指す)
n:「ちゃうちゃう。あっちは高知や」
え:「○ちゃんちはあの山の向こうなんよ」
n:「○ちゃんて誰やねん」
とりあえず数日山の中をほっつき歩いてきたことだけは納得させることができた。
そんなことまで妙に覚えているのも、自分(nagajis)を彼らと同じレベルのものとして扱ってくれる感覚が新鮮だったからだ。人なつっこいんではなく、人を怖がらないというか、疑わないというか。試しに「おれ2、3日風呂に入ってないから匂うやろ」と振ってみたのだが、えんしょう曰く「大工さんの匂いがする」と。優しいじゃないか、えんしょう。
そのうちもう2人やってきた。都合4人。相手をしながら何かをすることが困難になって、とうとう4人と遊ぶことになってしまった。自転車に乗せてとせがむので、後ろにひとり、前にひとり乗せて。公園のそばにある建物を何周もさせられたっけ。
お昼のサイレンが鳴り、「おひるごはん食べてからまたくるね〜」と言って別れたえんしょうとみよちゃんともう2人。1時を過ぎても、2時を過ぎてもやっては来なかった。一人旅ばかりしていて淋しさには慣れているつもりだったが、本当に淋しいということはこういうことを言うのだろうと、初めて判った。班員と合流するのがその日の夕方でなければ旅を切り上げて帰っていたかも知れない。
えんしょうとみよちゃん。あれからどうしているだろう、と振り返ると、恐ろしくも嫌なことに、もう10年も経っていやがるのだ。二人ともおれと同じ位の背丈になって、四国の形も愛媛の位置もそらで言えるようになっているのだろう。それどころか世界の大きさまで把握していたり、おれがまだ踏んだこともない異国の地を歩いていたりするのに違いない。
あの頃から微塵も進歩していない自分。昔の日記を読み返したり、自分の越えた峠の数を数えてみたりしなくなったのも、進歩のなさに気づくのが恐いからなのかも知れない。いや、「かも知れない」なんて逃げないで大人しく認めたらどうだ>nagajis。ORJやってみたりアレコレに首を突っ込んだりするのも、何かをしなければ置いて行かれるという焦りがあるからに違いなく、自分自身はふだんちっとも意識していないつもりでも、気づいた時の心の揺らぎがそれを証明している。
人より優れた存在でありたいとは思っていなくても人に遅れることには敏感なnagajis。自分の出来ることの限界を拡げるんだと息巻きながら、そのdivが誰もいない方向を向いているのは甚だ卑怯な話ではないか。存在理由を考えなければそこに居られないような存在はハナから必要ない。折り箸と同じで。それならばまだ、黙って在り続けるほうがましだろう。
取り留めもなく書いているうち、話がひどく内向的になってきた。そろそろ寝るか。
朝早く起き出して、準備して、「さあいくぞ」と出発したところで自転車のフリー(後輪のギア)が死んでいることが発覚。前に漕いでも空転するばかりでこれっぽっちも進まない。これほど情けない話はないが、出先で引導を渡してしまうよりは良かったと思うべきだろう。
昨年の鳴川山行きの時にすでに予兆があった。ラッチが噛まない角度?があって、騙し騙し五社峠を登って、担ぎ下ろしたのだった。あの時masaさんに拾っていただいたのは、何も疲れていたからだけではなかったのだ。実は。(<ホントカよ、と一応突っ込んでおく)
鳴川山から帰ってから一度も自転車に乗っていない。近所に買い物へ行くにも歩いている。あれ以来なぜか腰が痛くて自転車に乗る気になれなかったのだった(ORJ作るのも大変なんだから)。寒くなるにつれてますますひどくなり、とうとう一冬乗らなかった。暖かくなってようやく乗れそうな塩梅に、というよりいい加減乗らないと次のネタがない。乗れば治りそうな気もするする。そういう意味でも昨日出かけることに賭ける意気込みは大きかったのだが、それがものの見事に空転してしまったわけだ。一昨日は一昨日で準備の最中にインフレを紛失しているのを発見してふて寝しているし。2日連続で足留めを喰ったのは生涯でも初めてのことだ。悄気ないわけがない。
一冬放置したのが気に入らなかったのか、それとも寿命であったのか。どちらとも当てはまりそうだ。ふて寝しながらこのフリーハブをいつから使い始めたのか思い出そうとしたがよくわからなかった。後輪は 2002年の旅の直前に自分で組んだのを覚えている。リムとスポークだけ買ってきて、ハブは何かから流用したはず。その前のしばらくの期間、32Hの黒いDeole LXのハブだったのも覚えているから、その前後に手に入れたものだろうと思う(手に入れたといっても拾い物か貰い物のはずなのだが)。7段のHGスプロケットが普通だった時代のもので、組んだ当時ですでにロートルもいい所だった古物だ。
しかしこれがいかれることなんて滅多にないから、惰性で使い続けてきた。旅行用の自転車のパーツはよほどの消耗品でなければ交換する機会がない(そもそもたくさんの距離走らないからな)。そのうえ動けばいい主義なので少々ガタがきても使い続けてきた。どれだけ回転したかもわからない、全国各地を旅したハブである。
思い入れがないわけがない。しかし出鼻を2度も挫かれたこともあり、いい加減ハブごと交換しないとダメか・・・とも思う。とはいえ7Sのコマンドシフターがドライブトレインを全規定してしまっている。交換するにしても7Sでなければならない。
そういうものが、このご時世にあるものか・・・。
ところがあるんだなあ。イトサイ万歳。さすがに完組ホイールはなかったがDeole XTの7Sフリーハブがひょいと発掘されるあたりがちっとも変わってない。1988年製のパーツの新古品である。11年ものである(帰って気がついたのだが以前のハブと全く同じ形状だった。仕上げがヘアラインかポリッシュか&ロゴが入っているか否かの違いしかなく、一世代新しいだけなのだろう)。
このハブを入れ替える作業のために部室へ行った。スプロケ外してスポークを全バラして組み直して。久しぶりだったにもかかわらずそれっぽく出来てしまったのはある種の業(ごう)か。しかし成りゆきでスプロケとは反対側のスポークだけダブルクロスになってしまった。逆ならまだわかるのだが。まあいいか。あとは走ってる最中にスポークが骨粗鬆症的破断をしないことを祈るばかり。外す時に6本も折ってしまった。
今日は出られないが明日は必ず。ひょっとすると2日ほど留守にするかも知れない。掘り下げていくうちにいろいろ行かなければならない所が増えてしまった。あれは日を改めて、最後にとっておく。その周辺を少し片付けないといけない。
出鼻をくじかれたムシャクシャをぶつける。コメントはtdbの記名方式をやめWikiライクな書式にする。画像もラージオブジェクトをやめてファイルで管理。こっちのほうがはるかに簡単なのだ。おもちゃで遊び過ぎ>tdb。
編集モードはログを取ってロールバックできるようにしておく。現状はただログってるだけで戻すところは出来ていない。とりあえず今回はこのへんまでになるかも知れない。spamでわやくちゃになった時に直せるようにというただそれだけの機能だからな。
環境設定はうまく動いているような気がするのだが、地形モードのマップセレクタを入れなければならない。前回ad hookでごちゃごちゃ入れたのでどこをどう入れればいいかわからんくなった。デフォルトの3種に地形モード加えるのってどうするんだっけ。しかしAPIが日本語になったお陰で以前ほど頭捻らずに済むはず。
GoogleMapsをAlpslab Clipに入れ替えた軽量バージョンを作ってみようかと思う。しかしそうするとマップを動かして経緯度取得>標高・行政区・航空写真・ウオッちず取得の便利コンボが使えなくなる。悩ましい。後回しにするか。これはデータをガリガリ修正することになる段階で入れ込むべし。
タイトルとショルダーが合わない例。
説明のしづらい微妙さがある。石仏というのは地名だと思うのだが、筆者のような一見さんには石造物としての石仏がまず脳裏に浮かんで、それと直通の葬祭場という主張に「ああなるほどな……………………?」と生半可な納得をしてしまいがちのように思われる。祭る場と祭られる対象が直接結びついていることはまあ問題ないと思うが、ベクトルが逆を向いていることが見る者に猜疑心を惹き起す原因になっているように見受けられる。受け入れる側が後ろであるのは×を持出すまでもなく一般的なものであろうから仕方ないことだと思う。
だからといって「当社は石仏、美加の台まで一直線です」としてみたところで答えにはならない。石仏だけならまだいいが、弔われる人の行き先が住宅地であるといろいろと面倒だろうとも思う。
「一直線です」という表現がいけないのかも知れない。「石仏から○分」とでもしておけば無難なのだろうが、そういう手垢の付いた表現を嫌ったのであろうことは痛いほど察せられる。さまざまな葛藤と煩悶の上にこうなったのであろう。がしかし、何か他の、もっと相応しい表現があり得そうで、しかもそれが何なのかがすぐには判らないのがまた、困り者である。
「石仏から一直線で安心」「石仏から一直線で良かった」そういう人に向けた広告であったのかも知れない。それに親和心を持つことのできなかった筆者のような者には向けられていない広告だったのだろう。そう思うことにする。
#88で考察したピエロ形遊具。一点ものだとばかり思っていた筆者は精進が足りなかったようだ。兵庫県某所にて。
秘密保持のために某所扱いするのではない。迷い込んだ路地の傍らだったため正確な場所を示すことができないだけだ。&、示したところで誰かの役に立つわけでもない。
星新一の文庫本の挿し絵でこんな目を見たような気がする。気のせいか。鼻先のバチバチを見つめていると彼全体がダイナマイトでそのうち爆発をおこしそうに思えてくる。
させないでほしい対象をぼやかしている辺りが日本人的である。それが何となくわかってしまうのも術中にはまったようで悔しい。ならば他所で・・・と思いきや、
孫悟空は御釈迦様の掌の上、といったところか。よほどされて困っているのだろう。重ね書きされた罰印にペット入居可物件の悲哀が滲んでいる。尿で滲んでいるのではない。
これだけを見て戦前のものか戦後のものかわかったら、橋マニアもしくは地元住民もしくは工事関係者だろう。道隧道みたようなものか。
横書きなのに「上から読んでも…」と思わずにいられない世代があるものと思う。筆者はその一人である。今もそうかも知れないがテレビがないので知らない。
ザ・フリーダム。考えてみれば隣の屋号を阿(おもね)る必要などないのだから、熱力学法則に従い増大したエントロピーの具現であると取るのが自然なのかも知れない。しかし海に横綱というのはちょっと違和感がある。「ラッキー」「ハワイ」という並びは田舎のパチンコ屋群のようでもあるし、そもそも須磨にハワイを持って来る辺りは「強気だな」と言われても仕方ないのではないか。
というわけでこうなった。お好きなサイズで待ち受けつくってください。(ここでiframeを使う非道。フル画面サイズ)
画像をある枠のサイズに収めるアルゴリズが旨くない。横軸比較>縮小>縦軸比較>必要があれば縮小てな感じ。一発で出ないものか。
@上北山村.R169の旧橋.おそらく戦前,S15前後に作られたものと思われる(上市木本線がこの頃改修されているので.翁橋S11,小倉橋S11,西河橋S14,旧伯母峰隧道S15.旧中山隧道もS11~15頃).
短いRC桁橋だが曲線線形になっている.東熊野街道Odysseyの時も書いたが,戦前の曲線桁って珍しいんじゃないだろ-か.『日本の土木遺産』でも特段曲線型と注記されたものはなさげだ.珍しくないから書いてないのか,注意されてなかったからか.(当時そう書いて突っ込んでくれたのはTUKA氏だけだった.R115の旧道に片側だけ曲線型の橋があるそうだ).
そんなに長くもなく,R大でもないので,直線桁の延長として作られたものかも知れないのだが,件の陸橋とかみのり橋とか西河橋とかが存在することを考えてみると,この形にもそれなりの意図があったような感じがしてならない.どうなんだろうと誰かに尋ねてみたいのだが.知ったようなことを書いておけば誰がかプギャーAA略してくれるんじゃまいか.
S15の道路橋示方書案@土木学会附属図書館を読むと,曲線線型の橋についての特別な規定はなかったように読める.曲線型の橋では車が通過する時に橋軸垂直方向に荷重がかかるが,示方書案では風荷重+「車が蛇行した時に生じるおそれのある」横荷重を考慮した規定があるだけだ(第2章第12条).軌道が曲線状に渡る場合のみ遠心荷重も考慮することになっている(同第18条).車の曲線侵入は第12条の考慮でOKと考えられてたらしい.第四章の「荷重の分布」でも曲線線形の場合の規定がない(斜橋の場合は考慮されてるが).
構造力学的には曲がり梁の曲げとかねじりとかで解けたのだと思う.それで部材が問題なければ架けられないことはなかったはず.そこまでして曲線の橋を架ける必要がなかったというだけだろう.橋たもとにカーブをつけて,直線で橋に入ればいいのだから.大栃橋はとても鋭く深く切れ込んだ谷に架けられていて,その余裕がなく,橋自体をカーブにしなければならなかったと思われる.あるいは通過速度の向上を意識してのことか.
今日では円弧の角度が5度以下であれば直線桁とみなして設計していいらしい(道路示方書Ⅲにあるとか).それ以上だと反力・ねじりモーメントのみ考慮とかすべての断面力考慮とかになる.大栃橋の角度は幾らだろ.もう一度行ってきちっと採寸してみたい.
西河橋の工事報告は道路の改良第22巻第5号・地方通信にある.これを書いたのは「藤澤生」.これは誰?
答え:近デジ職員録S15.2.版に地方技師・道路技師兼土木技師(七等待遇),従七位,藤澤啓四という人名がある.役職としてもこの人やろうね.道改や工事画報では見たことのない名前.つかぐぐってもヒットしねえ.
他の巻も管見してみた.S16.8.版にはなし.S11.7.版にもなし.ごく短い期間だけおったということか.
道路の改良第22巻第5号から西河橋のスペックを抜き出しておく.ここでいう突桁式はゲルバー桁のこと多分.ちなみに久宝寺橋は橋長41.50m,径間長36.10m.
規格(採用荷重種類) 九噸自動車
橋種(型式材料) 鉄筋混凝土突桁式桁橋
三連 二三.〇米
連長及一連長 中央径間十三.〇米
側径間各五.〇米
有効幅員 五.五米
このころ奈良県地方技師に広石一匡,駒田普明という人がいて通年名前が見える.広石は遅くともS2.1.頃からS13頃まで在籍(S14.7.にはない),駒田はS3.1.に初出,早くてもS16まで在籍.どちらもungooglable.うそつけ自分で書いとるやないけ.駒田普明=月ヶ瀬橋計画指導.設計製図は別の人になっていて,細かく分担していたらしいことが読み取れる
.職員録には他にも通年見かける名前があるようなHeNeArXr.
設計計算・山崎博.土木工業社で検索する方がいい.https://opac.osakafu-u.ac.jp/opac/opac_detail_list.cgi?lang=0&place=&key=B133270823315026&start=1&bibs_sw=0&srmode=0&chk_st=0&check=10
夏発行にしか技手載らんのよー.しかしS14にはすでに名がない
その他県下の橋梁に関する情報.
前鬼橋:道路の改良第16巻第5号地方通信 そっけない書き方.長40m弱.
百寿橋:第19巻第3号 地方通信 にあるじゃん.
美吉野橋:S11竣工.第17巻第4号に着手報,第18巻第8号に竣工報.最近改修されたんじゃなかったっけか(2008の春に石本先生にそう聞いた気がする).でも当初からRCゲルバー.しかも鉄骨はすべて電気溶接で「全国の五大名橋の一つに数えられる橋」とある.
・・・ん? 鉄骨?
たしかに,道路橋輯覧 美吉野橋には配筋図がないのな.鉄筋混凝土にはなってるけど主橋体鉄筋噸数が空欄になっちょる.吊り桁の側面もいかにもPG塗り固めましたっていう形してる...これ結構面白いことになりそうなHe(略.溶接鋼橋が作られるようになったのはS8が最初だったはず.田端大橋もS11.SRCゲルバー,初期の溶接桁.
五月橋:道路の改良 第10巻第6号 地方通信 五日橋になっとーる…おれの誤入力ではなかった.
千石橋:同第13巻第4号 地方通信 下路ワーレントラス3連.戦後に架け替えられた.
折立橋:同第16巻第7号 地方通信 木鉄混交Tの吊橋.戦後に架け替え,昨年落橋.
おまけ:奈良県の道路経済調査.改修した国道路線の経済効果をナントカ氏の計算式を用いて算出.一年で元が取れたという試算・試みの計算. http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/17-11-0139.pdf
「道路の改良」第8巻第10号、第11号より。[]は補足。
記事にするのはもっと先になると思われるのでメモ書きを残す。双頭レールが使われているのは武田尾駅〜最初のトンネルの間に2個所、第一・第二隧道の間に1個所、第2隧道の先(桜の園)に最長の柵、そして武庫川第二橋梁の前。それから第二橋梁の先の隧道を抜けた所に双頭レールだけで作った朽ちた柵がある。野田尾の区間はホッパーの前の4基のうちの一つとその手前の沢の柵。野田尾Tと次のTの間はまだ確認できていないのでここを終えてからまとめるつもり。下のほうは平底レールで作ってあり、藪まみれ&C基礎の上なので飛ばした。ここに古いものが使われていないわけではなくIllinoisの阪鶴レールや1922のBSCoとかある。余裕があれば調べてみたいがハイカーの視線を浴びまくること必至だし藪が面倒だしでちょっと辛い。阿草の柵に官営八幡1903があったようにここにソレ系が混ざっている可能性もなきにしもあらずだ。しかし可能性から言えば双頭レール使用柵のほうが明らかに古く、面白いものが見つかるようである。
古レール柵を探していると、柵があるだろう高さの藪の中に見上げるような高さの擁壁が築かれているのを何度も見た。コンクリート製のものもあれば石積み+コンクリ目地のもある。第二橋梁以下右岸をゆく区間などは特にこの高擁壁が多い。実はその擁壁の中にレール柵が埋まってたりするんじゃないだろうかと思ってみたりした。使い分ける基準がはっきりしない。傾斜がきつい=崩れやすいから擁壁でがっつり固めているかと思ったりもしたがレール柵のある場所の傾斜とさほど変わらない気もする。岩勝ちであるか否かかも知れないな。
それにしてもIllinois/Carnegieの阪鶴レールの多いこと多いこと。使ってあるレールはまっすぐだからそのようなレールを流用したはずだが、あんだけ曲がりくねった阪鶴鉄道線上にそんなに直線区間があったっけ?と思ったりしないでもない。まあ、全部足しても1kmにもならないか>柵のレール。ともかくHANKAKU銘は見飽きるほどもあるが、数多く確認できたということはそれだけ錆びにくい良質のレールだったということかも知れぬ。Illinoisのは1897年10月もしくは1898年1月のばかり。Carnegieはほぼ100%1896年9月製。
そういやNTKやSTK、KTKは武田尾区間ではほとんど見なかった。微妙に分布が均等でないのは興味深い。
刻印種別ごとの分布を表示するマップをつけてみる。かなりrawなことせにゃならんかと思っていたがそうでもなかった。メタデータを付与するプラグインにfunctionがついていたお陰でずいぶん楽できた。
SysbirdさんのBirdSITEをいじってる。個人使用ならOKなんかな・・・。こんどちゃんとライセンス確認せな。
これで目的の6割くらいはできた。あとは各刻印のマップをGoogleMapsのマイマップに依存しない形に作れれば。いまはiframeでマイマップを貼りこんでるに過ぎぬ。
ご返事ありがとうございます。私の与太話がお役に立てたようでなによりです。
まず最初に、私はあなたの誤解を解かなければなりません。私は先生ではありません! どこかの学問の府に所属しているわけでもなく、ただ煉瓦に(甚大な)興味を持って調べている素人に過ぎません。どうか買い被らないでください。メールに書いたことも100%正しいという保証もありません。
台湾における煉瓦研究のお話は、日本の現状とさして変わらないのだなあと思いながら拝読しました。日本でも煉瓦の研究は始まったばかりで、わからないことのほうが多いです。そもそも、学問のどの分野が取り扱うべき研究対象なのかもはっきりしていません。建築学の研究者は煉瓦で作られた建物には興味をお持ちですが、煉瓦そのものの素性についてはあまり関心をお持ちでない(とはいえ日本で唯一煉瓦製造業の歴史を包括的に明らかにしたのは建築学の先生でした)。考古学者は遺構から見つかった遺物としてその素性に迫ることが■■■、出土したもの限りの調査研究に終わってしまうことが多く、煉瓦製造業の歴史、製造会社の興廃、・・・まで包括的に明らかにしようというところまで行っていないように見受けられます。一番ふさわしいのが産業考古学の領域になるのでしょうが、日本では産業考古学ほど知名度の低い研究領域はありません。
私は素人ですが、研究領域の垣根を越え、煉瓦製造の歴史を広く追究したいと考え、いち学生のつもりで研究を続けています。 遺構で見ることのできる煉瓦について調べるのはもちろん、当時の工学書や雑誌、新聞記事から情報を拾い集め、煉瓦製造史を再構築。 煉瓦製造の技術が日本の中でどのように広まっていったのか、どのような製造会社がありどのような経営をしていたのか、どのように流通していったのか。日本では煉瓦は文明開化の象徴のように捉えられています。明治、大正、昭和初期と、日本が大きく変容していった時期に時代の最先端としてもてはやされていたもの。煉瓦を通して日本の近代を見てみたい。
お尋ねの論文は日本の小さな学術団体の会報に投稿したものです。よく見つけてくださいましたね。しかしかの論文は、いわゆる「Letters」で、こんなことをしてみましたという報告に過ぎません。また、このLettersを投稿してから以降の研究の蓄積のほうが大きく、有益でもあるだろうと思います。恐らく張さんのお眼鏡に適うものではないでしょう。要するに、過去に発行された書籍(例えば『工場通覧』や各府県の統計書など)から煉瓦工場のデータを収集し、どのような工場が存在し、いつからいつまで稼働していたかを明らかにしようと試みたという内容です。それも日本の関西地方(京都、大阪、兵庫、滋賀、奈良、和歌山)に限っての。当時はそういう基本的な情報すらありませんでしたので、無いなら自分で作ってしまえと。その後、同じ手法で日本全国の煉瓦工場のデータを収集し整理しました。その成果物は『関西地方の煉瓦刻印』ページでも公開しています。
長い時間と手間をかけて作ってみたけれども、これが完成品とはとうてい思えません。精度の問題。従業員数n人以上の工場しかピックアップできていない。(nメモ:このへんまで書くとドツボもいいところ)
台湾では台湾煉瓦が寡占的に操業したことと思いますが、日本では(特に関西地方では)いくつかの大規模工場と無数の中小工場が存在し、それらが自社製品であることを示すために刻印を使用しました。しかしどの工場がどんな刻印を用いていたか(台湾煉瓦がTRのような)は記録が残っていることが稀です。新聞広告や工場名鑑に偶然に社章が掲げられているとか、・・・とかでない限り。私は手始めに煉瓦刻印と工場の同定を試みた。明治 年頃に作られた建造物にはその頃操業していた工場の製品が使われているはずなので、工場表でその候補を絞り込み、工場跡地周辺の地域を歩き回ってどのような煉瓦刻印が見られるか確かめ。(nメモ:やめとけやめとけ・・・すでに壷に片足突っ込んでる)
窯変。まことにそう思います。私は時々、煉瓦も陶芸製品と同じくらいに鑑賞に耐えるものだと思っています。日本では手成形で煉瓦を作る時代が長く続きました。煉瓦には作り手の個性が垣間見えることもある(堺煉瓦のマークは煉瓦の隅のほうに押される傾向が強いとか。よく見てみると作業者の指紋がついていたり、掴んだ指の跡が残っていたりもします)。味わい深い作品です。(nメモ:そうかいそうかい。ならもちっと言えるだろ)
ここまで書いてメゲてきた。どう整理したものか。これに台湾伝統の磚の積み方が北海道や青森で見られる積み方に似ていることとかーーー台湾では中に土を詰めるのですね。日本では何も詰めず空気の層を挟むことで断熱効果をあげている。りんご倉庫ーーー言い出したら全然終わらんのよ。
_ やの [昔とてもおにいさんのように見えた高校球児。今でもそんな意識が残っていますが、息子でもおかしくない年齢と気付いて愕然...。]
_ MIMIZUK [MSX 版初代グラディウスって確かカートリッジに音源チップ内蔵で感動的な音がしたヤツでしたっけ?]