トップ «前の日(04-09) 最新 次の日(04-11)» 追記
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉化 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

1941-04-10 この日を編集

[陸幼日記] 四月十日 木曜日 雨後曇

勤務はよろしい〔?〕。今日より時間割変る。速かに洗面を終えると〔トルツメ〕ラヂオ体操にうつれり。後、神社参拝を行う。授業始まる時間割は下の如し。代数・図画・独語・博物なり。昼食は誕生日会なりし為、教官殿も来る。十三時より自習あり。十四時より教練あり以降は自習 夕食後酒保にて最中を食う 大へんうまかりき。


1942-04-10 この日を編集

[陸幼日記]四月十日 金曜日 雨後曇

特に朝に自習す。午後五時限剣術、六時限教練、十六時半より交換駈足をなす。今日は術科全く行われ、十七時十五分駈歩終了す。以後十分にて至急の中に入浴す。連隊にて鍛わるゝ兵の苦労が之に依りてもわかりたり。夕食後台上にて訓育班切磋会あり。


1943-04-10 この日を編集

[陸幼日記]四月十日 土 晴

歴史にて 御歴代天王を暗記されられ百代までおぼえたり。午後は三時間教練の予定なるも変更し防火班の編成及び愛校作業をなす。昨日の切磋会につき運動班長は町田生徒監殿より注意を受け、入校間も無き故無理なりとて前期中余り口の切磋は行うべからず と言われたり。児玉週番司令殿も率先垂範すべしと。今日も亦元気にして愉快なる日なりき。次第に物事に熱中する為か時の経過の早きに驚く。熱心こそ大切なれ〔一文に朱傍線〕。良好なり。

〔nagajis:「されられ」ママ〕


2008-04-10 ○ッキー この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #42

○ッキーという渾名に親しみがある。大学時代は先輩同輩後輩の愛称はたいていこれだった。

ある時仲間の1人がこんな発見をした。愛称に著しい対称性が認められるというものだ。以下の人物と愛称は実在した自転車部員である。

翁 ←→ 五百旗頭   オッキー ←→ イオッキー
和木 ←→ 岩城   ワッキー ←→ イワッキー
牧村 ←→ 今尾   マッキー ←→ イマッキー
大貫 ←→ (?)   ヌッキー ←→ イヌッキー

この対称性を保つため犬切氏あるいは飯沼氏の入部が予言され、それはトップクォーク並に実存確実視されたのだが、結局自分がいるうちには実現しなかった。先にトップクォークが観測されて悄気た覚えがある。

土岐氏糸井氏によるトッキー←→イトッキー結合、滝石氏板井氏によるタッキー←→イタッキー結合なども考えられるが、何でもイがつきゃいいというものでもない。ポッキーなんかは言いやすいがイポッキーなんていう渾名は通用しない。ラッキーの対となるイラッキーなどに至ってはいかにも苛々の苛公っぽくて願い下げだ。現象は観測されるがその法則性がわからない。

何を主張したいのかも、わからない。

[ORJ] 作業

UP分の修正。旧橋チェック出し。メール返信。アヒャダルマ。煉瓦修正。拡大縮小リンクのテスト掲載。これを告知するWhatsnewの作成。0801号の修正。ハガキ出さなきゃ・・・。


2009-04-10 玉砕か? この日を編集

[] まだだ!まだ終わらんよ!

「見たらいいものが見つかるかも知れないので見せて」という作戦から、「いいものに違いないから見せて」作戦に変更。そううまくいくものか>nagajis

[独言] 限界

人の興味と注意力は有限だから、いくらこちらが事細かに提示したとしても、それをすべて汲んで正しく理解してくれることは、まずないと思ったほうがよい。相手に理解を強いるとロクなことがない。

とはいえ、伝わるように、わかりやすいようにと要点を抜き出してみせても、それがホントに要点なのか、事実と乖離した何かなのではないかという不安がつきまとう。くだくだしく書きたがるのは要はそういう不安があるからだ。

全部書いても伝わらない、要約しても伝わらないなら、適度に書いてお茶を濁したほうが気が楽だ。誤解は誤解のままでほうっておくのが一番楽だ。それはわかってるけどね。というか、いい加減人でないのに気づいたらどうだ?>nagajis。少しは喋りがうまくなったらしいので釘をさしておく。

[独言] というわけで

(何がというわけだ)明日は姫路へ行くことにする。ついでに辺りを走ってみようか。

半ば敵前逃亡だが、なあに、次号の自分の記事は全部終わってるのさ。

『ご注意』

上記の理由により明日の姫路方面は大荒れの天気となりますご了承ください。拳大の雹が降ったり槍が降ったりと泣く子も黙る物理法則に支配されるかも知れません。

[独言] カーネル36効果

金本だけかよっ

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ The Kate [おいでやす。 どの辺にお越しになるのかしら。]

_ ホルモン焼き [馬車道とちゃいまっか。]


2013-04-10 この日を編集

[料理] えんどうまめのごときもの

おつとめ野菜いろいろ詰め合わせが100えんだったので思わず買ってしまった。中に入っていたえんどうまめのごときものをどうしようか悩み、そのまま炒めてやきそばの具にするという暴挙に出た。さすがに皮は食えなかったし豆も若干生焼けだった。もう少し丁寧に使ってやるべきだった。

食べながらggって、それが「うすいえんどう」であることを知った。これも春野菜なのだそうだ。悪いことをした。

[独言] 宛・のがなさま

メールいただきましたー。ご意見ありがとうございます。汲んで修正中であります。

[独言][コアダンプ] 相談

念の為、のがなさんの件とは別件の事象に対するコアダンプである。人に相談して解決するなら・・・という思いがある。それで解決するなら先に解決している。しかし実際に話してみると話すことで頭が整理されて「何がrootなのか」「どこが詰まっているのか」がわかることもある。それを上手く利用することができる人が普通の人なのだろうと思う。nagajisはそこが未だに下手だ。

生きるためなら何でも利用してやろうという積極性、平たく言えばやる気、時に覇気とか何とか言われることもあるその感覚がわからない。飢えて死ぬなら死ぬしかないんだろうという諦めがある。必要とされていないなら関わるまいという「諦め」が。自己嫌悪とはちょっと違う気がして否定したが「投げやり」という言葉でも表せてないだろう。ともかくそのへんを上手く説明できなかった。こういうやつが仕事とかなんとかなんておこがましいというよりほかないだろう。

[独言][道路考古学][道路元標] 組合道路(仮称)と指定府県道の管理者

五條本宮線。明治末〜大正期の改修は沿道の町村が結成した改修組合が行なった。設計も施工も町村組合。そのような組合方式による道路改修は全国津々浦々にあった。そうしてその成果物たる道路(ここでは仮に組合道路と呼ぶ)を誰が管理するかで法解釈が揺れていたことを、どこかで読んだ記憶がある。組合も法人なのだから組合が管理することができるとする説と、道路法では明記されてないのでダメとする説(このへんが特にうろ覚えなので独言カテにする)。田中は確か実際論に立って前者だった気がする。

五条本宮線は完成後も沿道組合が維持管理してた(うろ覚え。 ここは「十津川」を再確認)。仮にそうだとして、その道の管理者が組合なのか府県なのかで揺れたために元標の設置責任者も定まらず、故に設置されないまま終了したのではないかという想像を抱いている。

西熊野街道はとてもタイミングが悪かった。明治末着工>T9旧道路法施行で宗桧村以南が郡道になる(この時点では郡に設置義務があった)>T11完成/県下の主要な府県道路線へ道路元標が設置され始める>T11郡制廃止で府県道に昇格。しかし組合管理or県管理で揺れる>T15指定府県道に指定される(この頃東熊野街道沿道では設置が進んでいた。下北山村道路元標は昭和2、3年頃設置)。

T15に指定府県道になったのも話をややこしくしてる。道路法第十七条によれば 国道以外はその路線の認定者=管理者とされていた。指定府県道は主務大臣が認定するのだから、杓子定規に解釈すると主務大臣が管理者ということになってしまう。あー違う、指定府県道はあくまでも「指定」であって「認定」ではない。S11の告示でも「指定す」になっている。だから制定外の道路として存在し得たんだ。ということを追記したつもりでいたが反映せずに寝てしまったらしい。

第十七条 国道は府県知事、其の他の道路は其の路線の認定者を以て管理者とす。但し、勅令を以て指定する市に於ては、其の市内の国道及府県道は、 市長を以て管理者とす。

府県道の「起終点」であることがレゾンデトヲルだったのだから、通過するだけの市町村にも必要ないということになり、なおかつ設置の義務感?は後年になるほど薄れていったわけで、それでも例えば川上村などにも設置した奈良県は比較的真面目に法律を遵守していたということになる。あるいは元標不要の解釈が広まる前に設置されか。下北山村のS2、3頃というのも設置した本人のあいまいな記憶によるものだからなあ。あ。郡?県?官吏なのか。調べられるかな。雇までは載ってないか。


2014-04-10 この日を編集

[独言] かく

まる一日かかって4枚か・・・。びっくりするは。この能無しぶりにはよお。

取り掛かったころの感覚をほんのちょっとだけ思い出した。存在してた会社がつぎつぎ分裂していって、また一つにまとまって、いったいなにが起こってるのやらさっぱりだった。絡まった糸を解きたくなった。それからいろいろわかったことはあるけれども、結局のところ真相は闇の中のままだ。ひとかたまりのわからないものが細分化されたわからないになっただけだ。糸の先はいまだ闇に続いている。無理に手繰り寄せたらまた絡まって切れそうな、細い 細い 糸だ。

かえすがえす豊中の特異点ぶりに目をみはらされる。なんでそれがここにあるの。という。西国街道+能勢街道の威力か。阪急王国の住宅建設ラッシュか。

貞徳舎の○一刻印が「○ト」の間違いじゃね?と思った直後に三津浜煉瓦跡地で「○ト」が見つかった記事を見て魂消た。じゃあ小曽根の「○ヌ」はなんなのか。○はどこからきたんか。


2016-04-10 この日を編集

[鳴門要塞] 検閲諸表@M35

C02030339100。

あぶねえ、タイトルじゃ40年になっとる。

それ以外にもM34のあり〔Ref.C02030449400〕。この時点ですでに完成?

福良軍道で検索すればM32頃には竣工図書進達がある。第一部字十軒屋から仁尾まで〔Ref.C02030233400、〕、第二部仁尾から鳥取まで〔Ref.C02030433300 M33〕、第三部は谷川町から十軒屋まで。苅藻分岐から門崎交通路、大刈藻から柿ケ原堡塁交通路が分岐。

福良軍道県道移管T15。〔Ref.C03012218200〕

[由良要塞] 深山軍道

松ヶ崎より北が軍道第一部、南が軍道第二部。大正の県道移管〔Ref.C03012149200〕を参照。佐瀬川深山間は明治35~36に収容。堡塁は明治37年7月4日に竣工図書進達〔Ref.C02030272000〕。


トップ «前の日(04-09) 最新 次の日(04-11)» 追記