nagajisの日不定記。
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思いっきり寝過ごして出発できず。仕方ないので琵琶湖疏水のpdfを進める。思っていた以上に地図が大変になり時間を喰った。丸一日かかって完成版の80%...仕事遅いわ。
のうえに後半になって佳境に入ってしまい、いま2日のAM3:00。どうもこう、アレコレ手順が悪い。明日も行けるんかのう。
疏水写真の整理中に出てきた。琵琶湖疏水分線・哲学の道の末端近くで見つけたフラーレン。旅先で見かけては「あ、バッキーボールがここにも」と思うのだがいつも撮り損ねる(そもそも撮ってどうしようというものでもないし)。結構な数のこの遊具が日本にあるはずなのだが。確か池田の駅近くの公園にもあったような気がする。
今度からできるだけ撮るようにしよう。バッキーボール蒐集プロジェクト開始。
こんだけでは怒られそうなので他にも。琵琶湖疏水で使わないことになりそうな写真をいくつか。
疏水分線の途中で分岐する謎の水路。コンターを垂直に切って駆け下ってくる。岸は煉瓦張りなので疏水の何かだと思うのだが・・・溢水路みたいなもの? それとも下流の用水路?
この水路を辿っていくと疏水記念館前の船溜まりに出て来る。左の方に見えているトンネルオブジェから流れ出ているのが水路の水だ。まさかこのために作ったんじゃあるまいが。東山高校横で水路を跨ぐ橋も煉瓦製だったしな。
additionalな見学会で逢坂山隧道に向かう前に立ち寄った蝉丸神社。知るも知らぬも逢阪の関のあの人。目の前を京阪線が通っていて窮屈そう。
この踏切の上手は有名な?急カーブだそうで、列車が通るたびに軋み防止の油が吹き出す仕掛けになっている。下手の上栄駅も坂の途中にあって、しかもホームが“互い違い”になってる。京阪も住まわる人もこれやこの大変そうな逢阪の関。
少し前後する。小関峠を大津側へ下る途中で見かけたコンクリート製の墓石。今では考えられないだろうが大正二年頃にはモダンな試みであったのかも知れない。個人的には耐久性のある石よりも風化しやすいコンクリのほうが好ましい。自分の名前なんて未来永劫残したくないからな(その前に墓も作って貰えんだろうが>nagajis)。
昔は年季の過ぎた墓石や縁者の無くなった墓は石橋の材料にされたという。お役御免でハイサヨウナラ、というわけではなくて、そうやって人の役に立たせることで「後生の功徳」にしようというわけだ。やさしい心遣いだと思う。石橋がなくなった今では行き場のない墓石は墓地の隅に転がされるばかりだ。むごい話だし、この先どうするのだろうと思わないでもない。橋の基礎工に使うとかコンクリの骨材にするとかいう選択肢があってもいいかも知れない。
いい加減寝るかpdfの続きするかしろよといいたい所だが、奇妙なポテンシャルはあらゆる所に潜んでいるもので、そういう意表を衝く出現に大変弱いnagajisである。2005年10月撮影のこの一枚のことはすっかり忘れていた(どうでもいいがことえりの「さつえい」の第一変換候補が「薩英」で困る。いい加減覚えてくれ)。
看板が置かれているのは観光ホテルの前である。筆記用具が咄嗟に、あるいは手持ち無沙汰の結果として出て来るような場所では決してない。にもかかわらず描かれている所にまず第一の物語があるように思われる。
模写の動機もわからない。模写したくなる何かが元絵にあるとは思えない。強いて言えば、何かこう、弄びたくなるようなあどけさなさを有している絵ではある。もっと書きようがあっただろうにと思わせないでもない。模写者はそれを更正するために事に及んだのかも知れないが、仮にそうであったとしても残念ながらその試みは失敗に終わっていると言わざるを得ない。人魚かエビの如き不可解な足をそのまま引き写ししている時点で負けだ。
よくよく見たらかわうそ君のような瞳をしているな。彼。
夜更かししたい訳でも諸兄の怒りを買いたい訳でもない。なのに立続けに襲ってくる奇妙なポテンシャル。それに抗うことのできない小生を、罵るがいい。
2006年須磨区にて。小生は常々「奇妙なポテンシャルとVOWとは違う」と考えているが、その境界線上かろうじて奇妙なポテンシャル寄りにあると思われる、指標的な一件。ガラスが薄いということは立派なステイタスたり得るしそれなりの技術を要するものであってそこに笑いなり貶めなりの下卑た要素はない。にもかかわらず立ち止まって首を傾げ写真に収めたりなどしたくなる何かがある。それが奇妙なポテンシャルであると小生は信じて疑わない。
残念ながらこの一件はステイタスとして宣言されてしまっているためこれ以上の展開を加えることができない(ゆえに境界線上と看做すのである)。我々はただ神戸市須磨区にうすいガラス店があるという事実を朝な夕なに想えばそれでいい。それ以外の何かを導いたり加えたりすればVOWの領域になる。決して「おたくのガラスまた割れたよ」「うすいですから」などという会話を想像したりしてはならないのである。