nagajisの日不定記。
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三時半起床し、直に食し四時四十分頃出発し一日中を三明さんと行動を共にす。然して一路甲佐へ向わんとす。乃ち南熊本より熊延鉄道にそえる道路を専ら行進す。八時に緑川辺に休し、又歩きて六嘉に至り、そこより汽車にて甲佐に行く。徒歩の行程五里余のみ。甲佐著は十時半で直ちに西住戦車長墓を参拝し、生家へ行く。生家にては屋内に上り、礼拝の後諸々話す。大尉殿は四十六期第二中隊第一区隊にてありたり。辞して緑川辺に昼食す。生家は川より五十米の処にあり。小学校にて戦車長功勲の蹟を偲び、先生の話を聞き、深く感ずるところありたり。三時七分発にて復り、学校著は十八時なりき。今日は鍛錬の日にてもあれ、教訓されたる由ある日にてもありたり。
〔欄外朱:有意義なる教訓を得たるものと認む 下川印〕
雨の為一層〔朱訂正〕暑し。国漢甲にて一時間紋章に付き学び、その知識を深めると共に之が如何に国家に関係し歴史を物語るかを感じぬ。誕生日会なりき。午後は体格機能力検査にして相当進歩したり。
懸垂 三十五回
百※早駈 十四秒二
運搬(三十瓩〔朱訂正〕五十米 九秒一
西日本新聞新聞記者来りて熊幼の状況を写し行きたり。一般に元気にて気力に満ちたる一日なりき。三年はあと十三日かと悲観する方多し。
思いっきり寝過ごして出発できず。仕方ないので琵琶湖疏水のpdfを進める。思っていた以上に地図が大変になり時間を喰った。丸一日かかって完成版の80%...仕事遅いわ。
のうえに後半になって佳境に入ってしまい、いま2日のAM3:00。どうもこう、アレコレ手順が悪い。明日も行けるんかのう。
疏水写真の整理中に出てきた。琵琶湖疏水分線・哲学の道の末端近くで見つけたフラーレン。旅先で見かけては「あ、バッキーボールがここにも」と思うのだがいつも撮り損ねる(そもそも撮ってどうしようというものでもないし)。結構な数のこの遊具が日本にあるはずなのだが。確か池田の駅近くの公園にもあったような気がする。
今度からできるだけ撮るようにしよう。バッキーボール蒐集プロジェクト開始。
こんだけでは怒られそうなので他にも。琵琶湖疏水で使わないことになりそうな写真をいくつか。
疏水分線の途中で分岐する謎の水路。コンターを垂直に切って駆け下ってくる。岸は煉瓦張りなので疏水の何かだと思うのだが・・・溢水路みたいなもの? それとも下流の用水路?
この水路を辿っていくと疏水記念館前の船溜まりに出て来る。左の方に見えているトンネルオブジェから流れ出ているのが水路の水だ。まさかこのために作ったんじゃあるまいが。東山高校横で水路を跨ぐ橋も煉瓦製だったしな。
additionalな見学会で逢坂山隧道に向かう前に立ち寄った蝉丸神社。知るも知らぬも逢阪の関のあの人。目の前を京阪線が通っていて窮屈そう。
この踏切の上手は有名な?急カーブだそうで、列車が通るたびに軋み防止の油が吹き出す仕掛けになっている。下手の上栄駅も坂の途中にあって、しかもホームが“互い違い”になってる。京阪も住まわる人もこれやこの大変そうな逢阪の関。
少し前後する。小関峠を大津側へ下る途中で見かけたコンクリート製の墓石。今では考えられないだろうが大正二年頃にはモダンな試みであったのかも知れない。個人的には耐久性のある石よりも風化しやすいコンクリのほうが好ましい。自分の名前なんて未来永劫残したくないからな(その前に墓も作って貰えんだろうが>nagajis)。
昔は年季の過ぎた墓石や縁者の無くなった墓は石橋の材料にされたという。お役御免でハイサヨウナラ、というわけではなくて、そうやって人の役に立たせることで「後生の功徳」にしようというわけだ。やさしい心遣いだと思う。石橋がなくなった今では行き場のない墓石は墓地の隅に転がされるばかりだ。むごい話だし、この先どうするのだろうと思わないでもない。橋の基礎工に使うとかコンクリの骨材にするとかいう選択肢があってもいいかも知れない。
いい加減寝るかpdfの続きするかしろよといいたい所だが、奇妙なポテンシャルはあらゆる所に潜んでいるもので、そういう意表を衝く出現に大変弱いnagajisである。2005年10月撮影のこの一枚のことはすっかり忘れていた(どうでもいいがことえりの「さつえい」の第一変換候補が「薩英」で困る。いい加減覚えてくれ)。
看板が置かれているのは観光ホテルの前である。筆記用具が咄嗟に、あるいは手持ち無沙汰の結果として出て来るような場所では決してない。にもかかわらず描かれている所にまず第一の物語があるように思われる。
模写の動機もわからない。模写したくなる何かが元絵にあるとは思えない。強いて言えば、何かこう、弄びたくなるようなあどけさなさを有している絵ではある。もっと書きようがあっただろうにと思わせないでもない。模写者はそれを更正するために事に及んだのかも知れないが、仮にそうであったとしても残念ながらその試みは失敗に終わっていると言わざるを得ない。人魚かエビの如き不可解な足をそのまま引き写ししている時点で負けだ。
よくよく見たらかわうそ君のような瞳をしているな。彼。
夜更かししたい訳でも諸兄の怒りを買いたい訳でもない。なのに立続けに襲ってくる奇妙なポテンシャル。それに抗うことのできない小生を、罵るがいい。
2006年須磨区にて。小生は常々「奇妙なポテンシャルとVOWとは違う」と考えているが、その境界線上かろうじて奇妙なポテンシャル寄りにあると思われる、指標的な一件。ガラスが薄いということは立派なステイタスたり得るしそれなりの技術を要するものであってそこに笑いなり貶めなりの下卑た要素はない。にもかかわらず立ち止まって首を傾げ写真に収めたりなどしたくなる何かがある。それが奇妙なポテンシャルであると小生は信じて疑わない。
残念ながらこの一件はステイタスとして宣言されてしまっているためこれ以上の展開を加えることができない(ゆえに境界線上と看做すのである)。我々はただ神戸市須磨区にうすいガラス店があるという事実を朝な夕なに想えばそれでいい。それ以外の何かを導いたり加えたりすればVOWの領域になる。決して「おたくのガラスまた割れたよ」「うすいですから」などという会話を想像したりしてはならないのである。
慌てて東熊野を書いているが何かだめだ。進まねえ。後先を考えずに書こうとしているからか。貴様の書きたいことは何だ? 7里の長い道のりと一部大規模大半上書きの新旧関係のことか? 沿線の在所のことごとか? 全部辿った俺スゲーか? 最後の一つは決してやりたくないが。
換線は小規模なのだから在所紹介的ルポの数珠つなぎでいいと思う。第一期街道以前→国道までの概略を序にして、あとはルポで。レポじゃなくて。問題は概略で言いたいことを全部言ってしまうんではないかという危惧があることだ。それでもいいか。この際ルポ部分の統一性は考えないことにしよう。運送しよう。不動峠もこじんまり終わらせよう。
また来月だ・・・>シュラフ
妄想してニヨニヨするな。ニユニユも不可。
奈良にも無かったんかなあと思い,文献を見つけてきたが,とても残念な結果に.S12「ラヂオ年鑑」にあるのが全てじゃないんだな・・・終戦までに約450基建造,うち約20基しか現存してないとか.奈良公園にあったのは木製だしや.
○直轄管内(七箇所) | ||
所在地 | 施設年度 | 設計概要 |
東京市隅田公園 | 昭和七年 | 高一六・五尺,スイッチ付鉄筋混凝土,洋形 |
新潟市白山公園 | 昭和七年 | 高一二尺,混凝土燈籠型,池中に建設 |
横浜市野毛山公園 | 昭和七年 | 高一五・六尺,鉄筋混凝土,燈籠型 |
静岡市清水公園 | 昭和八年 | 高一五・六尺,鉄筋混凝土,燈籠型 |
前橋市前橋公園 | 昭和八年 | 高一五・六尺,鉄筋混凝土,燈籠型 |
長野市城山公園 | 昭和八年 | 高一六・五尺,スイッチ付鉄筋混凝土,洋形 |
移動用 | 昭和八年 | 随時必要に応じ随所に設置 |
○大阪管内(十三箇所) | ||
大阪天王寺公園 | 昭和五年 | 高一二・二尺,鉄筋混凝土栗石作り,角燈籠型 |
奈良市奈良公園 | 昭和六年 | 大さ右に同じ,木製春日燈籠型 |
神戸市湊川公園 | 昭和六年 | 高一五尺,鉄筋混凝土ミゼット型 |
京都市円山公園 | 昭和七年 | 高一一・五尺,鉄筋混凝土,上部花崗岩,角燈籠型 |
和歌山公園 | 昭和八年 | 大さ大体右に同じ,鉄筋混凝土栗石目潰砂作り,角燈籠型 |
大阪住吉公園 | 昭和八年 | 高一一・五尺,人造研出磨,上部紫雲石,角燈籠型 |
堺市大浜公園 | 昭和八年 | 高九尺五寸,箱型鉄筋栗石作り |
徳島市徳島公園 | 昭和八年 | 高九尺五寸,箱型鉄筋栗石作り |
鳥取市久松公園 | 昭和八年 | 高九尺五寸,箱型鉄筋栗石作り |
津山市鶴山公園 | 昭和十年 | 高八尺木骨混凝土,角燈籠型外部リシン塗クリーム色,受信機のみ貸付(津山市建設) |
京都市船岡山公園 | 昭和十年 | 高一〇尺箱型鉄筋作り,受信機のみ貸付(京都市建設) |
香川県三豊郡仁尾町遊園地 | 昭和十年 | 角燈籠型(同町塩田忠左衛門氏建設) |
尼崎市庄下川畔公園 | 昭和十二年 | 高一三尺鉄筋混凝土角燈籠型(尼崎市建設受信機当局寄贈) |
○名古屋管内(四箇所) | ||
名古屋市舞鶴公園 | 昭和八年 | 高一三尺,鉄筋混凝土,古代燈籠型 |
金沢兼六公園 | 昭和八年 | 基礎鉄筋混凝土,木製屋根銅葺,春日燈籠型 |
岐阜県岐阜公園 | 昭和八年 | 高一二尺,木造ボンボリ型 |
福井市佐佳枝神社 | 昭和八年 | 高八・三尺,基礎鉄筋混凝土,上部木製春日燈籠型 |
○広島管内(六箇所) | ||
呉市二河公園 | 昭和七年 | 高九・九尺,幅五・三尺,鉄筋混凝土,自動スイッチ付燈籠型 |
松江市城山公園 | 昭和七年 | 高九・九尺,幅五・三尺,鉄筋混凝土,自動スイッチ付燈籠型 |
高知市城山公園 | 昭和七年 | 高九・九尺,幅五・三尺,鉄筋混凝土,自動スイッチ付燈籠型 |
広島市招魂社外苑 | 昭和八年 | 高一四・六尺燈籠型 |
松江市城山公園 | 昭和十一年 | 高一五尺燈籠型鉄筋コンクリート(松山市建設,受信機のみ提供) |
下関市赤間宮境内 | 昭和十一年 | 高一一尺燈籠型花崗岩(関門講演会建設,受信機のみ提供) |
○熊本管内(八箇所) | ||
熊本市花畑公園 | 昭和七年 | 高一五尺,幅五尺,鉄筋混凝土自動スイッチ付,石燈籠型 |
福岡市東公園 | 昭和七年 | 高一五尺,幅五尺,鉄筋混凝土自動スイッチ付,石燈籠型 |
福岡市記念公園 | 昭和七年 | 高一九・八尺,下部に前幅同一九・八尺の腰掛あり軍艦マスト型 |
小倉市勝山遊覧地 | 昭和七年 | 高一〇尺,間口奥行上下共六尺,木造箱型 |
八幡市宮田遊園地 | 昭和七年 | 高一〇尺,底部四・五尺平方,木造燈籠型 |
若松市蛭子神社境内 | 昭和七年 | 高一〇尺,底部四・五尺平方,木造燈籠型 |
門司市老松公園 | 昭和七年 | 高一〇尺,底部四・五尺平方,木造燈籠型 |
戸畑市八幡神社境内 | 昭和十年 | 塔は燈籠型受信機のみ提供(社務所建造) |
○仙台管内(四箇所) | ||
福島市中央公園 | 昭和七年 | 高九・三尺,基礎混凝土作り角燈籠型 |
盛岡市物産館前 | 昭和七年 | 高九・三尺,基礎混凝土作り角燈籠型 |
山形市雁島公園 | 昭和七年 | 高九・三尺,基礎混凝土作り角燈籠型 |
秋田市千秋公演 | 昭和七年 | 高九・三尺,基礎混凝土作り角燈籠型 |
○札幌管内(六箇所) | ||
札幌市大通逍遥地 | 昭和七年 | 高一二尺,鉄筋混凝土,神燈型 |
小樽市小樽公園 | 昭和七年 | 高一二尺,鉄筋混凝土,神燈型 |
旭川市常磐公園 | 昭和七年 | 高一二尺,鉄筋混凝土,神燈型 |
亀田郡大沼公園 | 昭和七年 | 高一二尺,鉄筋混凝土,神燈型 |
函館市函館駅前 | 昭和七年 | 高一二尺,鉄筋混凝土,神燈型 |
札幌市中島公園 | 昭和八年 | 高一四尺,鉄筋混凝土煉瓦作り,凸型塔上四尺の旗棹を立つ |
結論がないまま書き始めたせいでツボっている.焦点も定まってない.
米軍撮影の航空写真でThat's all,若干の痕跡が残るにフォーカス・印して「なかった」結論で行くこと>jis
前半をさらっと.第二次都計+『最新の東淀川区』→あれ?ない→公文書→測量はしたらしい→米軍撮影+戦災=家に埋め立てられたわけでもない→(前半了)→行ってみようでいいのでは.最後は余計かもしれん.
追加で欲しい方,お急ぎ下さい.ってこんな所に加来なってか.
飛び込みアポイントの時はそれなりの感触だったけれども,後にTELして相談しようとした段階で調査を断られた.仕方ないことかも知れぬ.今更来んな,構うなっていう気持ちはよくわかる.よくわかるがしかし,それで途切れる歴史の連綿はどうしたらいいのか.自分はいま後者を守らなければならない立場にあるのだが,そこに立脚して強く出るほどの強固な信念を持ち合わせていないらしい.強くお願いすることもできず,そういう感じのこと思い知らされ,勝手に悄気ている.こういうのがあるから工場関係の調査は難しく,調査票もなかなか上がって来ないのだろう.
S2.2.創業.白木綿の製造>昭和15年にはガーゼを製造>現在は蚊帳生地を織る.紡績関係でこの規模の煉瓦積みの煙突が残っているのは県下で唯一だろうと思われる(酒造会社では時折見かけるけれども).地元の方々がいたく気に入っていて,草取りをしたりもしているというから,地元の宝として余生を過ごせばそれでいいのかも知れぬ.
大和水銀もそうだったな.戦前県下で全国規模で名を知られた鉱山はここくらいしかなく,抑えておきたい物件だったにも関わらず,調査を断られた.まあ……調査を受けたからといってお金貰えたり直ちに文化財になったりはしない.調査される側は痛くもない腹を探られるばかりなのだ.今の段階じゃ.
説明のしかたがよくないのだろうか? ナニを調べているのかではなく,何のために調べているのかを第一義に伝える必要があるのかも知れない.近代史の生き証人が腐って無くなってしまう前に記録しておきたい.過去と現在の狭間を埋めたい.そういう感じのことを最初に強く言う必要があるのかも知れず.言ったとしても変わらないような気もするけれども.
近代化遺産の調査を始めるのが余りにも遅すぎたのだ.物件がまだ活気を持って働いている頃から始めていれば,調べられる側もまだ少しは協力し甲斐があっただろう.屈託なく自社の自慢をできたことだろう.代が変わっていろいろが忘れられ,それができなくなって初めて調査の必要が痛感されたから近代化遺産調査が始まったのかも知れないが.あー.
もう一つ「無秩序な保存」がよいのかどうかという問題もある.古ければいいってものじゃない.モノやモノの所有者には新しくなる権利がある.取り壊して発展する権利がある.全部が全部を残そうとすれば,この狭い国土だ,すぐに手狭になってしまうだろう.該物件が本当にいいものかどうかは,現段階では正直わからない.たーだの煙突でしたテヘッで終わってしまう可能性も大分あるのだ.
うむ,だから土木遺産は楽で,敷居が低いのか.基本的にアポなしで行けるものな.見つけられるか否か,気づけるかどうかだけだ.
迷惑にも医院さんに電話して聞いてみた.医院長さんがご対応してくださり,以下のような話を聞かせてくださった.曰く今から20年ほど前,歴史研究家と称する人(個人か団体かはわからない)が回収していったという.どこかに移設されているとばかり思っていたが,そうじゃないみたいだねと.医院が移転したのは今から6年ほど前のことで,その時にはすでに現地にはなかった.ちなみに元は小瀬橋歩道橋部のたもとに建っていたが,その工事の時に折られて倒されたのだそうだ.
少なくとも現地に埋まっているわけではなく,地表のどこかに残されている可能性が出てきたわけで,光明といえば光明なのだが……それにしても20年前とは.その頃生駒の辺りで歴史研究をしていた人って,どうやって探したらいいのだろう.「生駒 歴史研究家」で検索して得られるような答えじゃないことはやる前からわかる.恐らく教育委員会さんもあてにできない.激しく入れ替わっているだろうしな.
医院長さん曰く,「歴史的に貴重なものだから,行き先が追求できるといいね」.そういう温かいお言葉を頂けただけでも感謝.
尾鷲 104x54x215, 106x53x220, 54x106x217, 55x103x219, 56x106x222
相賀 103x54,224, 105x55x220, 107x57x220, 105x55x222, 102x55x223
相賀には大阪窯業の手整形煉瓦が使われている。 あの整った綺麗な小口は、そう言われてみれば確かに大阪窯業製らしい。よほど市中でだぶついていたのだろう。抑、明治時代から米子とか台湾とかに輸出してたくらいだから充分あり得る話である。
大正2年着工・同5年竣工のでも手整形。そもそも大阪窯業の刻印が押されている機械整形を見たことがない。2通り考えられる。
1.機械整形煉瓦の用途が限定されていた
鉄道局納入用とか水道局とか。特級品の位置づけ。
2.機械で切り出したものを撫でて整形していた
機械整形のささくれが粘着力を高めると言われていはいたけれども、日本煉瓦製造の「煉瓦要説」の話であって、関西圏ではどう取られていたものか。機械切り出し+手整形と考えれば、大窯の手整形煉瓦のホモぶりに納得がいく。
そうか、 大窯の手整形煉瓦を割ってみればいいのか。割るっていうよりも切断。断面を見てみればわかるはず。
相賀には大正九年一月の銘のあるお地蔵様。頭が欠けておられて痛々しかった。なんで気づいてあげられなかったのだろう。申し訳ないことをした。
前回訪問した時にも見ているはずの看板。これを見て、そういえば上小倉のどこで焼いたのだろうと疑問に思ってそのままだったことを思い出した。正確な場所がわかっていたりするのだろうか。それとも大字だけしか伝わっていないのか。
丹波市教育委員会さんにお尋ねしたところ、わざわざ調べてご返答してくださった。曰く煉瓦を焼いた場所と伝わっている場所があるという。興味深いことにそれは平野部の端ではなく集落から200mほど登った竹やぶの中だそう。伝敦賀線建設用煉瓦工場の立地とどこか似ているようなのだ。あちらは明治15年頃、こちらは明治16年竣工、ついでにいうと鐘ヶ坂隧道も敦賀線も藤田組が関わっている。看板では鹿児島の職人となっているけれども(この鹿児島の職人というのも地味に興味深い。鉄道省の堺煉瓦工場は鹿児島県人原口亀太郎と永井庄右衛門に払い下げられた)。
柏原側はこのように煉瓦工場の跡がわかっている。では篠山側はどうなんだろう? トンネルは両側坑口から順次巻立てていくものなので、貫通する前から篠山側にも煉瓦を供給する必要があった。鐘ヶ坂はあんな山道だし追入のほうへ降りて行ってしまうので上小倉から担いで越えて運んだようには思われない。それに先日masaさんが興味深いことを指摘して下さった。鐘ヶ坂隧道の坑口は篠山口のほうばかり風化が著しいのだ。柏原側はさほど目立って傷んでいるわけではない。だとすると柏原側と篠山側とで異なる製造ラインの煉瓦が用いられている=篠山側にも工場があって篠山側坑口の煉瓦を供給したりしたんじゃないだろうか。
という疑問も、篠山市教育委員会さんにぶつけてみた。結果は、不明。篠山側には工場跡と伝わる場所はないそうだ。かといって上小倉から運んだという話もないらしい(丹南町史には何も書いてなかったと思う。あとで見てみよう)。
先日隧道口で拾ってきた煉瓦の割れ方と、伝敦賀線煉瓦工場跡の焼損煉瓦のそれがよく似ている気がしてならない。全面的にでかいヒビが入っていて粉々になる寸前という態をしている。ただし煉瓦のサイズは若干違うし(小口幅が少し小さい)、鐘ヶ坂のは裏筋がついている。薄いので坑口に使われているやつではないはずだ。
福知山線阿草トンネルの辺りで八幡製鉄所1903を発見したのに調子づいて、そういや福知山線のレールはほとんどチェックしてなかったなと思う。福知山線沿線には意外と古いレールが多い。双頭レールだってハイキング道脇の桜の園のあれだけじゃないんだ。野田尾Tの向こうにもあったんだ。しかし銘を調べるのを忘れている。それ以外にもホッパーだとか防護柵だとか古レール使用構造物は沢山ある。多分隧道はどれも防護柵つきだったと思う。そういう古レールの銘を徹底的に調べたら面白いのではないか。
黒田の周辺の旧隧道とかも見ときたいなあ。これは単純にコンプリート目的でそう思う。
といったわけで、二週連続で丹波詣でになりそうな予感。藪の薄い今の時期に片付けられる仕事は片付けておきたい。
スイッチを押せば当然のように立ち上がる有り難さ。なんでもないようなことが幸せなんだねえ。
概記
凡国家の富強社会の開明を図るは人智を開達し物産を蕃殖するより先なるはなく人智を開達し物産を蕃殖するは交通運輸を便にするより急なるはなし故に道路を修め水利を通ずるは方今の急務にして其国家を利する鮮少ならず西舊道路を開くを富強の基本又文明の先導と云とかや然れどもこれを行う甚難し況や其事業の偉大なるに於てをや苟も奮興能く其志気を■まし堅忍能く其難苦に耐え所謂金石亦透るの精神あるに非ずんば奚(いずくん)ぞ能く其目的を達するを得ん我鐘ヶ坂隧道開鑿事業の如き亦これと同じく而て能其目的を達したりと云べし抑(そもそも)該坂は山陰街道中丹波国氷上多紀量郡界を横断する峻山にして坂路険悪にしてこれを■■すれば隆冬と雖も苦汗背に溢るるに至り行旅嶮を避け車両通せず其交通運輸を妨ぐる甚しく世人これを憂うるや久し然れども未だ救済の策を得ざりしに明治十三年一月六日氷上郡柏原町に於て同所土田雅二片山助右衛門三崎■七安藤久治郎中谷保太郎前川九平谷忠衛門等事あり少集す氷上郡長田艇吉氏及多紀郡大山宮村園田多祐亦席に在り■偶ま道路改修の急務なるより鐘ヶ坂の嶮を破らざるべからざるに説き及ぼし衆互に熱心■■の色あり依て翌日再び席を開き猶お三崎半四郎片山武兵衛小谷広次本庄弥七郎上山正蔵等相加り衆議遂に鐘ヶ坂に隧道を穿つの挙を企つるに決し此の工費大約壱万円乃至壱万五千円の胸算にして両郡有志輩より其三分二を醵出し残費は官の補助を仰がんとす就ては発起人於て先ず義醵を為し以て赤心を表し他を喚起せざるべからずとて寄附出金を約し猶幾くもなく多紀郡園田量助中道伊兵衛の賛成するあって僅々十六名にて二千余円を得たり於茲氷上郡長は多紀郡長安藤直紀氏に■議して両郡の協同一致を図り更に郡内名族芦田塚口衣川等の拾名を招き諮詢せしに各同意し且発起人■請に任せ其総代となり斡旋するに至る依て本県に稟請し県官森喜治氏の実測を受け死に経費凡三万円を用うるにあらざれば十分の目的を達す可からずと為せり於是[衆?]一時は愕[胎?]失望せしも固より半途挫折すべきに非ざれば発起総代芦田園田等両郡長に随伴出県親しく県令に就て官金補助増加の事を懇請せり当時大書記官原保太郎君土木課長二等属須永綽氏等大に此挙を賛成し為めに幇助せらるる所あり県令森岡昌純君に於ても深く讃美せらると雖も僻地に対しては偉大の奇工に付或は失挙あらんことを■はかくし稍持重せらるるものの如し然れども其事の公益に■する遠大にして発起人等の美志を空うするを惜まるにや遂に特■を以て其[願?]を容れられたり是より先き氷上郡は発起総代等に於て尚一層其規模を大にし併て郡内縦横の県道をも改修することとせば其影響する所広く且切なるを以て義醵集り易すからんとの意見■■■れども費途の■られざるを顧慮し躊躇せしに今や隧道費の大分は官弁を受くることとなりたれば人民に於てもこれに応じ一層発奮する所なくの■■くす因てこれを郡の公議に質し進止を取らんとて遂に仝郡町村連合会を開設せしに大多数の賛成を以て自ら其費任を負荷して隧道起功並県道■■■■することに決定し芦田辰左衛門(後衣川佐兵衛これに代る)塚口邦之亮土田雅二の三名を以て土功委員とし百般の事務を担任せしめたり於茲委員は多くの周旋人等を撰■し東西奔走大に周旋する所ありしは郡民速に饗応し義挙を助くるもの三千三百余人此金大約壱万五千円内一半は郡内県道改修の費途に充て残凡一半と多紀郡に於て園田多祐同量助中道伊兵衛等委員と為り百方盡力専ら同志を糾合し得たる所の金額三千三百円合計壱万余金を郡民の寄附義出とし以上の費途は官費又は地方税の補助を以て起功あらんことを公願せり仍て県令は大坂藤田組に命じ明治十三年十二月廿一日より開鑿に着手せしめられ破裂■[導?]を以て昼夜間断なく東西両口より穽掘すること歳余同十五年三月二日遂に会中せり当時坑内極めて狭少■躬横に身を容るるに過ずと雖も路線矢直にて東西互に日光を[通?]すを得べし人皆測算の精確と工事の巧妙に服せり爾後其幅員を広め磚瓦を畳み措据[経営?]同十六年九月廿四日に至り全く其功を竣え来十月十三日を卜し将に開通式を行わんとす此工月を閲する三十四洞長さ百四十七間高さ拾壱尺乃至拾四尺敷幅拾三尺六寸中央広さ拾五尺畳磚の囲む所長さ八拾四間余其層二枚乃至四枚坑門は堅石を以てこれを造り上に三條有栖川両大臣親■[碩?額?]字を刻み結構完[円?]観■壮麗前後繋ぐに拾余町の新路を以てし殊に西口は小楼を起し自噴貯水器を据え路傍新に桜楓等を樹ゆる千余猶紀功の巨碑を建設せんと欲し即今其撰文を編修副長官重野安繹君に請託せり此役使用する夫役凡六万三千任実質四万円余終始工事を監督せしは本県土木課員七等属森喜治氏にて該課長一等属賀集寅次郎氏これを総括し両郡長と供に■力少なからず氷上郡長書記山下銀四郎氏等与(あずか)りを能勤めたり就中首尾熱心従事せしは氷上郡長にして労費を吝まず力(つとめ)て同志恊合に尽せしは園田多祐を最とし周旋甚だ勤を能く官民間を調えしは塚口邦之亮土田雅二及芦田辰左衛門等にして衣川佐兵衛園田量助以下の委員発起人等これに亜(つ)ぐ而して工事斯く多の歳月を費せしは地中渾て堅剛なる磐石にして鏨鑿極めて至難なるに依ると云然れども受負者藤田組に於ては毫も屈撓せず手代沼野芳輔等能工夫を使役し施工中崩壊或は役夫死傷等の災厄なく■功を完成せしは天幸と[口?]うと雖ども抑亦藤田組の能く其責任を尽したるに依るなり初め該功を企つる[に?]県庁に於ては土木官費定額中より年を逐い漸次補助せらるる予算の如くなりしが実施着手に及び一般官費廃止の公布出て地方税使用の如きも常置委員に諮問を要せらるることとなり百事齟齬し大に困頓せられたりと此時に当り■言■起事の中廃に属せんを惧るるものあり県令毅然として曰く如此事業に対し思[慮?]を費やすは宜く着手以前に有るべし事既に決す今に迨(およ)んで何ぞ躊躇すべけんや艱難に遭遇するは予め期する所飽迄耐忍初志を貫かざるべからずと衆乃ち安んじ工事未だ半ば鳴らざるに各速に寄付金を■納し毫も其期を■あらざるのみならず其間往々不時の災に罹り資産を失い或示談身代限を為す等のことありしも債主の承諾を得て完済し此寄付金に於ては壱銭をも欠くる所莫く能其義務を竭(つく)せり県令深く其篤志を感称せられ益信義を固持し敢て阻ばまるる色なく工事を継続せしめ毎々の稟請上■に於て受理なきも猶屈せず自ら出京慇懃に情理を悉くして遂に庁議を動かし特別を以該費中人民寄付(前後道路に若干の地方税補助ありと)を除くの外は総て国庫より補給せらるることとなりし由これより先き氷上郡に於て寄付義出する所の金八千円余に地方税の補助を加え郡内遠坂小野尻塩津其他諸坂路並これに連絡する県道共年々改修し是亦過半成る抑斯く偉大なる功業をして僅々二郡人民の義金に基き幾多の艱難を排除し以て完■なる結菓を観るを得るもの蓋郡民義気の厚きと関係諸員拮据宜を得るの功多きに居ると雖ども県令の民利公益の重んぜらるるの深き力を用いらるるの厚きに非ずんば安く能く爰に到るを得ん亦以て平素官民協和の一端を観るに足る於茲や行旅の労■車馬の艱易前日に比せば霄壌啻(ただ)ならず世人の憂は全く消散し大に交通運輸の便を開き将来人智の開通物産の蕃殖期して俟ち得べし実に我二郡遠大の幸福と云うし豈二郡のみならんや実に国家の幸福なり
(原文旧漢字カナを新字かなに改)
はるか昔に柏原町歴史民俗資料館からいただいていた資料。FAXのヘッダーには2004年11月26日とある。FAXゆえ潰れたり掠れたりして読めないところが多く、無論読めても意味の分からぬ単語などもあって、重要なところだけ拾い読みするのが関の山だった。14年ぶりに引っ張りだしてきてみると、おおお、読める、読めるぞ! まるで飛行石を手にしたムスカ大佐みたいな感じだ。それが嬉しくてテキスト起こしなどしてみた。■はどうしても判読できなかった一字、[]は推定。
前半は企画のいきさつと工費集めの苦労話が中心。工事に関する詳細は後半。抹殺博士が出てくるのも後半だし「来る十月十三日に開道式」もそこに出てくる。すなわちこの文章が明治16年10月13日以前に作成されたものという根拠。大事なとこなのに読み飛ばすな>nagajis。
西旧道は略図のほうにも出てくる言葉で旧鐘ヶ坂峠道のことらしい。隆冬は冬の最も寒い時期のこと。 霄:しょう=空、壌=地、霄壌啻ならずとは天と地の違いよりももっと違うの意。
森岡県令がゴーサインを出した時には土木費は下げ渡し金として国から各県に投下されていた。その直後に下げ渡し金が廃止となって原則地方税で賄うことになり、それは厳しいということで特別に国庫補助を仰いだのだ。このへんは「補助金の社会学」にも書かれていた筈。そうそう後半に巻き立て長が隧道長より短いこととか内部幅が坑門幅より広いことが書かれてある。竣功当時は内部が巻立てられていなかった証拠。ただしその後に巻き立てたうえに坑道一通の巻き直しをしている。昭和の掘り下げで崩落したのはこの煉瓦巻きのはず(「丹波新聞」バックナンバー)。
あと、現地看板では申請の翌年に許可となっているんだけども、丹波氷上郡志の資料編に掲げてある上申書とその返信はどっちも13年だった。だから翌日にはもうOKなんかとおどろいて報告書にはそう書いてたのだ。そっちが間違ってたんだろうか。それとも早とちりか。>そうか、計画は十二年から始まっていて、工費15000円弱と見込んで森土木課長の調査を乞うたのが十二年。その結果3万かかると言われてしまい、東 西 奔走して1/3を集め、残りのを補助してくれと請願したのが13年の上申書なんだ。その返答は確かに翌日あったれども県令とは前々から内諾根回しがあったんだと思う、2/3補助してやるから残りは自分たちで何とかしろ、的な。んで何とかなったので「見込み伺」に繋がっていくわけだ。
概記を読んで改めて郡志を読むと、郡志の記述は概記の端折り書きなのがよくわかる。
14年でこの資料が読めるほどには成長した。嬉しいことだ誇らしいことだ。まったく無駄な七七年ではなかったのね偉いなねかったなねたと、まには自分を褒めてあげよう。
そっか、この時に小野尻峠も改修されたのか。だとするとあの旧道がそうなんだろう。日曜日の探索は地味に連綿があったのだなあ。
何を寝惚けていたのか知らないが工場通覧T9版のデータがごっそり抜けていた。確実に工場だと言える貴重なデータだというのになんというぞんざいな扱い。慌ててテキスト化してExcelに放って表に反映させたら五稜郭煉瓦工場とか上毛煉瓦工場とかここでしか出て来ない工場がいつくも見つかって阿の鼻が叫ぶ喚くである。
大阪近傍では明治30年という年に一つの境があって、この頃に登場した数多の煉瓦工場の中から日本煉瓦とか津守煉瓦とか丹後竹村とかが成長していく。全国的にそういう傾向なんだろうと思っていたけれども、それはどうやら早とちりで、せいぜい西日本にしかあてはまらないようだ。関東ではそこまで明確なマジックナンバーではない。むしろ大正6,7,8年の大戦景気の頃に株式の会社がバカスカ生まれて皆死んでいく。大戦バブルを具現化している。関西ではどうだろう?その頃生まれた工場といえば印南郡辺しか思いつかぬ。大阪煉瓦(二代目)とかもそうかしら。
工場通覧T9を作り終えた後で日本全国商工人名録M25が気になってめくり直してみたら日本煉瓦製造の社章が見つかった。そういえばこれ入れてなかったな。他のはどうなんだろ。とか思って調べ直したら大正時代にも出てるのね商工人名録。こいつには社章屋号の記載がある。それでざっくり眺めてみたら大久保煉瓦工場(大久保清吉)の屋号マルキヨを発掘したりした。白石耐火もあったが若干不鮮明。それっぽいのをでっちあげておく。
商工人名録は東日本よりもむしろ西日本で発見があり。愛知の明治煉瓦の社章を拾ったりーーーこれは長くやっていた工場だからどこかで刻印煉瓦が見つかりそうな気がするーーー平坂煉瓦のもっと鮮明なのを見つけたり。大分県の県章みたいなあのマークは「平」の字を意匠化したものなんだななるほどな。明治煉瓦だけ作って反映させておく。
なんだかんだいって東日本も社章屋号がずいぶん溜まった。ただ屋号印はほとんど出て来ない気がする。北海道のマルコメとかヤマダイとかマルキヨとかは聞かないもんな。それが誰も見てないせいなのか本当に使ってなかったのかは判断しかねるが。
サイトー煉瓦のマルサと和歌山の○サは同じものか否か。函館製瓦の|||と加藤春吉商店の|||と岸和田の|||は。敦賀のミツワは石黒煉瓦なのか片山煉瓦なのか。大正期にもなると舟運隆盛でバラス的に積んで運んだのが出て来そうな気もするのであるが、それでもやっぱり潮岬を回って東西に行き来していた姿は想像しにくい。鉄道でひたすら運んでいったという想像も難い。だいいちそんな長距離をガタガタ揺られて運んでいたら角が欠けまくるだろ。いくら薦で巻いていたとしても角打ったら欠けるに違いなく。
なあ、これ、どう思うよ。
左から西尾市転石(肉厚扇形)、成山第一低部砲台の漢数字印、西尾と石ヶ瀬川橋梁瓦礫の「テー」の添印。それぞれはサイズや太さやトメハネの感じが違うものの、平体のかかったこのサイズの漢数字印という点で似ているように思えてならない。少なくとも京阪神の市街地では同種の刻印を見ない。西尾から運んできたものだったりしないだろうか。
そう考えたほうがいろいろ説明がつく。生石山や深山では並形が主に使われているのに成山だけは作業局形とか。何を表したものかわからない”◯”印が検出されているのも実は西尾と成山と共通したりするのだが、そんなことに気がついているやつはこの世にいないし今までに存在したこともないだろうから意外に思われることもなく耳目を引く発見にもならない。
成山砲台はM23.7.着工M24.8.竣工。西尾士族生産所はM23.8.11.に「その跡地と屑煉瓦」が売却された記録がある(『西尾市史』年表p.555)。ギリギリ間に合ったと考えられなくもなく、あるいは石ヶ瀬川橋梁に様々な東海道線煉瓦が使われていた如く陸軍が以前に購入していた在庫を回したとも考えられる。もともと東洋組は砲台建築用の煉瓦を焼くために始められ、陸軍、宮内省、鉄道局と政府との取引がメインだった節がある。最後の奉公に成山砲台用のを焼いたと考えても不思議ではない(御都合主義の誹りは免れないだろうが)。
京阪神の市街地では中京の製品を見ることは稀。しかし湖東線には間違いなく西尾士族生産所ほか三河の煉瓦および三重勢陽組の製品が使われていた証拠がある。また鉄道もない時代に三河から横須賀まで送って猿島砲台築いたり千代崎砲台作ったり皇居造営に使ったりしているわけだから三河から西へ回漕したっていいだろう。
あとM23~24頃というのが大阪府下の煉瓦工場が不調だった時期にぴしゃりあてはまる。当時最大と目される堺煉化石もその頃に姿を消しているし。あれM22だったか。M20前後の紡績業勃興期に工場が乱立し粗製乱造をしたうえへM22に会計法ができて政府の調達が原則入札制になり指名特命による受注をアテにしていた会社が逃げ出した時期。そうしてM23に日本最初の金融恐慌が発生。煉瓦工場が軒並み畳んで3件とか4件とかになってたんじゃなかったか。
もしそうだとすると少し意識を変える必要がある。市中にも多少は中京煉瓦が入ってきていた可能性はあるだろうがその場所が非常にピンポイントで全体からすれば有意な割合になっていないだけかも知れぬ。湖東線に使われていたとしてもそこにしか使われなかったら市中にはほぼ影響しないだろう。ただし滋賀県下沿道にぽろぽろ転がっているわけだから、それが鉄道構造物の解体瓦礫から来たものか、入ってきたものの余りなのか、採用に乗っかって販路を広げようとしたのか、は考えておかないといけない。
_ オッキライ [いや〜3月ですね〜。廃道本とORJ等でいろいろいそがしいことでしょう、頑張って下さいね。仙台は今雪が降ってます・・・3月なのに・・・]
_ nagajis [ほんま、もう3月ですわ(汗 こっちではサクラソウが咲き始めました。家の近所でも菜の花が咲いてます。日本って狭いようで、全国どこ行っても同じじゃないんですねぇ。]
_ オッキライ [大阪って仙台より暖かいんですね。いいな〜。私はまだ冬眠中です。探索再開は3月下旬ごろかな?]