nagajisの日不定記。
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地図一枚残して了。これでいいのかと思いながら。静物に擬音をつけるというのは(ORJ的に)新しいイメージかもしれない。
廢毒も進めているがちっとも進まん・・・4年末(第5巻)で終わりだろう。ここからもう一年進めるのは無理。
追記、地図完了。UP。
追記。ひとまず4年末まで終えたレ廢-毒。
意味不明の独白なので読解不能かつ不要です。無視してください。
時には人を入れられるような部屋にしたい。誰を入れるというわけでもないが。独り忘年会するか。
つい最近、水晶橋と錦橋は違うことに、ようやく気づいた<馬鹿。長堀や江戸町堀の堰もあんな橋だったんだろうか。そうじゃないだろうな。写真残ってないかなあ。
六甲の砂防ダムという無茶無茶地味なネタもある。やはり一度は行っておきたいところだが、全部回ると間違いなくアレするので、一番古いやつだけでも。
サイパンが陥ち、硫黄島が陥ち、それを足がかりにした都市爆撃が日本を焼け野原にしていた頃。軍施設が集中していた千葉市街もまた例に洩れず爆撃を受けている。なかでも1945年6月10日、7月6日、7月7日の空襲は大規模で、のちに千葉空襲と称された。死者1500人余りと言われる。
昭和11年の初春に滋賀県を辞した村田は、その夏千葉県千葉市寒川新宿1361に引越したらしい。工手学校同窓会誌第38巻8号(昭和11年8月号)に消息が寄せられている。情報に依れば内部名簿に16年まで記録があるというが、その後の消息は会報が欠落しているせいもあって掴めない。
戦後、工手学校が工学院大学と名を変えてからの同窓会誌に、同校同窓会千葉県支部設立の記念総会の模様が載った。昭和30年6月26日開催。村田が生きていれば66歳。当時としては高齢だがあり得ない数字ではない。しかしその席に村田は現れなかった。
間をつなぐ可能性の糸としての千葉空襲。市の総務課にお尋ねしたが死者名簿のようなものは存在しないという。また私のような第三者が戸籍を見ることは−−−事実上不可能だろうという回答もいただいた。
最初から解り切っているのだ。誰だって見ず知らずの第三者に過去を暴かれたくはない。仮令それが何がしかの学の糧になろうとも(なる可能性があろうとも)。それに異義を唱えたって仕方がないことも解っているつもりでいる。
「だが」で継ぐつもりもない。この線が潰えたという記念のために書いておく。と同時に稲敷郡十余島村方面も自然消滅した。
手掛かりとして打ち込むべきハーケンが残りが僅かになってきた。
そもそも村田は母校に対して冷淡なほうであった。新築したばかりの校舎を大正12年の大震災で失った工手学校は、OB連を中心に再建のための寄付を(かなり必至の様相で)呼びかけた。それに対し相当な人数のOBが大なり小なりの喜捨を寄せたが、その名簿の中にも村田の名はない。それ以外のめぼしい集いにも顔を見せた痕跡がない。名もなき潤滑油の一雫にとっては「そうあるべきもの」だったのかも知れぬ。
ていうか急に村田鶴@検索ワードが増えたのは、なしか。