nagajisの日不定記。
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今日代数・歴史を以て中期々末考査終了す。何と愉快なることよ。苦しみて後楽しむとは此の事ならん。十四時五十分より藤崎宮へ皇軍武運長久祈願に行き十七時十分帰る。今日特に戦況なし。たゞ日本側の開戦以来の損害飛行機海軍二八陸軍一八汽船二隻のみなり。印度独立運動興る。香港に於て支那人の廃〔排〕英運動起る。
今日は相当に暖し。午後は訓学字号通信及び教練照準鑑査あり。二度目にして二粍となりぬ。我照準正ならず、撃発にあたりて銃口が揺るゝと。又先般の狭窄射撃良からず。周密の注意の下に落着くべし。随意運動時に防空演習あり。之も亦落着き確かなる判断の下に行動せざるべからず。
ヒトバシラーとなるべくReader8.0を入れてみた。まだ詳しくは使っていないけれど、GPUを使ったレンダリングなんかされているらしくて7.0に比べても早いような気がする(うちのマシンは何世代も前のグラボ・RADEON7500なので最近のだったらもっと早いんだろう。たぶん瞬殺レベルなはず。今のでも十分瞬殺に近いけど)。
ただ、どうも「Back」ボタンが機能しなくなったようだ。バックボタンはフォームのボタンにjavascriptでapps.goBack()を設定しているのだが、フォーム自体がすべて無効にされてしまっているようだ。ちょこちょこ設定を変えてみたものの効果なし。
幸いなことに新しいインターフェイスになって「全画面表示」のボタンが(デフォルトで)つくようになった。Backボタンを使わずにこちらを使えば済むといえば済む。細かくカスタマイズすれば横幅にあわせる表示もできるし、何よりうっとうしいYahoo!ツールバーがなくなったのがいい:-)
しかしバックナンバーCDはそのへんの注釈を入れてなかったよなー。全部7.0のインターフェイスでやっちまった。タイミング悪すぎ>Adobe
地図一枚残して了。これでいいのかと思いながら。静物に擬音をつけるというのは(ORJ的に)新しいイメージかもしれない。
廢毒も進めているがちっとも進まん・・・4年末(第5巻)で終わりだろう。ここからもう一年進めるのは無理。
追記、地図完了。UP。
追記。ひとまず4年末まで終えたレ廢-毒。
意味不明の独白なので読解不能かつ不要です。無視してください。
時には人を入れられるような部屋にしたい。誰を入れるというわけでもないが。独り忘年会するか。
つい最近、水晶橋と錦橋は違うことに、ようやく気づいた<馬鹿。長堀や江戸町堀の堰もあんな橋だったんだろうか。そうじゃないだろうな。写真残ってないかなあ。
六甲の砂防ダムという無茶無茶地味なネタもある。やはり一度は行っておきたいところだが、全部回ると間違いなくアレするので、一番古いやつだけでも。
サイパンが陥ち、硫黄島が陥ち、それを足がかりにした都市爆撃が日本を焼け野原にしていた頃。軍施設が集中していた千葉市街もまた例に洩れず爆撃を受けている。なかでも1945年6月10日、7月6日、7月7日の空襲は大規模で、のちに千葉空襲と称された。死者1500人余りと言われる。
昭和11年の初春に滋賀県を辞した村田は、その夏千葉県千葉市寒川新宿1361に引越したらしい。工手学校同窓会誌第38巻8号(昭和11年8月号)に消息が寄せられている。情報に依れば内部名簿に16年まで記録があるというが、その後の消息は会報が欠落しているせいもあって掴めない。
戦後、工手学校が工学院大学と名を変えてからの同窓会誌に、同校同窓会千葉県支部設立の記念総会の模様が載った。昭和30年6月26日開催。村田が生きていれば66歳。当時としては高齢だがあり得ない数字ではない。しかしその席に村田は現れなかった。
間をつなぐ可能性の糸としての千葉空襲。市の総務課にお尋ねしたが死者名簿のようなものは存在しないという。また私のような第三者が戸籍を見ることは−−−事実上不可能だろうという回答もいただいた。
最初から解り切っているのだ。誰だって見ず知らずの第三者に過去を暴かれたくはない。仮令それが何がしかの学の糧になろうとも(なる可能性があろうとも)。それに異義を唱えたって仕方がないことも解っているつもりでいる。
「だが」で継ぐつもりもない。この線が潰えたという記念のために書いておく。と同時に稲敷郡十余島村方面も自然消滅した。
手掛かりとして打ち込むべきハーケンが残りが僅かになってきた。
そもそも村田は母校に対して冷淡なほうであった。新築したばかりの校舎を大正12年の大震災で失った工手学校は、OB連を中心に再建のための寄付を(かなり必至の様相で)呼びかけた。それに対し相当な人数のOBが大なり小なりの喜捨を寄せたが、その名簿の中にも村田の名はない。それ以外のめぼしい集いにも顔を見せた痕跡がない。名もなき潤滑油の一雫にとっては「そうあるべきもの」だったのかも知れぬ。
ていうか急に村田鶴@検索ワードが増えたのは、なしか。
この寒波で天川村は真っ白らしい。失敗した。都合などあてにせずに勝手に突っ込んでおけばよかった。13日までに少しは溶けてくれるだろうか?
なんとかおわらせた。ここからまた長い・・・。諦めて明日まで作業るか。
頑張って地図まで入れた。この作業で夜が明けてしまったがやはり敗戦処理感がぬぐえない。予め断っていた通り発見に一喜一憂するような探索ではなかったからな。どうやって改善するか・・・って今から何とかなるもんでもないか。
年の瀬が迫るにつれてあれやこれやの泣き言が出てくる。1年積み重なることは有り難いことだがそれに応じた成果が出てるかと言えば決してそんなことはない。また無駄に、無為に1年経っただけじゃないかとしか思えぬ。かといってじゃあどんなことが成果と考えているのか。それもない。どうしたものかと思う。
ぼくは人参となってただただ業務をこなすだけである。
ある程度形になったのでpdf化にかかる。かなりたくさん書いたつもりの導入が20ページくらいに収まりそうな塩梅で、あれ、たったこれだけかよ、と思ってしまう。そりゃそうか……写真がほとんどないんだものな。あれとかこれとか入れておこうか。どうせ後半で出すことになるのだろうけど、そのために秘蔵しておくほどのものでもないだろう。何なら図書館に行ってゲフンゲフンしたっていいんだぜ。
なんでだろうね。他府県のは黄色のが多いんだけど。
そういやキロポストの設置とか形状とかを定めた告示ってあるんだろうか。国道だとシールを貼った三角柱をよく見る。何故か国道42号には多い印象がある。皇居の二重橋の広場にもなんかあった気がするなあ。
明治44年頃に郡上や白鳥や大野の辺りを歩いてはるのだった。向小駄良の子牛を見やれ、は覚えていたけれども道筋が思い出せぬで諦めていたが「美濃越前往来」だったか「越前美濃往来」だったかというタイトル。文庫版全集第3巻に収録。
残念ながら油坂峠は越えていない。郡上から白鳥に入って桧峠で石徹白に入っている。そうして大野に出て。その次も谷汲から蝿帽子峠越えて今庄へ行っている。そうか、製糸工場に出た若い娘が肺病を患って帰郷して青白い生活をしているという話が奥越前の辺りなんだ。
残念ながらその辺のことを書く隙がなかった。無理に入れ込んでも無理が目立つだけ。翁が尾崎弥右衛門のことを知りたがっていたという話も同上。いまは適当な評伝があって手軽に?見られてありがたいことだ。精錬社と面谷鉱山は今一度行って調べてみたいくらいに話題が豊富。モノは残ってないっぽいけど。面谷鉱山では早くから鉱滓煉瓦を作っていたから集落跡のアレがそうなんだろうと思う。再履修兼ねていつかまた行ってみるかな。
うーん、やっぱり畢竟は自身の経験のための旅なのであって、食った飯をインスタに上げるのとか、写真をtweetするための旅と、如何程も変わらなんだ。人の旅にケチつける分、ヨリ下衆いだけではないか>nagajis。人はなんで旅をするんだろう。旅に出たくなるんだろう。その思い出を語ったり写したりしたくなるのはなんでなんだろう。いずれ消えてなくなる我が身のために研鑽を積んでも無意味じゃないのかね。遺して何になるのだね。そういうのはもっと適任な人に任せたほうがいいんじゃないのか。素人が関わったって食い散らかしてわけわかんなくするだけじゃないのかね>おれ。すでに随分食い散らかしているので今は反省の気分のほうが強い。
近いうちにリストをアップデートしてそれをお渡ししたほうがはええんじゃねえかと思ったりもしたが、そうだった、集成2018を加除したほうがわかりやすいだろう。ものの写真がないと判断つかないだろう。関西だけにするのかな、それとも全国集められるだけ集めるのだろうか。会場が関西だから関西だけでも十分だと思うけれど。
東京行った時にT,Bとか日本煉瓦とか回収しとけばなあ……と一瞬だけ思った。これ以上煉瓦を増やすなと。他エリアに手を出すとほんとに収拾つかなくなるし第一ただのコレクターに堕ちてしまうではないか。明日死んでも人様にあまり迷惑がかからないようにしておかねばならぬ。
集成2018から何か増えたっけ?桂川一式?入れた気がするな。湯浅に行った時あたりから?丸亀から? むしろ記述の訂正が多くて大変そうだ。
続きをやろうと張り切って帰宅するがまずは腹ごしらえだ腹が減っては戦はできぬというわけで晩飯を食えば途端に眠くなってしまいふあふあと生欠伸をしながら書く破目に陥ってちっとも進まない。同じことをもう1000回以上もやっている。お前馬鹿だろ。
そういう時は風呂に入るとか[禁則事項です]とかでリセットすることができる場合がある。両方共試してみたら多少は眠気を減じることができた。そうして頑張って進めた。残り2/5といったところ。うんやっぱり短くなりそうだ。苦労とページ数は比例しない。
この期に及んで隧道の竣工年を探り当てた。鷹を括って当たっていなかった県史のほうにちゃっかり載っていたのだ。見つかってよかった。M26からの五か年継続土木事業の時ではなくM30に単独でと知り、それでああなるほどと納得した。最初は桟橋かなんかで迂回していたのがM28の大雨で破損し同じ時に流失した琴洞橋の復旧工事と合わせて施行されてそれで琴洞橋の開通記念式が美濃道の完成記念式典っぽく実施されたんだろう。といった具合に短くするほうにはいくらでも短く書ける。これで必要十分に思える。必要以上に引き伸ばし引き伸ばし書くのは永久にできまい。そうして上の気付きはもうすでに入れ込むスペースがない。
道路の改修史はまこと不思議なものである。改修が行なわれた結果生まれた道は眼前の事実として存在しているにも関わらず、いざその改修の年月を調べようとすると五里霧中の向こうにあってはっきり認識することができない。その霧の中を探り探りしていけば多少記録が出てくるけれども甲の記録と乙の記録が一致しないなんていうことがザラで大枠すら合ってないことさえある。第○条道路とかいう専門用語がさも一般常識のような扱いで使われていたりする。それをそういうものとして併列記するとか知ったつもりで丸投げ転記してもいいんだろうけどそれじゃあ俺の役目がない。甲乙丙丁天地人の資料をすり合わせて用語を解読して背景まで迫らないと甲斐がない。そこまでして初めて道が経験してきた歴史が明らかにできたと言えるだろうし自分自身の理解も深まるというものだ。そういうのをしてきたお陰で今回も随分突っ込んだ改修史が回収できたと思う。但し今回はそれで力を使い果たした感がある。県議会史まで踏み込んでいたらもっと面白い歴史に出会えただろう。美濃街道はそこまでできる格好のケースであったのだということにpdf作成段階になって気づいてしまったのは愚かである。