nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
いままで使っていた携帯ラジオがダメダメになってしまったので新しいのを購入した。これくらいの娯楽は許されるだろ。
新調したラジオ980えんはいいぞ! アンテナがついてて音もクリアー! FMも聞けるんだ!
・・・という余計な買い物に気を取られてA4用紙買ってくるのを忘れた・・・今から行ってくるくる。
急に不安になって書き足しをしてみたが、肝心なところがちっとも進まない。そんだけしか思い入れがないってことか。
考えてみればごくごく当然だということに改めて気づかされたことが多かった。それを改めて書くのが愚かしい。が、そういう愚かな者という意識で書けばよいだけの話だ。ますます独言っぽい記事になりそうだが元々そんな記事だとも思う<こういう行ったり来たりも多いよね。どっちかにしてしまえたら気が楽なんだけどなぁ。
あと、昨秋の訪問をどう入れ込むか。流れで峠まで書いてしまったおかげでそれ以外が挟めない。範囲も上北山側だから次回に回すのが無難。
閲覧申請通過の連絡。急ぐ必要がなくなったので少し先にする。旧旧市町村名のわかる資料を用意するの、忘れないように。それか現地で吟味するのは諦めて撮影に専念するか。むしろ県議会議事録に注力したい。泊まり込むくらいの勢いで。
/.Jを見ていると日本の議論は相手の欠点を見い出すところから始まるのだなあとつくづく思う。や、それが悪とか外国は云々いうのではない。そういう国民性なのだと思うし、厳しい淘汰を経たものだからこそ日本製品が海外に通用したりするのだと思う。自分だって最初に気づくのはアラだ。確かこれは誰かが言ってたことなのでボソと呟くに留めておく。
そういう意識がどこから始まっているのか気になるところ(いち民俗学好きとして。本当は民族学の範疇だと思うけれど)。和を尊ぶのを是とする、みたいな言い方がされる一方でネットに罵詈雑言が溢れていることとも関係するのだろうな。ネット=個であって帰属する集団ではないということかも知れない。集団という足枷を外された個が取る暴発行動、みたいな。そもそも戦争後から集団への帰属意識は薄れていると思うし、それ以前から個の突出はあったろうけれども。判官贔屓だとか心中物の流行だとかはそのよい例になりはしないか。個人崇拝の最たるものだし。
ちょっとどうかなと思うことに何かを加えて良いものにする労力と、貶してポイする労力をくらべれば、後者のほうがはるかに小さな労力で済む。やりやすいといえばそれまで。しかしそういう厳しい淘汰を経たものは真にいいものだろうと思う。頑張ろう頑張ろう。とか思いつつ錬る6日。
釘を拾ってきて針金巻いて鉱石ラジオを作るのだ。<br>これなら電池もいらんぞ。
そんなぁ・・・(しくしく)