nagajisの日不定記。
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今回OFF探索の対象とする四日市製紙軌道(大台林業軌道)は、大台ヶ原に破壊を齎し、蛇蝎のごとくに嫌われている感がある大正期伐採の“立役者”であった。みたいな書き出しで書いてみるが余計にわからんな。うん。
大台ヶ原の東半分(いわゆる東大台と呼ばれるエリア・正木ヶ原牛石ケ原といった辺り)は大正時代に一度丸裸にされている。四日市製紙という製紙会社に買収され、トウヒやツガなどを中心とする針葉樹の原生林が伐採された(伐採は四日市製紙がこのためだけに設立した大台林業株式会社という会社が行なっている。ちなみに今も同名の会社があるが別物だろう)。
付近山林は上北山村の所有するものだったが、大正5年?に四日市製紙に買収され、立木がことごとく伐採された。買収された山林は692町歩、尺〆で106万8000本相当の原生林。特にシオカラ谷には見事なトウヒ原生林で、目通し6尺とか1丈とかいう大径木がそこここにあったらしい。それも尽く切り倒された。牛木ケ原や正木ヶ原の辺りはいまだ当時の姿には再生していないと聞く。
この伐採のことは夙に有名だが、じゃあその伐採した木をどうやって運んだ? という辺りまで考える人は少ないようだ。ヒネクレ者のnagajisはそのへんの興味が大台ヶ原という山への興味のきっかけなのだから捻けていると言わざるを得ない。それはまあいいとして、当時土倉道(筏場道)か小橡からの参詣道しかなかった大台ヶ原から、どうやって3尺〜6尺〆もの巨木を運んだか。その答えが今回の探索対象というわけだ。
はっきりした道筋は未だよくわからない。奈良県に提出された資料によれば「木材搬出道路」だが実際はトロ軌道であったことは確か。例えばここやここなんかで当時の写真を見ることができる。
シオカラ谷の左岸を起点に、台地状になった東大台の中腹を半時計回りに回る搬出道路を作り、堂倉山の南を経て三重県側へ搬出するという流れのルート。堂倉山より東は尾根伝いに軌道・インクラを伸ばし、最後に索道で銚子発電所の辺りへ下ろしたらしい。全長は6800間。
今回探索するのはそのうちの奈良県側2305間だ。この区間に限って言えば工事設計書によって石垣の場所さえわかるのだが、いかんせん実地との突き合わせがうまくいかない。特に大蛇グラの隧道とその先の土工が。
奈良県側の沿線には3つの難所があったと推定される。大蛇グラと蒸籠グラ?に穿たれた隧道。シオカラ谷から蒸籠グラにかけての断崖。地味に今の興味は後者にある。そこまでして搬出する価値ありと判断されたのだろうか。ともかく、とんでもない場所だ。
探索は堂倉山の側から時計回りに回って隧道へ向かう。隧道が閉塞している場合はジ・エンドと何度か書いたがここから上へ上がった人もいるようだ。上がっても観光客たくさんの遊歩道だと思うのでできれば避けたい。ともかくこのトロ道でシオカラ谷まで行けるものか。そうしてその先にあるものが何なのか。確認したいのよ。
トロ道自体はまだ存在して、歩いた人の記録もネットにある(ようだ。私は悔しいので見ていない)。新奇性はないが、大台に興味をもつきっかけとなった四日市製紙の伐採がどんなものであったのか見てみたい。自然と人の営みの接点みたいなもの@大正を見てみたい。
実際のところ大台ヶ原周辺の伐採は四日市製紙よりも先に土倉庄三郎が行なっている。大杉谷西谷の原生林を買い受け、伐採し、その伐材を運び出すために筏場道(土倉街道)は作られた。その伐採と四日市製紙のそれとは本質的に変わらないはずだが、なぜこうも扱いが違うのか。庄三郎はそれをただ搬出路とするだけでなく船津にまで伸ばして一般に供した功績があるだろうが、それとて後の大杉谷国有林伐採につながったのだから。もし四日市製紙の破壊を怒るなら土倉翁の業績も貶さなければならぬ。現場に立って何を考えるか、行って確かめてみたい。
まぁ、なんとなくですが材木目的とパルプ目的の伐採では<br>やり方が大きく違うような気がします。<br>たとえば皆伐をやったのでは。。。
ご明察です、当初は80年期の自然更生輪伐だったようですが、実際は皆伐に近いものだったとか。そのくせ運び出す費用がなくて、土場周辺に放置されたものも多いと聞いています。