nagajisの日不定記。
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教練は我等のなす仕事の中、最も厳粛に行い、体操はのびヽと剣術は真剣に行えと。真に然りと信ず。笑いつゝ教練をするも能率上らず。かたくなり体操するも上達せぬのみならず利あらず。剣術は人を切る術なる故真剣なるを要す。二千米を七分五十一秒にて走りたり。然しきつからず。切磋会の結果自然の中に行われつゝあり、これいかんなり。
〔nagajis:日付が間違っているが訂正されず。以降しばらく続く〕
近日訓育班全員総って緊張の模様あり。切磋の賜なり。
校外演習にて八景水谷に至り歩哨動作を習う。今日のは実に実戦的に感じたり。寒意熱殺にて一冬貫く覚悟を要す。
参加表明を伺っているみなさんにメールを送りました(今さら!という感もあるが)。ある程度固まったらここにも告知。たぶん24日に登るという方向になるんじゃないかしら。
このOFFでネタを仕入れたらあとは来春まで大きなイベントはない(はず)。その間にCD#2を片付けられるか。
今回OFF探索の対象とする四日市製紙軌道(大台林業軌道)は、大台ヶ原に破壊を齎し、蛇蝎のごとくに嫌われている感がある大正期伐採の“立役者”であった。みたいな書き出しで書いてみるが余計にわからんな。うん。
大台ヶ原の東半分(いわゆる東大台と呼ばれるエリア・正木ヶ原牛石ケ原といった辺り)は大正時代に一度丸裸にされている。四日市製紙という製紙会社に買収され、トウヒやツガなどを中心とする針葉樹の原生林が伐採された(伐採は四日市製紙がこのためだけに設立した大台林業株式会社という会社が行なっている。ちなみに今も同名の会社があるが別物だろう)。
付近山林は上北山村の所有するものだったが、大正5年?に四日市製紙に買収され、立木がことごとく伐採された。買収された山林は692町歩、尺〆で106万8000本相当の原生林。特にシオカラ谷には見事なトウヒ原生林で、目通し6尺とか1丈とかいう大径木がそこここにあったらしい。それも尽く切り倒された。牛木ケ原や正木ヶ原の辺りはいまだ当時の姿には再生していないと聞く。
この伐採のことは夙に有名だが、じゃあその伐採した木をどうやって運んだ? という辺りまで考える人は少ないようだ。ヒネクレ者のnagajisはそのへんの興味が大台ヶ原という山への興味のきっかけなのだから捻けていると言わざるを得ない。それはまあいいとして、当時土倉道(筏場道)か小橡からの参詣道しかなかった大台ヶ原から、どうやって3尺〜6尺〆もの巨木を運んだか。その答えが今回の探索対象というわけだ。
はっきりした道筋は未だよくわからない。奈良県に提出された資料によれば「木材搬出道路」だが実際はトロ軌道であったことは確か。例えばここやここなんかで当時の写真を見ることができる。
シオカラ谷の左岸を起点に、台地状になった東大台の中腹を半時計回りに回る搬出道路を作り、堂倉山の南を経て三重県側へ搬出するという流れのルート。堂倉山より東は尾根伝いに軌道・インクラを伸ばし、最後に索道で銚子発電所の辺りへ下ろしたらしい。全長は6800間。
今回探索するのはそのうちの奈良県側2305間だ。この区間に限って言えば工事設計書によって石垣の場所さえわかるのだが、いかんせん実地との突き合わせがうまくいかない。特に大蛇グラの隧道とその先の土工が。
奈良県側の沿線には3つの難所があったと推定される。大蛇グラと蒸籠グラ?に穿たれた隧道。シオカラ谷から蒸籠グラにかけての断崖。地味に今の興味は後者にある。そこまでして搬出する価値ありと判断されたのだろうか。ともかく、とんでもない場所だ。
探索は堂倉山の側から時計回りに回って隧道へ向かう。隧道が閉塞している場合はジ・エンドと何度か書いたがここから上へ上がった人もいるようだ。上がっても観光客たくさんの遊歩道だと思うのでできれば避けたい。ともかくこのトロ道でシオカラ谷まで行けるものか。そうしてその先にあるものが何なのか。確認したいのよ。
トロ道自体はまだ存在して、歩いた人の記録もネットにある(ようだ。私は悔しいので見ていない)。新奇性はないが、大台に興味をもつきっかけとなった四日市製紙の伐採がどんなものであったのか見てみたい。自然と人の営みの接点みたいなもの@大正を見てみたい。
実際のところ大台ヶ原周辺の伐採は四日市製紙よりも先に土倉庄三郎が行なっている。大杉谷西谷の原生林を買い受け、伐採し、その伐材を運び出すために筏場道(土倉街道)は作られた。その伐採と四日市製紙のそれとは本質的に変わらないはずだが、なぜこうも扱いが違うのか。庄三郎はそれをただ搬出路とするだけでなく船津にまで伸ばして一般に供した功績があるだろうが、それとて後の大杉谷国有林伐採につながったのだから。もし四日市製紙の破壊を怒るなら土倉翁の業績も貶さなければならぬ。現場に立って何を考えるか、行って確かめてみたい。
郡制廃止に伴う県道追加認定。出典は三重県令規類纂[第1冊]第1綴。カナ旧字をかな新字に変更、[]は明らかな脱字を補完したもの。大正8年旧道路法のときの認定は松波さんの「日本の道」道路法令集IIを参照されたし。
他路線との重用が多く、総延長の増加を押さえて数を水増しする意図が見え隠れする感じ。
●府県道路線追加認定
(大正十二年四月十日告示第百五十四号)
大正十二年四月一日府県道の路線左の通追加認定し同日其の供用を開始せり
四日市多度線 四日市市より桑名郡多度村に達する路線 起点 四日市市 経過地 大泉原四日市線重用(三重郡八郷村に於て分岐)員弁郡久米村大字赤尾、赤尾、桑名彦根線重用(員弁郡七和村大字星川に於て分岐)桑名郡古浜村、多度大泉原線重用 終点 桑名郡多度村 桑名町停車場線 桑名郡桑名町より桑名町停車場に達する路線 起点 桑名郡桑名町 経過地 津岐阜線重用(桑名郡桑名町大字今一色寺町に於て分岐) 終点 桑名町停車場 菰野大泉原線 三重郡菰野村より員弁郡大泉原村に達する路線 起点 三重郡菰野村 経過地 四日市八日市線重用(三重郡菰野村大字菰野に於て分岐)三重郡鵜川原村、同郡保々村大字中野、員弁郡大長村大字南大社、大泉原四日市線重用 終点 員弁郡大泉原村 多度北大社停車場線 桑名郡多度村より北大社停車場線に達する路線 起点 桑名郡多度村 経過地 四日市多度線重用(桑名郡古浜村大字中猪飼に於て分岐)員弁郡神田村 終点 北大社停車場 北大社停車場稲部線 北大社停車場より府県道大泉原四日市線に達する路線 起点 北大社停車場 経過地 ○ 終点 員弁郡稲部村(府県道大泉原四日市線) 大泉原梅戸井線 員弁郡大泉原村より同郡梅戸井村に達する路線 起点 員弁郡大泉原村 経過地 大泉原四日市線重用(員弁郡大泉原村大字北金井に於て分岐)員弁郡大泉村大字西方経由 終点 員弁郡梅戸井村 八日市桑名線 滋賀県蒲生郡八日市町より桑名郡桑名町に達する路線 起点 滋賀県界員弁郡石榑村 経過地 四日市八日市線重用(員弁郡石榑村に於て分岐)員弁郡三里村大字高柳経由、桑名彦根線重用 終点 桑名郡桑名町 梅戸井桑名線 員弁郡梅戸井村より桑名郡桑名町に達する路線 起点 員弁郡梅戸井村 経過地 大泉原梅戸井線重用(員弁郡梅戸井村大字梅戸に於て分岐)大泉原四日市線重用(員弁郡大長村大字長深に於て分岐)員弁郡久米村大字志知、四日市多度線重用(員弁郡久米村大字赤尾に於て分岐)桑名郡桑部村桑名彦根線重用 終点 桑名郡桑名町 富洲原桑名線 三重郡富洲原町より桑名郡桑名町に達する路線 起点 三重郡富洲原町 経過地 三重郡川越村大字高松、国道一号線重用 終点 桑名郡桑名町 富洲原富田線 三重郡富州原町より同郡富田町に達する路線 起点 三重郡富州原町 経過地 富洲原桑名線重用(三重郡富洲原村大字松原に於て分岐)国道一号線重用 終点 三重郡富田町 富洲原富田停車場線 三重郡富洲原町より富田停車場に達する路線 起点 三重郡富洲原町 経過地 富洲原富田線重用(三重郡富洲原町大字松原に於て分岐) 終点 富田停車場 菰野停車場線 三重郡菰野村より菰野停車場に達する路線 起点 三重郡菰野村 経過地 四日市八日市線重用(三重郡菰野村大字菰野に於て分岐) 終点 菰野停車場 富田浜停車場茂福線 富田原停車場より国道一号線に達する路線 起点 富田浜停車場 経過地 ○ 終点 三重郡富田町大字茂福(国道一号線) 梅戸井四郷線 員弁郡梅戸井村より三重郡四郷村に達する路線 起点 員弁郡梅戸井村 経過地 梅戸井桑名線、菰野大泉原線重用(三重郡鵜川原村大字下鵜川原に於て分岐)三重郡神前村、四日市八日市線重用(三重郡川島村大字川島に於て分岐)三重郡川島村 終点 三重郡四郷村 四郷神戸線 三重郡四郷村より河芸郡神戸町に達する路線 起点 三重郡四郷村 経過地 梅戸井四郷線重用(三重郡四郷村大字八王寺に於て分岐)三重郡内部村大字波木、国道二号線重用(三重郡内部村大字釆女に於て分岐)河芸郡河曲村、神戸石薬師線重用 終点 河芸郡神戸町 石薬師神戸線 鈴鹿郡石薬師村より河芸郡神戸町に達する路線 起点 鈴鹿郡石薬師村 経過地 国道二号路線重用(鈴鹿郡石薬師村大字石薬師に於て分岐)河芸郡河曲村大字山部経由四郷神戸線重用 終点 河芸郡神戸町 庄野加佐登停車場線 鈴鹿郡庄野村より加佐登停車場に達する路線 起点 鈴鹿郡庄野村 経過地 国道二号路線重用(鈴鹿郡庄野村大字庄野に於て分岐) 終点 加佐登停車場 亀山椋本線 鈴鹿郡亀山町より河芸郡椋本村に達する路線 起点 鈴鹿郡亀山町 経過地 亀山停車場線重用(鈴鹿郡亀山町大字西町に於て分岐)鈴鹿郡亀山町大字安知本経由津大津線重用 終点 河芸郡椋本村 神戸伊勢若松停車場線 河芸郡神戸町より伊勢若松停車場に達する路線 起点 河芸郡神戸町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡玉垣村大字肥田に於て分岐)河芸郡玉垣村大字土師 終点 伊勢若松停車場 伊勢若松停車場若松線 伊勢若松停車場より白子四日市港線に達する路線 起点 伊勢若松停車場 経過地 ○ 終点 河芸郡若松村(府県道白子四日市港線) 神戸千代崎港線 河芸郡神戸町より千代崎港に達する路線 起点 河芸郡神戸町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡玉垣村大字玉垣に於て分岐)河芸郡玉垣村大字岸岡経由、白子四日市港線重用(河芸郡若松村大字南若松に於て分岐) 終点 千代崎港 河原田停車場一ノ宮線 河原田停車場より河芸郡一ノ宮村に達する路線 起点 河原田停車場 経過地 国道一号路線重用(河芸郡一ノ宮村大字高岡に於て分岐)河芸郡一ノ宮村大字池田経由 終点 河芸郡一ノ宮村 白子亀山線 河芸郡白子町より鈴鹿郡亀山町に達する路線 起点 河芸郡白子町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡白子町大字江島に於て分岐)河芸郡稲生村大字野町新田、鈴鹿郡国府村大字国府国道二号路線重用 終点 鈴鹿郡亀山町 神戸上野線 河芸郡神戸町より同郡上野村に達する路線 起点 河芸郡神戸町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡神戸町大字地子町に於て分岐)河芸郡稲生村、同郡栄村大字□永、国道一号路線重用 終点 河芸郡上野町 白子稲生線 河芸郡白子町より同郡稲生村に達する路線 起点 河芸郡白子町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡白子町大字白子に於て分岐)河芸郡稲生村大字野村新田経由 終点 河芸郡稲生村 白子停車場線 河芸郡白子町より白子停車場に達する路線 起点 河芸郡白子町 経過地 国道一号路線重用(河芸郡白子町大字白子に於て分岐) 白塚一身田線 河芸郡白塚村より同郡一身田町に達する路線 起点 河芸郡白塚村 経過地 河芸郡一身田町大字平野経由、上野一身田線重用 終点 河芸郡一身田町 神戸亀山線 河芸郡神戸町より鈴鹿郡亀山町に達する路線 起点 河芸郡神戸町 経過地 神戸石薬師線重用(河芸郡神戸町大字西条に於て分岐)河芸郡飯野村大字三日市、鈴鹿郡国府村大字平野、国道二号路線重用 終点 鈴鹿郡亀山町 上野伊勢上野停車場線 河芸郡上野村より伊勢上野停車場に達する路線 起点 河芸郡上野村 経過地 国道一号路線重用(河芸郡上野村大字上野に於て分岐) 終点 伊勢上野停車場 椋本津線 河芸郡椋本村より津市に達する路線 起点 河芸郡椋本村 経過地 安濃郡安西村、同郡安濃村、同郡安東村、新町津停車場線、津奈良線重用 終点 津市 新町久居線 安濃郡新町より一志郡久居町に達する路線 起点 安濃郡新町 経過地 津奈良線重用(安濃郡新町大字古河に於て分岐)安濃郡神戸村大字半田、津名張線重用 終点 一志郡久居町 久居一身田線 一志郡久居町より河芸郡一身田町に達する 起点 一志郡久居町 経過地 津名張線重用(一志郡久居町字寺町に於て分岐)安濃郡神戸村大字野田、津奈良線重用(安濃郡櫛形村大字殿村に於て分岐)椋本津線重用(安濃郡安東村に於て分岐)安濃郡安東村大字川辺、椋本一身田線重用 終点 河芸郡一身田町 上野久居線 阿山郡上野町より一志郡久居町に達する路線 起点 阿山郡上野町 経過地 津奈良線重用(安濃郡高宮村大字五百野に於て分岐)一志郡稲葉村、津名張線重用 終点 一志郡久居町 久居松ヶ崎線 一志郡久居町より同郡松ヶ崎村に達する路線 起点 一志郡久居町 経過地 久居家城線重用(一志郡久居町字本町に於て分岐)一志郡桃園村、同郡豊田村、国道一号路線重用(一志郡松ヶ崎村大字三渡に於て分岐) 終点 一志郡松ヶ崎村 松ヶ崎松阪線 一志郡松ヶ崎村より飯南郡松阪町に達する路線 起点 一志郡松ヶ崎村 経過地 飯南郡港村大字大平尾経由、国道一号路線重用 終点 飯南郡松阪町 松ヶ崎六軒停車場線 一志郡松ヶ崎村より六軒停車場に達する路線 起点 一志郡松ヶ崎村 経過地 久居松ヶ崎線重用(一志郡天白村に於て分岐) 終点 六軒停車場 波瀬久居線 一志郡波瀬村より同郡久居町に達する路線 起点 一志郡波瀬村 経過地 一志郡大井村大字井関、久居家城線重用 終点 一志郡久居町 下ノ川波瀬線 一志郡下ノ川村より同郡波瀬村に達する路線 起点 一志郡下ノ川村 経過地 ○ 終点 一志郡波瀬村 阿保家城線 名賀郡阿保町より一志郡家城村に達する路線 起点 名賀郡阿保町 経過地 津名張線重用(名賀郡阿保町大字阿保に於て分岐)名賀郡種生村同郡矢持村大字霧生一志郡境村 終点 一志郡家城村 松阪大淀線 飯南郡松阪町より多気郡大淀村に達する路線 起点 飯南郡松阪町 経過地 国道一号路線重用(飯南郡松阪町大字松阪愛宕町に於て分岐)飯南郡朝見村、同郡機殿村大字魚見、相可大淀線重用 終点 多気郡大淀村 松阪丹生線 飯南郡松阪町より多気郡丹生村に達する路線 起点 飯南郡松阪町 経過地 津木ノ本線重用(飯南郡花岡村大字駅部田に於て分岐)飯南郡花岡村大字山室、同郡茅広江村、多気郡津田村大字津留 終点 多気郡丹生村 相可丹生線 多気郡相可町より同郡丹生村に達する路線 起点 多気郡相可町 経過地 多気郡津田村大字牧経由、松阪丹生線重用 終点 多気郡丹生村 斎宮田丸線 多気郡斎宮村より度会郡田丸町に達する路線 起点 多気郡斎宮村 経過地 国道一号路線重用(多気郡斎宮村大字斎宮に於て分岐)多気郡明星村大字有爾中吉津田丸線重用 終点 度会郡田丸町 斎宮大淀線 多気郡斎宮村より同郡大淀村に達する路線 起点 多気郡斎宮村 経過地 国道一号路線重用(多気郡明星村に於て分岐)多気郡斎宮村大字平尾、宇治山田大淀線重用 終点 多気郡大淀村 大淀北浜線 多気郡大淀村より度会郡北浜村に達する路線 起点 多気郡大淀村 経過地 宇治山田大淀線重用(度会郡北浜村大字東大淀に於て分岐) 終点 度会郡北浜村 北浜宇治山田線 度会郡北浜村より宇治山田市に達する路線 起点 度会郡北浜村 経過地 度会郡豊浜村、同郡小俣村字下小俣国道一号路線重用 終点 宇治山田市 小俣田丸線 度会郡小俣村より同郡田丸町に達する路線 起点 度会郡小俣村 経過地 小俣宮川停車場線重用(度会郡小俣村字稲場に於て分岐)度会郡有田村大字湯田、斎宮田丸線重用 終点 度会郡田丸町 小俣宮川停車場線 度会郡小俣村より宮川停車場に達する路線 起点 度会郡小俣村 経過地 国道一号路線重用(度会郡小俣村字西町に於て分岐) 終点 宮川停車場 田丸停車場線 度会郡田丸町より田丸停車場に達する路線 起点 度会郡田丸町 経過地 ○ 終点 田丸停車場 吉津田丸線 度会郡吉津村より同郡田丸町に達する路線 起点 度会郡吉津村 経過地 宇治山田吉津線重用(度会郡小川郷村大字川口に於て分岐)度会郡内城田村 終点 度会郡田丸町 宇治二見線 宇治山田市大字今在家町より度会郡二見町に達する路線 起点 宇治山田市大字今在家町 経過地 宇治山田波切線重用(宇治山田市大字舘町に於て分岐)度会郡四郷村大字中村、宇治山田鳥羽線重用 終点 度会郡二見町 錦滝原線 北牟婁郡錦村より度会郡滝原村に達する路線 起点 北牟婁郡錦村 経過地 吉津長島線重用(度会郡柏崎村大字崎に於て分岐)津木本線重用 終点 度会郡滝原村 島津滝原線 度会郡島津村より同郡滝原村に達する路線 起点 度会郡島津村 経過地 吉津長島線重用(度会郡島津村大字古和浦に於て分岐)度会郡柏崎村大字柏野経由、津木ノ本線重用 終点 度会郡滝原村 五ケ所宿田曽線 度会郡五ケ所村より同郡宿田曽村に達する路線 起点 度会郡五ケ所村 経過地 五ヶ所鳥羽線重用(度会郡神原村大字神津佐に於て分岐)度会郡神原村大字神津佐、志摩郡浜島町大字南張 終点 度会郡宿田曽村 的矢波切線 志摩郡的矢村より波切村に達する路線 起点 志摩郡的矢村 経過地 鳥羽的矢線重用(志摩郡的矢村大字的矢に於て分岐)志摩郡的矢村大字三ヶ所経由、志摩郡国府村、同郡甲賀村、同郡志島村、同郡畔名村、同郡名田村、宇治山田波切線重用 終点 志摩郡波切村 上野多羅尾線 阿山郡上野町より滋賀県甲賀郡多羅尾村に達する路線 起点 阿山郡上野町 経過地 津奈良線重用(阿山郡小田村字南代に於て分岐)阿山郡新居村 島ヶ原停車場月瀬線 島ヶ原停車場より奈良県添上郡月瀬村に達する路線 起点 島ヶ原停車場 経過地 津奈良線重用(阿山郡島ヶ原村字川南に於て分岐)名賀郡花垣村大字白樫、上野月瀬線重用 終点 奈良県界名賀郡花垣村 上野丹波市線 阿山郡上野町より奈良県山辺郡丹波市町に達する路線 起点 阿山郡上野町 経過地 上野月瀬線重用(名賀郡花垣村大字白樫に於て分岐)名賀郡花垣村大字治田 終点 奈良県界名賀郡花垣村 家城上野線 一志郡家城村より阿山郡上野町に達する路線 起点 一志郡家城村 経過地 阿保家城線重用(一志郡境村大字小杉に於て分岐)一志郡境村大字大原、名賀郡矢持村大字奥鹿野、津名張線重用(名賀郡上津村大字伊勢地に於て分岐)名賀郡比自岐村津奈良線重用 終点 阿山郡上野町 名張赤目滝線 名賀郡名張町より同郡滝川村赤目滝に達する路線 起点 名賀郡名張町 経過地 名張初瀬線重用(名賀郡箕曲村大字中村に於て分岐)名賀郡滝川村(赤目滝) 名張箕曲線 名賀郡名張町より同郡箕曲村に達する路線 起点 名賀郡名張町 経過地 鍛冶町橋経由 終点 名賀郡箕曲村 名張停車場線 名賀郡名張町より名張停車場に達する路線 起点 名賀郡名張町 経過地 名張初瀬線重用(名賀郡名張町字下横町に於て分岐) 終点 名張停車場 長島長島港線 北牟婁郡長島町より長島港に達する路線 起点 北牟婁郡長島町 経過地 津木本線重用(北牟婁郡長島町字上本町に於て分岐) 終点 長島港 菰野湯ノ山線 三重郡菰野村より同村湯ノ山に達する路線 起点 三重郡菰野村 経過地 ○ 終点 三重郡菰野村(湯ノ山) 椿四郷線 鈴鹿郡椿村より三重郡四郷村に達する路線 起点 鈴鹿郡椿村 経過地 鈴鹿郡椿村大字大野字野田経由、三重郡水沢村、同郡小山田村大字小山、梅戸井四郷線重用 終点 三重郡四郷村 小山田四郷線 三重郡小山田村より同郡四郷村に達する路線 起点 三重郡小山田村 経過地 椿四郷線重用 終点 三重郡四郷村 小山田石薬師線 三重郡小山田村より鈴鹿郡石薬師村に達する路線 起点 三重郡小山田村 経過地 小山田四郷線重用(三重郡小山田村大字山田に於て分岐)鈴鹿郡久間田村、国道二号路線重用 終点 鈴鹿郡石薬師村 椿加佐登停車場線 鈴鹿郡椿村より加佐登停車場に達する路線 起点 鈴鹿郡椿村 経過地 菰野亀山線重用(鈴鹿郡深伊沢村大字伊船に於て分岐)鈴鹿郡高津瀬村、石薬師加佐登停車場線重用 終点 加佐登停車場 大三松阪線 一志郡大三村より飯南郡松阪町に達する路線 起点 一志郡大三村 経過地 津名張線重用(一志郡大三村大字二本木に於て分岐)久居家城線重用(一志郡高岡村大字田尻に於て分岐)一志郡川合村、同郡中川村、同郡中原村大字黒野経由、国道一号路線重用 終点 飯南郡松阪町 大三家城線 一志郡大三村より同郡家城村に達する路線 起点 一志郡大三村 経過地 広瀬橋経由、久居家城線重用 終点 一志郡家城村 粥見八幡線 飯南郡粥見村より一志郡八幡村に達する路線 起点 飯南郡粥見村 経過地 津和歌山線重用(飯南郡宮前村大字赤桶に於て分岐)一志郡八幡村大字川上、家城松山線重用 終点 一志郡八幡村 粥見滝原線 飯南郡粥見村より度会郡滝原村に達する路線 起点 飯南郡粥見村 経過地 津和歌山線重用(飯南郡粥見村大字粥見に於て分岐)飯南郡粥見村大字粥見字下相津経由、津木ノ本線重用 終点 度会郡滝原村 東黒部松阪線 多気郡東黒部村より飯南郡松阪町に達する路線 起点 多気郡東黒部村 経過地 飯南郡西黒部村松阪大淀線重用 終点 飯南郡松阪町 東黒部相可線 多気郡東黒部村より同郡相可町に達する路線 起点 多気郡東黒部村 経過地 飯南郡機殿村大字井口中、国道一号路線重用(飯南郡漕代村大字早馬瀬に於て分岐)飯南郡漕代村大字法田、相可大淀線重用 終点 多気郡相可町 東黒部大淀線 多気郡東黒部村より同郡大淀村に達する路線 起点 多気郡東黒部村 経過地 東黒部松阪線重用(多気郡東黒部村大字東黒部に於て分岐)多気郡下御糸村大字行部、相可大淀線重用 終点 多気郡大淀村 引本桂城線 北牟婁郡引本町より同郡桂城村に達する路線 起点 北牟婁郡引本町 経過地 北牟婁郡引本町大字矢口浦、同郡桂城村大字船越 終点 北牟婁郡桂城村 長島停車場長島線 長島停車場より国道一号路線に達する路線 起点 長島停車場 経過地 ○ 終点 桑名郡長島村(国道一号路線) 小山津島線 桑名郡多度村大字小山より愛知県海部郡津島町に達する路線 起点 桑名郡多度村大字小山 経過地 ○ 終点 岐阜県界桑名郡七取村 七鳥長島停車場線 桑名郡七取村より長島停車場に達する路線 起点 桑名郡七取村 経過地 桑名郡楠村大字下坂手、長島村重用 終点 長島停車場 鼎阿下喜線 員弁郡中里村大字鼎より同郡阿下喜村に達する路線 起点 員弁郡中里村大字鼎 経過地 員弁郡十社村大字川原、阿下喜高須線重用 終点 員弁郡阿下喜村 十社大泉原線 員弁郡十社村より同郡大泉原村に達する路線 起点 員弁郡十社村 経過地 員弁郡十社村大字東貝野、同郡笠田村大字市之原、多度大泉原線重用 終点 員弁郡大泉原村 阿下喜東停車場山郷線 阿下喜東停車場より十社大泉原線に達する路線 起点 阿下喜東停車 経過地 ○ 終点 員弁郡山郷村(十社大泉原線) 白瀬梅戸井線 員弁郡白瀬村より同郡梅戸井村に達する路線 起点 員弁郡白瀬村 経過地 員弁郡白瀬村大字山口、同郡西藤原村、同郡東藤原村大字東禅寺、同郡治田村、同郡三里村 終点 員弁郡梅戸井村 朝上梅戸井線 三重郡朝上村より員弁郡梅戸井村に達する線路 起点 三重郡朝上村 経過地 三重郡朝上村大字小島、梅戸井桑名線重用 終点 員弁郡梅戸井村 朝上四日市線 三重郡朝上村より四日市市に達する路線 起点 三重郡朝上村 経過地 三重郡竹永村大字竹成、菰野大泉原線、梅戸井四郷線重用(三重郡県村大字山瀬古に於て分岐)三重郡県村、同郡三重村、四日市八日市線重用 終点 四日市市 竹永富洲線 三重郡竹永村より同郡富洲原町に達する路線 起点 三重郡竹永村 経過地 三重郡竹永村大字永井、同郡保々村、同郡下野村大泉原四日市線重用(三重郡大矢知村大字大矢知に於て分岐)三重郡富州原町大字松原、富洲原桑名線重用 終点 三重郡富洲原町 大長四日市線 員弁郡大長村より四日市市に達する路線 起点 三重郡大長村 経過地 三重郡保々村大字小牧経由、朝上四日市線重用 終点 四日市市 河原田停車場楠線 河原田停車場より府県道白子四日市港線に達する路線 起点 河原田停車場 経過地 河原田停車場一ノ宮線重用(三重郡河原田村大字河原田に於て分岐)三重郡楠村大字本郷 終点 三重郡楠村(府県道白子四日市港線) 山本河原田停車場線 鈴鹿郡椿村大字山本より河原田停車場に達する路線 起点 鈴鹿郡椿村大字山本 経過地 鈴鹿郡久間田村、小山田石薬師線重用(鈴鹿郡久間田村大字鹿間に於て分岐)三重郡内部村、国道二号線重用(三重郡内部村大字小古曽に於て分岐)国道一号線河原田停車場一ノ宮線重用 終点 河原田停車場 野登亀山線 鈴鹿郡野登村大字安坂山より同郡亀山町に達する路線 起点 鈴鹿郡野登村大字安坂山 経過地 鈴鹿郡野登村大字辺法寺、同郡亀山町大字羽若経由 終点 鈴鹿郡亀山町 辺法寺加佐登停車場線 鈴鹿郡野登村大字辺法寺より加佐登停車場に達する路線 起点 鈴鹿郡野登村大字辺法寺 経過地 鈴鹿郡川崎村、同郡高津瀬村大字広瀬、椿加佐登停車場線重用 終点 加佐登停車場 白川亀山線 鈴鹿郡白川村より同郡亀山町に達する路線 起点 鈴鹿郡白川村 経過地 鈴鹿郡神辺村、野登亀山線重用 終点 鈴鹿郡亀山町 明白子線 河芸郡明村より同郡白子町に達する路線 起点 河芸郡明村 経過地 鈴鹿郡亀山町大字安知本、同郡書生村、津亀山線重用(鈴鹿郡書生村大字下ノ庄に於て分岐)河芸郡天名村大字御園、同郡栄村大字五祝経由、国道一号線重用 終点 河芸郡白子町 合川白塚線 河芸郡合川村より同郡白塚村に達する路線 起点 河芸郡合川村 経過地 河芸郡黒田村、上野一身田線、国道一号路線、白塚一身田線重用 終点 河芸郡白塚村 合川一身田線 河芸郡合川村より同郡一身田町に達する路線 起点 河芸郡合川村 経過地 河芸郡大里村大字山室、椋本一身田線重用 終点 河芸郡一身田町 天名庄野線 河芸郡天名村より鈴鹿郡庄野村に達する路線 起点 河芸郡天名村 経過地 河芸郡飯野村大字三日市(道伯経由、白子亀山線重用(河芸郡飯野村大字三日市に於て分岐)国道二号路線重用 終点 鈴鹿郡庄野村 高宮椋本線 安濃郡高宮村より河芸郡椋本村に達する路線 起点 安濃郡高宮村 経過地 安濃郡辰水村大字高座原、同郡草生村、同郡安西村大字小野平経由、椋本津線重用 終点 河芸郡椋本村 辰水新町線 安濃郡辰水村より同郡新町に達する路線 起点 安濃郡辰水村 経過地 安濃郡片田村大字長谷経由、津奈良線重用 終点 安濃郡新町 家所新町線 安濃郡辰水村大字家所より同郡新町に達する路線 起点 安濃郡辰水村大字家所 経過地 安濃郡村主村、同郡櫛形村、津奈良線重用 終点 安濃郡新町 草生新町線 安濃郡草生村より同郡新町に達する路線 起点 安濃郡草生村 経過地 安濃郡村主村大字岡南、椋本津線、津奈良線重用 終点 安濃郡新町 家城新町線 一志郡家城村大字藤より安濃郡新町に達する路線 経過地 一志郡八ツ山村、津奈良線重用(一志郡倭村大字中ノ村に於て分岐)一志郡榊原村、同郡稲葉村大字蝿田、上野久居線、津奈良線重用 終点 安濃郡新町 松尾久居線 飯南郡松尾村より一志郡久居町に達する路線 起点 飯南郡松尾村 経過地 飯南郡伊勢寺村、一志郡阿阪村、宮前六軒停車場線重用(一志郡豊地村大字下ノ庄に於て分岐)一志郡中川村大字天花寺、大三松阪線重用(一志郡中川村大字宮古に於て分岐)一志郡川合村大字須賀瀬久居家城線重用 終点 一志郡久居町 宇気郷松阪線 一志郡宇[気]郷村より飯南郡松阪町に達する路線 起点 一志郡宇気郷村 経過地 一志郡宇気郷村大字柚原、飯南郡大河内村大字坂内、津和歌山線重用 終点 飯南郡松阪町 御杖名張線 奈良県宇陀郡御杖村より名賀郡名張町に達する路線 起点 奈良県界一志郡太[郎]生村 経過地 名賀郡国津村、同郡比奈知村、山粕名張線重用 終点 名賀郡名張町 川俣滝原線 飯南郡川俣村より度会郡滝原村に達する路線 起点 飯南郡川俣村 経過地 多気郡萩原村大字栗谷、三瀬谷引本線重用(多気郡萩原村大字江馬に於て分岐)三瀬谷村、地蔵越経由、津木ノ本線重用 終点 度会郡滝原村 伊勢寺松阪線 飯南郡伊勢寺村大字岩内より同郡松阪町に達する路線 起点 飯南郡伊勢寺村大字岩内 経過地 飯南郡松江村、国道一号線 終点 飯南郡松阪町 五ヶ谷大石停車場線 多気郡五ヶ谷村より大石停車場に達する路線 起点 多気郡五ヶ谷村 経過地 多気郡五ヶ谷村大字色太、粥見宇治山田線重用(多気郡五ヶ谷村大字古江に於て分岐)多気郡五ヶ谷村大字片野経由、津和歌山線重用 終点 大石停車場 川添相可停車場線 多気郡川添村より相可停車場に達する路線 起点 多気郡川添村 経過地 多気郡川添村大字柳原、粥見宇治山田線重用(多気郡西外城田村大字野中に於て分岐)多気郡相可町大字東池上経由 終点 相可停車場 七保宇治山田線 度会郡七保村より宇治山田市に達する路線 起点 度会郡七保村 経過地 度会郡中川村、同郡内城田村、吉津田丸線重用(度会郡内城田村大字棚橋に於て分岐)度会郡下外城田村、粥見宇治山田線重用 終点 宇治山田市 七保滝原線 度会郡七保村より同郡滝原村に達する路線 起点 度会郡七保村 経過地 津木本線重用 終点 度会郡滝原村 穂原宇治山田線 度会郡穂原村より宇治山田市に達する路線 起点 度会郡穂原村 経過地 度会郡沼木村大字横輪、宇治山田吉津線重用 終点 宇治山田市 長岡鳥羽線 志摩郡長岡村より同郡鳥羽町に達する路線 起点 志摩郡長岡村 経過地 鳥羽的矢線重用 終点 志摩郡鳥羽町 御座和具線 志摩郡御座村より同郡和具村に達する路線 起点 志摩郡御座村 経過地 志摩郡越賀村 終点 志摩郡和具村 玉滝東柘植線 阿山郡玉滝村(滋賀県界)より同郡東柘植村 起点 滋賀県界阿山郡玉滝村 経過地 阿山郡玉滝村大字槙山、上野寺庄線重用(阿山郡鞆田村大字西湯舟に於て分岐)阿山郡鞆田村大字東湯舟、柘植草津線重用 終点 阿山郡東柘植村 山田府中線 阿山郡山田村より同郡府中村に達する路線 起点 阿山郡山田村 経過地 阿山郡山田村大字甲野、同郡壬生野村、上野四日市線重用 終点 阿山郡府中村 新堂停車場新堂線 新堂停車場より府県道上野四日市線に達する路線 起点 新堂停車場 経過地 ○ 終点 阿山郡西柘植村(府県道上野四日市線) 新堂停車場壬生野線 新堂停車場より山田府中線に達する路線 起点 新堂停車場 経過地 新堂停車場線上野四日市線重用(阿山郡西柘植村大字新堂に於て分岐)阿山郡西柘植村大字御代 終点 阿山郡壬生野村(山田府中線) 山田上野線 阿山郡山田村より同郡上野町に達する路線 起点 阿山郡山田村 経過地 阿山郡山田村大字出後、同郡友田村大字蓮池、同郡中瀬村、津奈良線重用 終点 阿山郡上野町 神戸名張線 名賀郡神戸町より同郡名張町に達する路線 起点 名賀郡神戸町 経過地 名賀郡美濃波多村大字新田、上野名張線重用 終点 名賀郡名張町 花垣依那古停車場線 名賀郡花垣村より依那古停車場に達する路線 起点 名賀郡花垣村 経過地 名賀郡花垣村大字予野、上野名張線重用(名賀郡古山村大字菖蒲池に於て分岐)名賀郡依那古村大字森寺、八知上野線重用(名賀郡依那古村大字沖に於て分岐) 終点 依那古停車場 阿波加太停車場線 阿山郡阿波村より加太停車場に達する路線 起点 阿山郡阿波村 経過地 鈴鹿郡加太村字中在家、上野四日市線重用(鈴鹿郡加太村字市場に於て分岐) 終点 加太停車場 布引阿保線 阿山郡布引村より名賀郡阿保町に達する路線 起点 阿山郡布引村 経過地 名賀郡上津村大字勝地、家城上野線津名張線重用 終点 名賀郡阿保町 美旗停車場美濃波多線 美旗停車場より神戸名張線に達する路線 起点 美旗停車場 経過地 ○ 終点 名賀郡美濃波多村(神戸名張線) 種生美旗停車場線 名賀郡種生村より美旗停車場に達する路線 起点 名賀郡種生村 経過地 名賀郡比奈知村大字滝ノ原、同郡美濃波多村大字上小波田 終点 美旗停車場 都介野名張線 奈良県界山辺郡都介野より名賀郡名張町に達する路線 起点 奈良県界名賀郡錦生村 経過地 笠間峠経由、名張初瀬線重用 終点 名賀郡名張町 大杉谷長島線 多気郡大杉谷村より北牟婁郡長島町に達する路線 起点 多気郡大杉谷村 経過地 野又峠経由、北牟婁郡赤羽村、津木本線重用 終点 北牟婁郡長島町 五郷木本線 南牟婁郡五郷村より同郡木本町に達する路線 起点 南牟婁郡五郷村 経過地 南牟婁郡五郷村大字桃崎字湯谷、同郡神川村大字長原、同郡有井村、木本新宮線重用 終点 南牟婁郡木本町 神川阿田和線 南牟婁郡神川村より同郡阿田和村に達する路線 起点 南牟婁郡神川村 経過地 南牟婁郡神川村大字長井、同郡西山村大字長尾、入鹿木本港線、木本新宮線重用 終点 南牟婁郡阿田和村 尾呂志新宮線 南牟婁郡尾呂志村より和歌山県東牟婁郡新宮町に達する路線 起点 南牟婁郡尾呂志村 経過地 南牟婁郡尾呂志村大字片川、同郡相野谷村大字大里、同郡御船村大字鮒田、木本新宮線重用 終点 和歌山県界南牟婁郡御船村 佐渡新鹿線 南牟婁郡明日香村大字佐渡より同郡新鹿村に達する路線 起点 南牟婁郡飛鳥村大字佐渡 経過地 津木本線重用(南牟婁郡飛鳥村大字小坂に於て分岐)新鹿木本線重用 終点 南牟婁郡新鹿村 尾呂志木本線 南牟婁郡尾呂志村より同郡木本町に達する路線 起点 南牟婁郡尾呂志村 経過地 南牟婁郡尾呂志村大字上野、同郡神志山村同郡有井村、木本新宮線重用 終点 南牟婁郡木ノ本町 箕田神戸線 河芸郡箕田村より神戸町に達する路線 起点 河芸郡箕田村 経過地 河芸郡箕田村大字林崎経由、国道一号路線重用 終点 河芸郡神戸町 明合一身田線 安濃郡明合村より河芸郡一身田町に達する路線 起点 安濃郡明合村 経過地 安濃郡安濃村大字安濃、椋本一身田線重用 終点 河芸郡一身田町 相可櫛田線 多気郡相可町より飯南郡櫛田村に達する路線 起点 多気郡相可町 経過地 津木本線重用(飯南郡射和村大字射和に於て分岐)飯南郡櫛田村大字山添、国道一号線重用 終点 飯南郡櫛田村 野登関線 鈴鹿郡野登村より同郡関町に達する路線 起点 鈴鹿郡野登村 経過地 鈴鹿郡白川村大字白木経由 終点 鈴鹿郡関町 時阿下喜線 岐阜県養老郡時村より員弁郡阿下喜村に達する路線 起点 岐阜県界員弁郡中里村 経過地 員弁郡中里村大字鼎字深尾、上相場、大泉原関ヶ原[線]重用 終点 員弁郡阿下喜村
ついでに、大正12年〜14年までの県道路線変更・追加認定と、大正9年〜14年の道路供用廃止、のメモ。原文はやはり三重県令規類纂より。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923981/492
大正十二年八月二十四日 告示第三百二十九号
八知上野線路線変更(名賀郡神戸村地内)
大正十二年十二月十八日 告示第四百六十八号
宇治山田波切線路線変更(志摩郡波切村地内)
大正十二年十二月二十五日 告示第四百八十七号
津和歌山線路線変更(飯南郡大石村地内)
大正十三年三月十一日 告示第百二十七号
白子四日市線路線変更(四日市市大字末広町地内)
大正十三年三月二十二日 告示第百四十二号
大泉原関ヶ原線路線変更(員弁郡笠田村大字上笠田地内)
大正十三年四月二十五日 告示第二百十六号
宮前六軒停車場線路線変更(一志郡中原村地内)
大正十四年二月十七日 告示第六十号
津名張線路線変更(名賀郡上津村大字下川原地内)
大正十四年三月三日 告示第七十七号
下ノ川波瀬線路線変更(一志郡波瀬村字井口地内)
大正十四年四月二十四日 告示第百八十五号
八知上野線路線変更(名賀郡阿保町大字阿保字法花寺−神戸村大字比土字中谷)
大正十四年四月二十四日 告示第百八十六号
和具波切線路線変更(中船越、波切村地内)
告示第二百二十八号
上野名張線路線変更(名賀郡古山村大字菖蒲池−同郡薦原村大字西田原)
大正十四年五月二十二日 告示第二百三十号
桑名町停車場線路線変更(桑名町地内)
大正十四年六月二十三日 告示第二百八十五号
飯南郡宮前村大字宮前字堀出・深谷
大正十四年七月七日 告示第三百十五号
多気郡津田村大字三疋田字井戸町
大正十四年八月四日 告示第三百四十八号
飯南郡宮前村大字宮前字堀出・深谷
大正十四年八月四日 告示第三百四十九号
多気郡川添村大字上楠字西ノ宮
府県道路路線追加認定
大正十三年七月一日 告示第三百二十五号
府県道の路線左の通追加認定し即日其の供用を開始す
梅戸井多度線 員弁郡梅戸井村より桑名郡多度村に達する路線 起点 員弁郡梅戸井村 経過地 大泉原梅戸井線、桑名郡彦根線重用(員弁郡大泉原村大字大泉に於て分岐)員弁郡大泉[原]村大字東一色字暮明経由、多度北大社停車場線重用 終点 桑名郡多度村 丹生大石停車場線 多気郡丹生村より大石停車場線に達する路線 起点 多気郡丹生村 経過地 粥見宇治山田線重用(多気郡丹生村字西沖に於て分岐)飯南郡茅広江村大字上出江経由、津和歌山線重用 終点 大石停車場 鵜方浜島線 志摩郡鵜方村より同郡浜島町に達する路線 起点 志摩郡鵜方村 経過地 宇治山田波切線重用(志摩郡鵜方村字坂ノ下に於て分岐)鳥羽浜島線重用 終点 志摩郡浜島町 木曽岬桑名線 桑名郡木曽岬村より同郡桑名町に達する路線 起点 桑名郡木曽岬村 経過地 桑名郡伊曽島村、同郡桑名町字吉之丸、字三之丸経由、国道一号路線重用 終点 桑名郡桑名町 美濃波多名張線 名賀郡美濃波多村より同郡名張町に達する路線 起点 名賀郡美濃波多村 経過地 名賀郡薦原村、同郡蔵持村大字大屋戸、津名張線重用 終点 名賀郡名張町
大正十四年四月十日 告示第百六十号
府県道の路線左の通追加認定し即日其の使用を開始す
竜ノ谷尾鷲線 奈良県吉野郡上北山村大字白川字龍ノ谷より三重県北牟婁郡尾鷲町に達する路線 起点 奈良県界北牟婁郡尾鷲町 経過地 北牟婁郡尾鷲町大字中井浦字坂下経由 終点 北牟婁郡尾鷲町
少しは真面目に書いたつもりなので真面目に宣伝しておく.表題の本が出る.ぜひ買っていただきたい.
テーマはOさんに与えられたもので,確か昨年の中頃から話があったと思う.道に関わった人の面白いエピソードを集めて書いてみないか,と.最初はためらった.まず思ったのは,数千字の原稿ですらまともにまとめられない自分が16万文字もの量を書けるだろうか? ということ.とりあえずてけてけ打っていれば,そりゃ量はクリアできるだろうが,一冊の本として纏まったものになるかどうかわからなかった.しかも伝記のようなことを複数人分やれという.土倉庄三郎だって『評伝』があったから書けたようなもので,要するに引用だ.そういう伝記のない人を書くことができるのか.それ以前に,すでに伝記がある人を又書きして価値のあるものになるだろうか? そういうテーマがいまの時代に一般受けするとも思いづらかった.Oさんは「それでもいい」という.
一度でいいから「自分の本」を作ってみたいという思いはあった.小さな夢だ.編集会社に務めていて,文章というもの(とくに雑誌に書かれるようなもの)がただの消費物として扱われていることを知っていても,紙媒体の衰退を目の当たりにしてきていても,本を作ってみたいと思っていた.そういう状況だからこそ.売って儲けようという魂胆はさらさらない.やったことがなく難しいことだからやってみたいというだけだ.
もう一つ,先日もちょっと書いたが,ムックは本扱いしてもらえない.その時々に話題にはなってもいつかは忘れられてしまう.日に何十冊も出る有象無象のムック本の一つとして埋もれて消えていく.それが惜しいというようなことを,確かOさんは言った.自分もそう思う.かつて買ったそういう手の本は,その瞬間には役に立ったり,好奇心を満たしてくれたりしたけれども,それを今でも大切に持っていて,見直したり思い出したりするようなことはなかなかない.消費されて捨てられていくだけだ.そういうものだと割り切ってものを書くことができる性格だったら,いまごろは職業ライターの末席を汚して暮らしていたかも知れないが,残念ながらそういう諦めができなかった.馬鹿みたいな理由で怒鳴られながら搾り出すようにして書いた1000Wがただの埋草にしかならず,誰の目に止まることもなく捨てられていくのが嫌だった(プライドが高かったのだろうか? 自分はそうは思わないが,傍から見ればそうなんだろう.単に苦労が報われないのがいやなだけだ).いまORJでも同じようなことをやっているが,自分の思いもしないことを書かされたりすることがないだけましだと思っている.共感を得たいのならSNSでもやっていればいい.
そんなこんなで書かせてもらうことにした.最初は10人前後を,という話だったように思う.それではさすがに大変だ,ということで,5人に絞ることにした.本当はもっと多くしたほうが良かったのだろうが,無理なものは無理と諦めたほうがよい.人が多いとジャンルが被ってくるだろうし,一人分の文量が少なくなって書きたいことも書けなかっただろうと,書き終えた今になって思っている.
禅海和尚と村田が重なるところがあるが,僧侶と官吏だし,村田の本質は隧道屋ではなかったわけだから,まあ分けられたほうだと思う.
本を通して言いたかったことは「はじめに」でほぼ言い尽くしたつもりでいる.書店で品定めする時はこの見開き1ページをざっと読むといい.あとは単純に,人物の紹介(「人,その生涯」)と,その人の作った道がいまどのようになっているか(「道,その後」)を書いてある.本当は人物紹介がメインになるはずだったが,書いているうちに道紹介の比重が大きくなって,半々かそれ以上になった.写真を活用できる場面がそこくらいしかなかったし,せっかく取材に行ったのだから,その時の写真を使わないと勿体無い.同じ内容でORJ向けに書き直すこともないだろうと思う(青の洞門はそのうち追記をするかも知れない.執筆後に絵葉書が増えた).
心配していた伝記パートは,増田淳で相当苦労したほかはそこそこ思い通りになった.土倉庄三郎はORJ記事を若干添削・追記しただけ,村田鶴も流用があるが,他は新規に書いた.「道,その後」はすべて新規である.道紹介はルポ風が抜け切れなかった.もう少し淡々と書いたほうが良かったかも知れないが,どうせ自分の本なのだから売れなくても自分のせいにできるのだと思い,好きなようにさせてもらった.
個々の章についての話はおいおい書いていくことにする.原稿を書き始めたのは今年の夏からで,それまではネタの収集と準備,構成を考えるのに費やした.書き始めてからもあちこちへ出かける必要が生じて,最後のほうはずいぶんカツカツになった.ORJ用の原稿が足りなくなって2日半徹で書いたこともある.締め切りを伸ばしてもらったり,初校と再校でまるっきり書き換えたりもした.Oさんだけでなくデザイナーさんにも迷惑をかけたと思う.そうやって苦労させられる側にいて,自分はしまいと思っていたはずなのにね.最も大きな不測の事態は,村田鶴のご子息であるKさんが入院され,しばらく連絡を取れなかったことだ.こればかりはどうしようもない.10月頭にようやくお会いすることができ,その結果を反映させていたらずいぶん遅れてしまった.
当初心配していた「16万文字も書けるのか」は,3/5まで書いた辺りで大幅に超過してしまうことが判明し,ざっくり削るはめになった.村田鶴は当初は7万文字にもなってしまい,構成を元に戻して半分以下にしている.これは自分が欲を出したせいだ.最初から他と同じ体裁で書いていれば何の問題もなかった.減らしたことでかえって本総体として纏まっただろう.
反省を書けばきりがないので脇へ置いておく.写真をふんだんに入れることができたのは良かったと思う.「人,その生涯」のパートはうるさくない程度に,「道,その後」は道の様子が掴める程度にふんだんに使わせてもらった.禅海和尚の章などはかなり贅沢である.絵葉書だけで4ページ半も取ってある.天爵大神は実地調査が行き届かなかったこともあって,旧版地形図でお茶を濁したを豊富に盛り込んだ.そのせいで国土地理院のチェックが間に合わず,発行が遅れてしまったのだが,それもたぶん自分のせいだろう.
総じて,ずいぶん好き勝手にさせてもらった.峠本を読み漁っていた頃に「ここはこうしたらいいのに」だとか「ここは物足りないな」と思ったことを極力反映したつもりでいる.もちろん,これが100%の正答でないことや,自分の最適解が他人のそれでないことも知っている.読んでスカっとするようなものは期待しないほうがいい.
本で使用した写真は高画質のpdfにしてネットにあげておくことにする.リンク先は本の中に書いてあるので(明示的にそうとは書いてないし,最後の校正で無理矢理入れ込んだので反映されていないかも知れないが)確認していただきたい.訂正だとか追記だとか,本編に入れられなかった写真類もそこへ置いていくことにする.
思いの外強い喪失感を感じ、寂しさに苛まれつつ帰宅する。また独りの生活に戻るのか、と思うと「ホッとする」がガリガリ削られていくのがよくわかる。
上を見ればキリがない。下を見て歪んだ安堵感を感じたくもない。そんな思いを思いつつ参加した集中訓練。じつにさまざまなことを学んだが、その一つに「同じように悩んで苦しんでいる仲間がいる」と知ったことがある。筆頭かも知れない。文字にするとスッカスカな印象を与えるだけだろうが。
仲間がいるということがどれだけ励みになったことか。自分の行ないにレスポンスをくれる人がいることがどんなに有難いことか。何かをして差し上げたいと思う人、何かをしてくれる人が周りに常にいるということが、どんなに心の支えになったか。期間中何度もそのありがたさを感じ、全部終わったいま、改めてまた痛感している。
上の言葉を、嗤える人は嗤えばよい。「また例のセンチメンタリズムか」と鼻白む人があればそうすればよい。経験した者にしかわからない、文字にしてみたところで真意は伝わらないであろう言葉、人に伝えるべき類ではない思いである。無理に弄んだところで言葉の乾燥脱臭を手伝うだけだろう。
やらなきゃいけないことがたくさんたまっているなあ。いいことだなあ。
例えば煉瓦。大和郡山市で見かけたもの。耐火煉瓦の類かと思われ、MとYを組み合わせたようなマークもどこかで一度見たことがあるのだが、初めて見る質感と色で、本当に耐火煉瓦なのか心許ない。そのうえヨーカン。(@大和郡山市)
大和郡山市では大阪煉瓦の煉瓦も見つけた。近鉄線の東側にある長屋街の一角にて。大和郡山なら大和煉瓦の本社があったところだから「^ト」のほうが多いんじゃないかと思っていたが、そんなことはなかった。市街では一つも見つからず。何のつもりで大和郡山に本社を置いたのか。単に最寄りの繁華街だったからか。(34.642627,135.781894)
おまけ。市街地にあった洋館。純和風の2階建切妻民家に建て増す形で建てられいる。孔雀の柄をあしらった丸窓ステンドグラスが採用されていたりして、非凡なものを感じるのだが、誰さんちかもわからなかった。
そこは、君がいるべき所じゃない。
訓練期間中は毎日夕食を作った。与えられたレシピの通りに作るだけなので、献立を考える必要がないうえに料理のレパートリーが増えるという大変ありがたい経験をさせてもらった。この調子でこれからも作っていければと思うが、さて、どうなることやら。
写真は8/27の夕食の一品。鰯の味噌煮。生の鰯から作ると格段にうまい。水気をよく切ることと、生姜をケチらないことがポイント。
あのおぞましい量の工場を整理しないといけないと思うとassの穴の辺りがむず痒くなる。整理できるかとも思う。そこはそれ、中国四国編ができあがった時に眺めて●を見た時の感慨を思い出しつつ予期しつつやるしかねえでガンスリンガー。ハットした時にはもうちゃんぽんなのだった(意味不明)。
無論これがメイン記事にはなり得ないので次号に間に合わすことは考えていない。だいいちあれだ、刻印表はどうするのか。まだふみもみぬ煉瓦刻印の印影をまとめてみたところで。そういう印影*かもしれない*の煉瓦が関西地方では絶無*に近い*|*な筈*ということをいう時の参考資料にしかならないのだ。そもそも印影と確定してないんだから印影とは書けぬではないか。ネットで画像を拾ってくるにしてもまああれだし、煉瓦探すためだけにあの辺へ出かけるのも行き過ぎている。(ここでしばし停止。然るべき場所に然るべく依頼とか考えてみたが忘れられてるだろうからな。しかし他に良案がない)
ともかく工場表は作らないとな。愛知に行くより先に伊賀上野とか四日市とかだろうし。近鉄沿線三重県内はまだ行ける圏内やけんな。平賀圏内エレキテル・ビリビリ。
ケータイ小説だからといって馬鹿にできないな。需要があるということは即ち読まれる価値のあるものであるということだ。本という物の役を立派に果たしている。単に提供のしかたが不味かっただけだ。届くべきところに届けられればそれでよいのである。
ラノベも何とかしてあげたいところである。地平を開拓するセットをさっさと作ろう。
日本人は動物やモノといった人以外のものに人格を見出すことができる。人格を仮託するっていうべきか。人的に扱って格を感じることがわりかしある。鳥獣戯画の兎や猿に、人の真似をしている動物という以上の親近感を感じたり、アザラシに市民証を発行したり(これは他国のほうが先かなOracle犬とかいたし)、大事にしているものを落した時に「ごめんごめん」と謝ってみたり、針を供養したり、さつまいもを「おいもさん」と読んでみたり(これは関西限定か。にしてもそういうことを言う文化圏を内包しているのは確か)。そういうのって外国には少ないんじゃないか。人形を人のように扱うのはどこでもあるけれども、草木さえ弔って草木塔立ててみたりとか、珍しいんじゃないか。
墓に参るという時、外国ではたぶんそこに眠る霊=遺体が礼拝の対象であって上に立っている十字架に礼拝しているわけじゃない。日本はどっちかというと破壊しもとい墓石のほうに向かいがち。墓石に霊が宿ってるみたいな捉え方を(いつのまにか)している。墓石を綺麗にしてやらないと祟るんだったらそもそも墓の中に閉じ込めとくなって話。
仏教の影響か、輪廻転生の思想があるからか。それともモノに神が宿るというアレか。トイレにはそれはそれなきれいな女神様がいることになっているのとか、あの騒がしい外人さん聞いたらワイワイ叫んで止まらなくなるんじゃないか。
アニメのキャラクターとかゆるキャラとかに馬鹿に細かな設定をつけるのが流行っているけれども、それも同源の国民性なんじゃないかなあ。そうやって実在の人間存在に近づけることが好き、というかそういう性質の国民。あらゆるところに神が宿っていて人間生活を律しているというのは唯一神の堅苦しさがなくていい。いろいろなものに対して優しくなれる気がする。その気になれば。
南方熊楠が書いている田辺の?トイレの神様はとてもかわいそうである。厠の肥溜めの中にいて、右手で糞便を受け、左手で小便を受く。そこに唾を吐けば受ける手が塞がっている故仕方なく口にて受く。故に便所に唾を吐いてはならぬ。と諌められていたそうだ。五目並べも新喜劇も関与する隙がないというものだ。(そういう話を作ってまでして諌めなければならなかった理由は何だろう? 唾する行為が不衛生だからか? 唾に特別な意味・用途があった? 単にはしたないといえばそれまでかも知れんが、便所限定なのは何故。)。
曽根で人尋ねの収穫がなかった話も愚痴も本も消えてもーた。とことんついてない日だな。しっと。
全く同じ形の部品を製造し、互換性を持たせることで、機械や商品の大量生産を可能にした「標準化」。それがいつ、どのような形で始まり、人間生活にどんな影響を与えたかを教えてくれる本。産業革命以降の技術史を「標準化(規格化)」の観点からよみなおす本という言い方もできる。
以前KINIASの先生だったか会員さんだったか(企業を定年退職した技術者が多かった)に伺った話では、戦後にアメリカの機械が入ってくるようになって一番驚いたことはその部品の互換性の高いことだったという。どこかのネジを外し、別のネジ穴にはめてみても何の違和感もなくはまる。他の機械からとってきた部品に交換しても何ら支障が出ない。そんなことに驚いたと。今からすればなんでそんなことにと思ってしまうが、戦前戦後の日本ではまだ「標準化」が貫徹されていなかったのだ。工場やメーカー内では互換性が取れていても他社の機械であったり他分野の製品であったりするとダメ。素材としての部品(ネジとか鋼管とか)もそう。航空機のエンジンでも使用する鋼管のサイズが無数にあって製造を困難にしていた(規格化されていれば規格のサイズのうちから適当なものを選択すればよい)。というような時代から「ものづくり大国」と自賛するような国になるまでの間に何があったのだろうと常々疑問に思っていたのだけれども、それは要するに「規格化(標準化)」が透徹したことによって製品を精密に・大量に生産できるようになったからだった。
職人がすべて手作業で作っていた時代から共通部品を機械で作るようになる変化は連続的というか漠然というかな感じだろうと思っていたのだけれども、「この時から標準化が始まった」という時期および工場が案外はっきりとわかっているのだった。はじめはフランスで大砲や銃の製造に共通部品を採用すること(標準化の概念)が始まり、それを学んだアメリカが工業的に確立させた(アメリカ式製造方式)。そうして産業革命発祥の地イギリスに渡ってという順。それもちょっと意外だった。イギリス辺りで出来上がったものとばかり。蒸気機関のピストンも設置ごとに研削してアタリを調整する必要があった。
機械で作っていれば簡単に同じものができる、と思ったら大間違いで、互換性を有するほどの精度を保つことが大変。そこを高精度な工具の開発とか測定技術とかの工夫でクリアしてった。やがてあらゆる産業にかかわる部品、ネジとか鋼管とかについて規格を設けるのが有利だということになり規格が生まれた。けれども浸透にはやはり時間がかかったようだ。戦後の日本は標準化の果実が熟れた頃にそれを受け取ったので「おいしくいただきました」てな感じかも知れない。もっとも大正期からJESを策定してたりはする。徹底したらこんだけ有利よ、っていう姿を太平洋戦争で見せつけられて目が覚めたんじゃないかな。
ふだんあまり意識しない「規格(標準化)」にもちゃんと歴史があって、実社会に多大な影響を与えた、というより標準化が近代化の鍵だったのだと思い知らされ瞠目した。2002年に講談社メチア選書で出たものを加筆訂正して学術文庫にしたもの。行き帰りの電車で読むつもりが昼飯+行きでほぼ読み終えてしまう。それだけ興味深い内容。
何とはなしに、他にやることがあれこれあるだろうに、九州編の作成にとりかかってしまう。近デジのreachableな工場通覧はS24を残して終了。S24大分県で野上右田に煉瓦工場があったことを知って愕然とする。なん、そげなとこにんあったとー。
熊本には明治30年代に興った工場がいくつかあるが末年頃には姿を消してしまう。肥薩線の建設か、それとも三太郎峠のか。大正期には福岡の荒木村近辺と佐賀県三養基郡三川村寄人が工場地帯となる。荒木は荒木窯業のお膝元。して昭和期には昭和窯業合資会社があった。高橋煉瓦工場は個人工場のままで推移。菱Sは高橋周蔵の下の名前のSからとったと言われているけれども、昭和窯業のSでもよかごたる。工場主は坂井氏(坂上だっけ?)だし。三川村寄人はいまのみやき町寄人、有明海側の福岡県との県境で隣は久留米市という立地だ。一面の田畑地帯に工場が5つも6つも集まってて、同姓異名の個人工場もあった。業として見た時にはとても興味深い。そして窯業の町唐津にも唐津煉瓦と唐津焼煉瓦の両株式会社があった。井桁Kを関西近辺に求めていたけれども、九州が出処という可能性もないわけではないと考え直しておく必要があるかも知れぬ。他に九州煉瓦なんてのもあったのだし(ただし戦前の一時期のみ)。
菱Sを龍野の清水煉瓦と仮定してみてはいるが(工場周辺でいくつか見つかっているので)、◇マークを使うのは広島の工場に多かったみたいだし、一応高橋煉瓦も◇Sということになっている。関西ではなく瀬戸内圏西寄りの系統に属するのかも知れない。とかいいつつ生石山砲台の◇Wがあったりするのだが。そして龍野も充分西寄りなのだけれど。一度自分で工場周辺を見ておかないといけない。そー言われてみればマーク+文字という組み合わせは関西圏には少ないのだな…□+英数字とか□+漢数字は別物として、それ以外の、記号と何かの頭文字って。あ、耐火煉瓦はあるか・・・。鳴神団地に和歌山煉瓦と一緒に使われているのを忘れないように>nagajis。
鹿児島と宮崎は戦後の工場通覧でやっと数件出てくるのみ。確か山仮屋隧道の時は最初地元で焼いたけれども質が悪くて旭商社から買い直している。その後続くことがなかったか、5人以下の零細工場しかなかったのだろう。戦後の工場は煉瓦展の時に話を聞いた工場かも知れぬ。鹿児島は基本的にシラスだからなー、煉瓦作るんは難しかったんじゃなかろうか。
商工録は2、3目を通してみたけれども収録されてない府県があったりして、社章は博多窯業と2,3の耐火煉瓦工場くらい。大阪や愛知のような県単位の工場通覧は作成されていないようなので、あとは各県統計書と、昭和11年以降の復刻版と戦後の通覧を見なければならぬ。ってそれが一番面倒臭いんだけどさ。荒木窯業は刻印集成に数パターン掲載されていた。
BV&Coの写真を入れ始めるところから。ようやく興に乗ってきて銘列記を最後まで。Darlingtonに戻ってCammelを途中まで直したところでちょからつきる。Cyclops・Workington・Penistone仮説爆誕。いや前から漏らしてたけどな。Cyclopsは地名からとったものじゃなくSheffieldのそういう工場名だからな、他は地名だ。
夜中の電話はいつも頭が回らなくて申し訳なく思う。朦朧として喋ることが尽きるあの感じはいつ感じてもかなしくなる。ううむ。
BVのKTK追求とNTK追求は間違えてる可能性が高いので銘紹介に突っ込んでさらっと流す。突っ込まれるなら突っ込まれたい。故に考察はMRと60-9問題のみに絞る。
進捗状況:約5割。明日は追加調査を諦めて資料づくりに専念する。Carnegie IRJだけなら会社上がりでも不可能じゃねえし写真なくてもアレできるし。
丸一日潰して作成。95割。自己紹介で1/3ページ費やすという非道。
頭が痛く耳鳴りが止まず眼はショボショボして食欲はある。明日には仕上げて練習をはじめる。現時点でははて、1時間で済むんだろうか。いつものメソッドを使ったのでページ数ハ多いが1枚にかける時間はわずかで済む。
あとオマケ用のデータを作っておくこと。1901の行方とか。
少女のように花をつむ
おだやかに晴れた日の午さがり
いつか 遠い昔 そうしたように
れんげに たんぽぽ
甘い香が ただよう
私はしあわせ
みほとけに たてまつる花
心をこめて 少女のように花をつもう
(1967.5.4. M.U.)
誰に見せるでもない、自分のために書かれた日記に書かれてあった詩。本人と、通して読んだ人にだけわかるこの気分、飾り気のないささやかな幸せの謳歌がとても心にしみた。
末っ子はこのお母さんの気質を十二分に受け継いだようで、たいへんすてきな日記を書いている。詩も詩的表現もふんだんで、しかも素直な日記。自分が小6の時にこんな素直な文章を書けただろうかと思う。大人受けするために妙にひねくった、ひねこびた作文しか書けなかったと思う。うまあ書く必要なんてなかったんだということを振り返ってみて強く理解した。もしいま読書感想文とかに悩んでいる子どもがいたらどう伝えよう。「思ったことをそのまま書けばいいんだよ」といったところで、自分のようなヒネ子どもは、その言葉に頷きつつ、でもやっぱりきれいな文章とか感心させる文章とか書かなきゃ(しめいかん)と思うに違いない。同級生の書いたぎこちないくだけた文章をみて、こんなんじゃだめだと思うに違いない。
大人は子どもの文章に何を期待するかって、自分が子どものころに思ったり感じたりしたことを思い出せるような、あるいは凝り固まった大人の頭ではとうてい思いつかないような柔軟な発想を期待している。うまい文章なんてこれっぽちも望んでいない。話の理論的な階段を二、三段すっ飛ばしてしまっていてもいいのだ、そのすっ飛ばした空隙に思いを致した時にあわよくば子供のころの感触を取り戻せるのだ。描写が正確でなくったっていい。ああ!そんな発想があったか!と思わせるようなのに大人は惹かれる。
んでそういう気分を、なんと40年近くも引きずり続けている私なのだ。救いようがないというか、ここまでくればかえってすごいと思ったりしないでもない。
_ みつ [まぁ、なんとなくですが材木目的とパルプ目的の伐採では やり方が大きく違うような気がします。 たとえば皆伐をやったのでは。。。]
_ nagajis [ご明察です、当初は80年期の自然更生輪伐だったようですが、実際は皆伐に近いものだったとか。そのくせ運び出す費用がなくて、土場周辺に放置されたものも多いと聞いています。]