nagajisの日不定記。
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“大塚切れ”の復旧談を読んでいる。これについてはどこかでまた詳しく述べることにして、復旧が遅れた背後には、滋賀県の瀬田洗堰に加え、陸軍大演習まで絡んでくることに気づかされた。瀬田洗堰は琵琶湖の水位調整の役割を果たしたものだが、同時に淀川流域の水量調整を行う役割もあり、大雨直後に角落としが落とされて流量が絞られたものの、長200間の破堤を復旧するのに手間取っているうち琵琶湖は約5尺の水位上昇を見、こちらも非常事態となった。それで、大塚堤防の復旧の目処が立たないうちから洗堰の角落としをめぐって大論争になった。
早く水位を下げたい滋賀県と、絶え間泣く流れ込んでくる淀川の水を止めるのに必死な大阪府。最終的に内務省判断で角落としが外された。日に一寸ずつ下げる程度に、という何ともどっちつかずな対応だった(それでも沖野忠雄は激怒して内務部出張所長の首を飛ばした)。
滋賀県の言い分は琵琶湖沿岸の農作地帯(明治末に洗堰ができ、ようやく確実な収穫が保証されるようになった畑作地)を木阿弥にしたくないというのが第一にあったが、もう1つ、この年の11月に行われる予定であった陸軍大演習の演習地や道路を水没させたくない、という思惑もあったらしい。当時の滋賀県知事・池松時和は『御巡幸の為に新設した道路』を楯に取って放水を主張したと、柴田善三郎の講演録に書かれてある(淀川治水誌。柴田は当時大阪府内務部長、のちに府知事)。陸軍大演習には軍の統帥者である天皇が行幸する。それに対して/備えて過剰な道路改修をしないよう、あからじめ通達がなされていたにも関わらず、そういう道路が存在したということだ。
(これは程度の大小であって、大演習に備えた改修はどこでも行われていたことだろうけれども。あるいは「新設」というのは記憶違いで、改修した道路が烏有に帰すことを懸念しただけなのかも知れぬ)
大演習に備えて作られたものと思われる家棟隧道がそれに相当するのだったら面白いのだが、1.5m程度の水位上昇で沈むような場所ではないから、別の道路か日野川河岸の演習地のことだろうと思う。ともかく家棟隧道の建設には元埼玉県北足立郡技手の遠山貞吉が当たっていた(はず)。その2年前には埼玉で上司であった山田博愛が、同期の吉田勇が、佐藤道之介が滋賀県へ移って要職を占めていた。大演習ではともに工営係を勤めている。元上司・同僚らが滋賀県で腕を振るい、大六水害一件では大阪と対立したであろう一方、村田は大正7年4月に大阪府に移り、府の水害復旧工事に当たった(と思われる)。それだけならばまだ運命の悪戯とか何とか評せるだろうが、半年もしないうちに村田は滋賀県へ移り、遠山と入れ替わりで隧道工営所主任になるのだ。
背後に何があったのか、いまの段階ではわからない。確かに村田は埼玉で河川改修に従事していたが、その経験が買われたにしては余りに駆け足過ぎる。大正5年の大阪府の土木疑獄(7人起訴、9人退職で都合16人の土木課職員が一斉にいなくなった)の煽りで人材不足だったためか。あるいは丸橋の指摘のような疑いの目を逸らすための計略であったのか。そういえば中澤徳次郎も直接滋賀県へは来なかった。最初の任は郡吏員だ。違う違う!(かぶりを振るナウシカ)
向こうに書こうかと思ったが(はず)(かも知れない)が多すぎるのでヤメ。
@府立。萩原俊一発電水力(常磐書房)初版のコピー。落筏路の例の写真を発見してwktk。デジタルアーカイブスのpdfは引用できないものね。高津尾発電所にも同様の落筏路があったようだが現存しないようだ。
洛北発電所の資料。京都市の近代化遺産より。説明短ッ! 京都電燈五十年史までは手が回らず。
淀川関係。以前探近土でコピってきたような気もするので大正分の必要最小限のみ。しかし工事箇所に味舌の名は出て来ず。淀川河川工事事務所のHPの記述は「淀川百年史」をですます調に変えただけですます。
帰りに日本橋に寄ってCDケースを買おうと思ったら在庫がなくなってた・・・仕方がないのでスリーブタイプのものを買っておく。あとはウィンドウショッピング(死語 こういう機会でないと行けない&ものが買えない状況はずいぶん慣れたが、沸き上がる物欲は何ともいたしがたく。じゃあ行くな。
(こんなタグ作ってたのか。忘れてた)
半ばやけくそになって全てを詰め込んだ。すべての出来事が何日のことかわかった人がいたら賞品をさしあげる。何回登った/通過したかわかった人は次点。nagajisに二言はない。えーっと、多分、いや、おおまかには、うう。これに限ってはないっ。
そうやって無駄な遊びをやってないで他の事すればいいのに・・・。
@湖北。with FinepixS602(トリミング・リサイズ・シャープネス1段)
資料コネー
シナリオなり…。“陰謀”とも言うが、カッコイいな…←妄想厨
んにゃ、これが歴史というもののようです