nagajisの日不定記。
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が理解のカギになるはずなのだけれど見つからず。昨日買った本(略号:わかる道路)に書いてあるので全部なんだろうか。
路線の変更があった時、旧区間は廃止されたことが自明だから改めて廃止の告示を出す必要はない。路線の一部が変更になった時ははっきりしないから明示的に告示する必要がある。とはいうがその旧区間って例の表の「旧」のことなんやろうな。旧道路法時代に番地地番まで書かれてたのはおいおい削除ってのも解釈がわからん。
峠名がないということは、それが路線の特徴を表すものではないからということなんだろうか。なんだろうな。そのへんの解釈が別の通達で出ていたりするのかもな。
あ、嘘ゆうたらあかん。あるある。
http://wwwkt.mlit.go.jp/notice/searchAction.do
町中を歩きつつ目の隅で捉えたがイラネ判断を一旦は下し通り過ぎようとしたところでやっぱり気になり後ろ向きに3歩歩いてこの写真を撮った。そこまでする価値はない物件だったがその行動の愚かさを記念して掲げる。
萌え絵やゆるキャラに毒された現代人と、そうでない旧世代人では正解に到達するスピードが違うのではないだろうか。キティちゃんの目は年を追うごとに離れていって今に至ってるというし。その点ポポックは素直に可愛い。ポポック可愛いよポポック。
話が逸れた。正解に至ってもなお残る疑問がないでもない。守られるべき対象が「守ろう!」と呼びかけるのはいささか変だし、君はPTAじゃないだろうとも思う。悪のりとも開き直りとも、あるいは関西弁で謂う所のいちびりとも取れる。
いやいや、それは早とちりかも知らんな。彼がboyという自明な証拠はない。顔の丸さと痘痕でそうnagajisが認識しただけだ。
どうでもいいが「あば」の変換候補で「ABBA」が出るとは思わなかった。さすがにひっくり返ってはいなかったが。
ふとしたきっかけで富田林の民話を知った。それ民話ちゃうやろ、という突っ込みは野暮である。時代が進めばこんな話も民話のカテゴリに分類されるという好例と見たほうがよい。初めて自転車に乗ったというお転婆娘の話だってそうだ。
この物語を後世に残さねばならないという義務感から伝承されたものではなく、人に語って聞かせたいという生理的欲求が伝承を生むのだろうと思う。話を聞いてほしい、語ることで共感を得たい、etcetcな部分が伝承の原動力だ。だから事実の伝播にはならない。
どこかで省略されたり誇張されたりして今に伝わっていて、そこに事実を求めるのは愚なことだ。それは畢竟歴史書にもあてはまることだろう。どんなに掘り下げて事実を探ろうとしても伝聞である時点でいろいろ添加されている。そうしてそういうあいまいなものを信じ、人に語って聞かせたいという欲求が働く。変わらないわけがないのだ。そうしてそれが人の営みということ。共感を得ることを書いた者がほめそやされるまでであって、それ以外は忘れ去られるだけだ。だから共感を求めるつもりのないnagajis は必要のない存在というまで。
前回のが面白かったので懲りずに続ける。そういう格好悪さを追求するとどうなるかという試みである。
ぐりとどぐら
ストーリーいつもの森に(ry。そこで希代の土豪に出会う。
土倉:「財産なんて知らぬ間に増えたり減ったりするものなのだよ」。ぐり納得。
ぐらの出番なしである。
ぐりといがぐり
ストーリーいつもの森に(ry。そこでいがぐりに出会う。
いがぐり:「何で坊主頭のことをいがぐり頭って言うんだろうね」
ぐり:「似てるからでしょ」
いがぐり納得。
やはりぐらの出番がない。寂しい限りである。やはり2匹は仲良く卵の殻の車に乗ってほしい。
ぐりとぐら
ストーリーぐり:本州の日本海側の男鹿半島沖から関門海峡に至る広い海域で暗礁をぐりと謂う。「繰」の字を充てることもある。
ぐら:険しく切り立った岩崖、あるいは岩がちな急斜面。ごうら。ごうろ。山冠に品の字を充てる地域がある。例:大蛇□、大日□、どぐらま□。(□=山冠に品)
確かそうだったと思う。
がりとぐら
ストーリーいつもの森へ遊びに行ったぐら。やせ細った山ねずみのがりが倒れている所に出くわす。じすお:「やあぼくアンパンマン。僕の頭をお食べ」。無視してがりを介抱するぐら。めでたしめでたし。
変な奴には関わらないほうがよい。
ずりとずら
ストーリーいつもの森へ遊びに行ったずら。
そこから先どうなるのか。気になる。
無理と斑
ストーリー意に反して強いて色を塗るとムラができる。
上手に塗り絵をするための戒めである。いや、そういうムラが芸術表現になるのかも知れない。