nagajisの日不定記。
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三重県史(昭和39)の記事が正しいかどうか調べたかった。昭和9年に着工、同年中に開通とあったが該当する路線変更や道路供用の廃止はない。その後津和歌山線は松阪周辺や粥見の辺りで道路廃止があったが波瀬や舟戸の辺りには見られない。上記の昭和23年10月27日公報第6094号告示第506号によってやっと路線変更されている。その結果木梶を経由して峠に至る路線が正式な津和歌山線になり工事が進められたと。
奈良県政70年史では昭和23年から5ヶ年計画で着工、28年竣工、翌年国道昇格。ということで着工直前に県道へ編入したことになる。が・・・解釈が難しいな。昭和9年に出ていないのは開通しなかったから載ってないのか、林道として開通したから載ってない(舟戸経由が県道のままであった)のか。両県共同で工事に着手したってんなら開通後すぐにでも県道にするだろうが。
上記広報と同時に共用廃止が出ていないのがポイントかも知れない。昭和28年を探せば船戸経由ルートの廃止が出ているはずだ。いや、ないか・・・新道路法がでてるのか。何を言っておルカ。但書に「旧道路区域はその供用を廃止する」とあるではないか
http://www.pref.mie.jp/PDF2/KENKOHO/S28/T-S280121-07162.pdf
http://www.pref.mie.jp/PDF2/KENKOHO/S29/T-S291216-07648.pdf
29年昇格ってのは間違い。政令第九十六号、昭和28年5月18日公布、即日施行。
http://japan.road.jp/Law/S28_Seirei96.htm
告示第14号 道路の供用廃止(名賀郡古山村地内) 公報第5393号 (以降ページかすれで不明瞭)
告示第170号 道路供用廃止 公報第5446号
告示第307号 道路の供用廃止 公報第5522号
告示第422号 道路占用料金徴収規程の一部改正 公報第5576号
告示第482号 道路の供用廃止 公報第5602号
告示第507号 道路区域の変更 公報第5610号
告示第508号 橋梁の交通制限(宮前橋) 公報第5610号
告示第509号 橋梁の交通制限(宇賀橋) 公報第5610号 教第1985号 右側通行の励行について 公報第5616号
道第42号 道路標識建設に因る維持愛護について 公報第5619号
告示第583号 橋梁の交通制限 公報第5636号
監第809号 陸地測量標保管について 公報第5652号
県令第68号 三重県自動車取締令施行細則の一部改正 公報第5659号
告示第631号 府県道路線一部変更 公報第5659号
県令第31号 道路占用規程の一部改正 5・2号外2
道第224号 新憲法発布記念行事道路愛護週間について 公報第5758号
道第343号 道路諸標識の(悪戯による)毀損防止について 公報第5786号
告示第287号 道路の供用廃止 公報第5795号
告示第288号 道路の供用廃止 公報第5795号
告示第299号 府県道路線の一部変更 公報第5802号
告示第306号 道路の供用廃止 公報第5805号
告示第54号 府県道路線の変更並びに供用開始(府県道鵜方浜島線) 2・11号外
告示第125号 府県道路線の変更 公報第5955号
告示第128号 府県道路線の変更 公報第5956号
告示第316号 道路公共用の廃止 公報第6029号
告示第339号 道路の公共用の廃止 公報第6038号
告示第343号 道路区域の変更及び廃止【府県道阿下喜高須線】 公報第6040号
県令第73号 道路取締令施行規則の一部改正 公報第6067号
告示第431号 道路供用開始並びに県営渡船の廃止【府県道七保宇治山田線】 公報第6067号
告示第506号 道路区域の変更【府県道津和歌山線】 公報第6094号
告示第609号 道路の公共用廃止【北牟婁郡相賀町大字相賀字渡利】 公報第6123号
詳しい資料が少ない第一期改修の、ちょっと詳しい情報。
原案
一金五万五千二百四円拾壱銭
内訳
金弐万八千七百三拾三円七拾四銭六厘 道路橋梁費
金弐万六千四百七拾円三拾六銭四厘 治水堤防費
第一次会
四十一番藤井曰 番外に質問す嘗て県知事が両牟婁郡を巡回せられたる際南北牟婁郡の人民に道路開削のことを奨励せられたるにより同地方の有志も大に奮発して此事を計画中なりと聞しが其後愈々該事業に着手し南牟婁郡の分は粗ぼ落成し其中木ノ本より新宮へ達する線路は県道となりたれども其以北の部分即ち北牟婁郡へ接近したる道路は北牟婁郡の道路の未だ竣工せざるが為め県道へも組込れず之が為め土地の人民が甚だ困難せる趣きなり依て問う右北牟婁郡の工事は最早着手居るや将た否らざるや若し既に着手し居るならば今より幾何の日誌を費せば成功するの見込なるや尚一つは荷坂峠より海野村字古里に達する大路は其工事の落成せしにも拘わらず是も亦未だ県道に組換えられざるにより人民は甚だ困難を感じ居る趣に聞く又熊野街道多気飯野両郡の境なる櫛田橋は□に巡回の際堅牢なる本橋に架換える目論見ある由多気郡役所にて承り又右に付人民より幾百円の寄附金の応募ありと聞けり以上の三点に付了知せらるる所あらば其実況を説明あらんことを乞う
番外一番伊藤曰 四十一番に答えん第一矢ノ河に達するの道路即ち南牟婁郡の木ノ本より大又を経て矢ノ河迄は全く今春落成せしが山の峠より尾鷲に至る部分は北牟婁郡尾鷲外四ケ村の有志者にて粗々改修のことは決定致し内尾鷲へ接近せしケ所廿五丁は既に成功したれども其以北は何分峻嶮なる山道なるを以て未だ其成功を見るに至らず尤も其落成したる北端より山麓迄凡そ廿四丁程は改修に着手し居れり然るに此頃は材木の市価騰貴せしが故に山林の所有者は競うて株伐を為すにより為めに人夫の払底を生じ予算の賃銭にては人夫を雇い入るるを得ざるを以て未だ落成するに至らず又其残りの部分2里余の処も既に改修の決議は確定致し居ることなれば遠からず着手するならん且つその落成の期限は来年の3月迄と聞けども該工事たる県庁にて管理するにあらざれば果して右期月迄に落成するや否やは確答致し難し然れども県庁に於ても大体は成功し得べしと見込む次荷坂より古里に至るの新道は番外に於ても之を実見せしが旧道に比すれば頗る便利なるが如し然れども古里より道瀬を経て三浦に達する道路即ち道瀬の負担に係る部分は未だ落成の場合に至らず尤も尾鷲より相賀に至るあいだは概略出来したれども亦た充分には成功せずと云う又相賀より馬瀬の間は甚だ平坦なれば旧道を少しく補修せば以て車馬の通行に差支なかるべし右に陳るが如く馬瀬より三浦迄の部分は大略出来したれども北牟婁郡の部分未だ落成せざるを以て其一部分のみ県道となすを得ず然れども早晩南北両郡貫通の上何分の詮議に及ぶ精神なり(後略)
明治20年通常会
(272丁)
四十一番藤井曰 (中略)南牟婁の道路は其地方人民の発奮により殆ど二万円に達する巨額を出して矢之子峠に達する道路を改修し其落成後既に一ケ年を経過したれども未だ県道に組入ざるを以て目下該路中往々破損を生じたる個所あるも人民自から之を修繕せざる可らず(後略) P>
藤井知事(だったっけ?)が改修しとけよーと言ったのを受けて木本側が改修されたのが明治19年。明治21年頃には荷坂峠の“新道”が出来、北から南へ向かって進められた。明治22年三重県:三重県広報第二百二十五号では明治21年7月完成ということになっている(明治20年議事録でも尾鷲側にも石橋橋梁が見事に備わっている云々の発言有り)が、矢ノ川峠北側はその後も改修が続けられたようだ。要するに明治23年には全完成の見込みということになっている。議論では県道編入して県補助をーという事だったが、そうか、当時は八鬼山越えが県道で、矢の子は里道として開削なのか(そのほうが県の補助になって県負担は少ない)。そういやどっかで路線変更の告示を見たような気もする。。。
道路交通情報の人が矢鱈と饒舌になったとき。
近世の和歌山街道は横野と粥見の間に大見坂という難所があった。明治20〜23の改修ではここを避けて欠の浦に新道を開いたという(飯南町史)。この大見坂と欠の浦がどこに相当するのかよくわからない。町史を読む限りでは欠の浦の先に畑井の切り通しがあったように読める(明治中期の改修で改修する予定だったが未完に終わった)。畑井は上記地図の中心、飯南中がある辺りである。この道は明治37年頃になって再改修され、ようやく幅2間の荷馬車道になったそうである。
素直に読むと現国道166号のラインが欠の浦新道で、いま道の駅飯南茶倉がある辺りが畑井の切り通しと思える。とするとその手前が欠の浦ということになる。んじゃあ大見坂はどこかという問題になるが、崖際の難所を避けて粥見に出る実線+破線道なんじゃないかと思うのだがはっきりしない。三重県の歴史街道のマップでは何事もなかったかのように現国道ルートを通る。
「欠の浦」という地名からすると崖なんだろうと思うのだが、そうすると畑井の対岸にある大崖が気になる。県道かつ近畿自然歩道にもなっている。ただし近畿自然歩道の解説頁には「和歌山街道」とあるだけで何時の街道なのかがわからん。そもそも大見坂はどこやねんという話にもなる。
右岸の大崖が欠の浦で、畑井―粥見の大見坂を避けてこちらを通したと考えることもできるかも知れない。その後明治37に現国道ルートを通した(畑井に切り通しを作った)と。そうすれば「その先」ひとつの誤記で済む。