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旧道倶樂部録"

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2010-10-27 メモ [長年日記]

[独言] 前回までのあらすじ

M9 舟戸経由高見峠
M16 舟戸経由?2.18.26.06
M19 舟戸経由!1.31.06.06
M26 太良木経由!1.18.34

[独言] 今回のabst.

勢陽五鈴遺響。1833年(天保4年)。江戸末期。

高見峠

本郡舟戸ヨリ和州吉野郡杉谷村ヘ一里二丁五十六間紀州和州ノ街道ニシテ高見越ト称ス高見嶺堀切アリ二州ノ堺アリ又鳥居アリ三十三丁十八間又杉谷ト舟戸ノ間鬼木茶屋アリ二丁六間ニ一里塚アリ
松坂府城国界堀切マテ十四里二十六丁四十八間アリ

鬼木茶屋はすべての用材を槐の巨木1つに求めて建てられたとかや而云。

請取峠

本郡多羅木ヨリ和州宇陀郡土屋原村ヘ一里三十一丁十八間渓[カン]四十一処難嶮牛馬不通歩荷ハ稍ク通ス 本郡波瀬村ヨリ大和州宇陀郡土屋原村ヘ二里十丁十八間難処牛馬不通

もしかして:御取越 by 戦前三重県誌[要確認]

新道峠

本郡月出ヨリ和州宇陀郡上村ヘ一里二十七丁五十四間

白髪峠

又和州宇陀郡大森ヘ一里二十四丁五十一間嶮路曲腸ノ地九十九ケ処アリ其径ヲ経ルニ艱苦甚ク忽白頭ト変スルカ如シ故ニ方俗白髪越ト称ス雑記所載シカラシ越ト云ハ非ナリ

ここには神武天皇云々は出て来ない。カラシ越とはワサビ峠のことかいな。雑記は南勢雑記のことかいな。中之島にあったんじゃんかくそ。

波瀬から舟戸・太良木・月出までの距離が要るのか…。>明治19年、松阪〜波瀬間12里77町137間207尺。約14里10間。道幅二間ないし一間三尺。七日市まで車通ず。この年じゃだめだな。

[独言] 伊勢街道奈良側

M15〜19大阪府統計書。伊勢街道の東端は下淵驛から和勢国境杉谷村まで。10里余。

M21奈良県統計では下淵驛〜上市驛と短くなっている(宇野嶺?)。M26では上市驛〜三重県波瀬驛、7里(木津峠?)。車不通だが幅1間2尺〜2間。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807305/103
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807310/110

[] 三重県史(昭和39)P.431:昭和和歌山街道改修

三重県と奈良県を結ぶ高見峠を含む和歌山街道は旧幕時代から紀州藩の重要街道であり、現在では林業上重要視されてきたので、高見峠開発について両県の意見が一致して、昭和九年八月共同調査をした。本県では現在の[梁−、*2−刀+刃]道の分岐点落方から木梶まで完成している林道(五キロメートル)を延長することとし、林道をもって木梶−高見峠間五キロメートルを開発して、奈良県道と連絡した。これは昭和九年ごろに竣工し、林道は県道に改められた。

see also 奈良県政70年史、奈良県議会史議決。麓落方までは昭和4年前後に開通している筈。

松阪市史資料編近代2の引用は明治19伊勢新聞。

「和歌山街道 過日も我が紙上に掲載せし如く松阪より射和村に至る三里間の道路は見殊に落成し、県知事を始じめ人々の皆喜悦に堪へざる所なるが、熊野街道も粗ぼ落成を告げ和歌山街道の如きも粥見村より高見嶺(とふげ)までは目下工事に着手中なれば、明春二月頃には全く竣工すべしと云へり 然る時は大和までは車を通ずるの便を得べしと云ふ」

その後音沙汰なし、というか粥見もできてない…。川俣=かばた

和歌山街道六呂木の隧道は明治18年とのこと。上とつながるのかしらん。って鳥羽見峠のことじゃないかっ

寄書 (注:たぶん明治19年)6月23日

鳥羽見嶺(とうげ)開削工事の早きを望む

(略)余熟々本郡の知性を按ずるに、東北より西南に延長し、郡の四分の三は山間に僻在し、道路険悪にして辻原以南に七曲り鳥羽見の険あり、粥見に大見坂の難路あり、宮の前以西に[王+爾](珍)しの嶮坂あり (中略)此を以て有志者或は之を憂ひ開鑿せんと欲するの議は、已に数年前より起こりし子ことなりと雖ども、未だ今日に於いて何れに着手せしやを聞かず、実に遺憾に堪へざるなり」

(松阪市史資料編 近代2 P.402)

(注:たぶん明治20年)7月21日

習慣を改む

(略 松阪愛宕町の人が旧習の見舞金を廃止し積立金にしたことで)彼の飯高郡の負担たる鳥羽見峠・七曲峠の開鑿費も、半ばは此余裕にて支払ひし程なりしかば(略)

(松阪市史資料編 近代2 P.430)

ずれてるな…。ともかくこの頃には改修ができたと。粥見地内も明治21年に改修工事の請負入札。

第三次広告(和歌山街道改修)1月11日

和歌山街道改修の内道路改修 延長二千百十六間、号数五十五ケ所、右調査済ニ付請負ヲ命ズ 尤モ開札ノ期日ヲ来ル廿日ト定ム 望ノ者ハ同日大石村出張所ヘ来会スべシ

明治廿一年一月七日 飯高飯野郡役所第二課

(同P.442)

初瀬街道(青山越)M23着工通常会で建議。新初瀬街道中街道(櫃坂越)M30台。新初瀬街道明治29年前後。この3つでほぼ事足りた。紀州領でなくなってしまえば松阪−和歌山を直結する必要もない。

[] 明治26年奈良県:明治26年度奈良県通常会議事録(再掲)

番外2(岡本)
木津より高見に至る迄の間に凡そ二里程の平坦部ありて此間に四十ヶ村程散在せり而して此村々に於て木津峠の改修を[北+異:き]望し其前後両端は里道の名称を以て開削したるも独り木津峠に至ては到底地方民力の及ぶ所に非ずとて地方税の補助を願出を以て伊勢街道の全通を計らんとしたる次第なり尤も改修工事落成後に於ける修繕費は一切地方に於て負担し更に地方税の補助を仰がざるとのことなれば左様了承ありたし
七番(山崎)
此木津峠を開削すれば伊勢街道は完通するに至るべきか
番外二(岡本)
此の峠を切下げ而して鷲家より峠に至る迄の間は地方人民に於て改修するとのことなり

要するに開通しないということだな>番外

明治36木津隧道。

[] 大正2年三重県:大正2年三重県通常県会(自11月15日 至12月14日)

歳入に於ては高見峠改修案の否決によつて地元寄付金参千八百五拾円を削減したのみで(以下略)

(三重県会史第二巻 P151)

問題となつた高見峠改修工事は飯南郡波瀬の和歌山街道から分岐し、大字舟戸を経て奈良街道に至る上市街道改修工事に対する本県負担の工事費は左の如く提案されたが、同工事の改修によつて利害関係の深い松阪町に改修反対の声が起り県会亦た賛否両説あつて曾て見ざる紛糾を来し、結局賛否の分野が賛成十八、反対亦同数、中立一名と云う奇現象を呈した為め押切つて開議に至らず二三日間延会或は流会を続け結局本案を撤回することゝなつた。

高見峠改修工事補助案
一金参万弐千弐百拾円 工事補助総額
内 壱千円 大正三年度支出 七千五百五拾弐円 自大正四年度至同七年度
備考(本案を補助とせるは工事主体奈良県の為めと解せらる)

(三重県会史第二巻 P155)

[] 大正2年奈良県:伊勢街道三重県側工事に関する建議

建議

一伊勢街道中吉野郡高見村大字杉谷に達する工事は、既に完成したるを以て、三重県に於て工事を起し速に連絡せしむるの要求を同県にせられんことを望む

理由

伊勢街道は三重県の工事と相俟って、両県交通の便を得るもの、然るに本県に属する分は既に完成すと雖とも、三重県に属する分未た着手せられす、是れ本建議ある所以なり、
右本会の議決を以て及建議候也、

大正二年十一月二十九日

奈良県会議長 吉川徳三郎

奈良県知事 折原巳一郎殿

(原文カナ漢・奈良県議会史下巻P.240)

下巻は詳しく見てないからな…再度。

[] 昭和5年奈良県:県道上市・松阪線高見越の早期開通を求める建議

昭和五年十二月二日

建議

県道上市、松阪線高見越の開通は多年の懸案なるに拘はらず、一部の完成を見ざるが為め開通するに至らざるは三重、奈良両県の連絡上将産業の開発上支障少なからず、是が開通は実に刻下の急務なるを以て、遂に三重県飯南郡波瀬村木梶字長畑国境に達する道路の改修を速成せられん事を、

理由

口頭を以て申述ぶ、

昭和五年十二月二日

建議者 竹田仁蔵
林定太郎
伊藤丑松
松岡[金+(護-言)]
青木重恭
岡本正治
県会議長 浅田好太郎殿

(原文カナ漢・奈良県議会史下巻P.289)

長島の魚、東吉野村郷土史p.297。笠木峠、荷坂峠経由!


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