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旧道倶樂部録"

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2011-03-02 [長年日記]

[独言] 村田鶴

昭和53年まで使われていた電話と住所を確認。それ以上はない。

どこまでもすれ違ったまま。お前には会いたくない、ということか。

[] 伊賀街道(旧長野隧道)

今日もまた情報を右から左に横流しするだけのお仕事ェ・・・

伊賀街道の改修と其発起者

伊賀国より伊勢津市に至る伊賀街道は山嶺聳立するが為め往来不便にして之が改修を企つるに至りたるも嶮岨の山腹を迂回し蜿蜒羊腸たる道路を作るを以て其工事頗る困難なりとす初め明治七年の頃奥久三郎、西尾清四郎の両氏伊賀国上野より津市に達する路程十有二里の道路改修に着手せしか巨大の巌石重畳し路盤亦堅固にして其工事の進捗遅々たりしも明治十年に至り漸く中の瀬阪改修の功を竣えたり是に於て稲上農、中野信蔵の二氏力を合せ又伊勢国関係村有志者も協同一致して長野嶺開鑿の土工を起し之を[宛+リ]鑿低下すること直立六十尺凹道を開く長百二十尺余又嶺上前後一道路を新設すること延長二十余町其の工費数千円に及ぶと雖も事業甚だ困難にして意外に費途を要し開鑿の功全きに至らず従て運輸交通の便亦全きを得ず醵集の資金已に尽き事業の中止を見るに至れり然れども四氏は之に屈撓せず其成功を期せしも雨水の為め岩石崩壊して嶺上の凹道を填塞し将に廃道に帰せんとす時の県令郡長之を惜み四氏に援助せしかば明治十四年更に有志を募り改良の策を講ぜしが勢伊の間地盤の高低甚しく勾配を緩くするも普通の道路にては到底通車の便を開くこと能わず依て従来の設計を変し中間に隧道を穿ち前後道路の勾配を緩ならしめんと欲せしも巨額の工費は民力の耐ゆるところにあるざるを以て県に該工事費の補助を仰ぎ郡役所に道路改修主任員を置き爾来官民一致協力して測量工費募集其他改修に関する諸般の方針を一定し十五年九月より隧道の試掘に従い同年十二月より道路の試鑿に着手し明治十八年漸く工を竣え翌十九年十二月終に開道式を挙行せり是に於て昨の嶮阻は変して今の坦道となり物貨の運搬大に開け衆庶交通頗る容易なるを得るに至りしは四氏の功を推さざるを得ず

(第九回関西府県共進会三重県協賛会「三重県事業史」(明治四〇年)より引用・原文旧漢字かな:出典は龍渓書舎「明治後期産業発達史資料第361巻」)

ついでに「補造化」が掛かっていた頃の写真。昭和35三重県史より引用。
画像の説明

情報は一度公開してしまうと後で補うことがしにくい。目に付くところに置いておくが吉。Google検索して数ページ数十ページ目に出てくるようなページが目に付く所か(わらい)というツッコミはどうぞご自由に。


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