nagajisの日不定記。
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大阪府には履歴・職歴が残されていなかった.そもそも明治・大正の公文書は空襲や何やらでずいぶん失われているという.確か大阪市史にもそういう話があったような気がする.市は早いこと疎開させてたから残ったが,府はもたもたしてるうちに資料庫が焼けて云々.
むしろ詳しい職員の方に貴重な話を伺えたことが大きな収穫.5月7日採用,9月に退職というのは技術系職員にしては異例の短さで,やはり「腰掛け」的な採用だったのではないかとのこと.定員がオーバーしている等の理由により直接移動することができなかったので,大阪府でワンクッション置いたのでは? と.具体例は頂けなかったがそういう事例はないでもないとのことだ.そういうこともあって両府県の内務部長・土木課長のラインを狙ったほうがいいのではという助言をいただいた.そう言われてみれば大阪府の職員はよくチェックしていない.
滋賀県職員に定員があったかどうかは調べてないが,村田来滋の頃,県議会で課長更迭のたびに職員が変わることを危惧した質疑がなされている.あまり目立った動きができなかったことは確かで,そのへんを慮ったクッションであったかも知れない.しかしその後杉山豊吉は直接滋賀県へ移ってるんだよな.その頃にはほとぼりが冷めてたということか.
その辺りのことは想像したことがないでもなかったが,なにぶんどのつく素人故に確証が持てなかった.専門知識を有する人がそう仰るのであれば確かだろう.
職員の方が余りによくご存知だったので,帰る直前に思い出し,土木局長通牒秘乙第333号がないかどうか尋ねてみた.んが,ここにも存在しなかった.一体何処へ聞けばいいのか.どこに行ったら附図が見られるのか.国立国会図書館まで騒がせたにも関わらず.
すまん,これはおれだ.ていうか国立公文書館に直で聞けということか.DA確認で終わってるやん>レファレンス事例
独立行政法人国立公文書館利用等規則第27条の2に従ってレファレンスを申し込むのである.明日.
済生会病院前に架かる阪急のトラス.昭和14年頃に「菱構(ラウテントレーガー)」で架け直す計画があったことを堀威夫が書き残している.そのパースも残っている.ようするにダブルワーレン的構+下半分分格という構造.
阪急の橋なのになんで堀が?と思うのだが本人がそう書いてるいうのだからそうなんだろう.鉄道省委託で市岡元町架道橋の拡築なんかやってるみたいだし>大阪市.新淀川新橋のあの路線がまさにこの場所から始まることを考えると都計道路を通すにあたって改築する必要が生じたのかも知れぬ.なお大阪市公文書館には記録が残ってない.
ということは以前は違う橋が架かってたってことやなぁ.途中に橋脚のある複スパンの鉄橋だったのかも知れぬ(パースでも橋の真下が小公園的緩衝帯に描かれてる).そう言われてみるといまのトラスは溶接+リベットだ.いつ架け替えられたんだっけか.
JSCE-Lib.の橋梁史年表によれば1958年架替.土木学会誌1961-8
http://members.jcom.home.ne.jp/kinmokusei/jpn_law/signs/S17_N24.html
昭和17年の道路標識令,ということで無造作に例示されることが多いこの標識.制定までにはずいぶん紆余曲折があったらしい.最初の内務省案では例えば禁止標識が赤字に白であったり「禁」の文字が入っていたりするものだった.法令で採用されたものの大半は日本道路技術協会道路標識委員会が作成した私案(上写真,のはず)から採られている.
それ以前は昭和9年に制定した交通標識,地方庁で独自に作成した標識(大阪府なんかも独自規格のを作ってた),さらに関西道路研究会によって発表された道路標識なんかがあって,一部は実際に掲げられたりしてた.あまりに統一性がなくなったので昭和13年の土木主任官会議で全国共通の交通標識@車社会向けを作ろうということになり,内務省の試案が諮問され,何度か議論の結果結果S17の標識令に結実した.このへんの話は『日本道路史』にもある.
しかし実際にどのくらい作られたかは疑問.金属が欠乏の極となっていたし,戦後は進駐軍向けにせないかんかったし.