nagajisの日不定記。
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朝より「ダンロ」に火ありたる故に、寒さを感じず、火辺にて集合し四方山話をなし、忽ちに昼に至る。十三時版酒保来る故に行きたるも、すでに売り切れぬ、何となれば、今日より公徳販売となるにてかゝわらず、皆が、どっと一時におし寄せ一人にて五十銭も買いたる者ある故なり。其の結果一年は二十銭不足となる。かくの如き事にては一年の恥なり〔「一年の恥なり」朱線し、欄外朱「同感」〕。近日始めて澄みたる風呂に入り何とも云えぬ感せり。今日の予定行動行うこと能わず。赤面の至なり。
〔nagajis:公徳販売はオフィスグリコのルーツのようなもの。商品代金を代金箱に入れる。誰かが20銭分払い忘れたということか?〕
朝は雨の為誠にむし暑きも次第に気温低下して風を加え日中室内にて全閉にて零度となる。近日来の寒気なりき。昭〔和〕十六年七月出征されたる古賀教官殿が帰って来られて広瀬教官殿に代られて我々三学班の掛りになられ幾何を習う事となりぬ。午後は自習及び体操、寒風をつき頑張りぬ。為に寝室に帰りたる時は裸体にても寒からざりき。鍛えよ冬に〔朱傍線〕。寒気克服。二十二時消灯と思いしものを二十時十分黙念となり大あわての所なり。愈〃明日よりの寒稽古に備えて。良好なり。
そのくせ、続くのだな。工事画報大正15年10月号・工事タイムスより。
■勞働大尉 神奈川縣戸塚町在の豫備騎兵大尉平野亨氏(三十七歳)は目下大船驛の鐵道工事に自由勞働者となつて仲間から尊敬をうけてをる。
殊勝なひともいたものだと思ったら、続きがあって、ちと解せない。
■平野亨氏 は曰く他の勞働者には階級意識があり心のつながりがあるが土工にはそれがなく勞働と賭博が生活の全てである、それで私は生活の向上をはかり度いとの心から自ら鶴嘴を握る土工となつた。
階級意識など要らない,シガラミに煩わされ度くない,という思いには,まあ納得できないこともない.でも,「労働と賭博が全て」の仕事に「生活の向上」を見出せるものなのだろうか?
とはいえ,この人は「やりたいことをやった」ひとである.あーだこーだと理屈をこねて,earningにしがみついてる誰かさん(nagajisのことだよっ)とは大違いである.要は実行する勇気なり信念なりが足りないのだ.平野氏,さぞかし満足したことだろう.
そういえばヨッキ氏と重なるところがないでもないな>平野氏
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/02-10/02-10-0382.pdf
大事なことを書くのを忘れていた。豊中えびすへは行ったがお飾りは断念した。高いのだ。いろいろ。恵んでもらったお金で余計なものを買うなという思いもある。
帰りの電車でつらつら考えた。ネットで働いてるんだからえびす飾りもネットでいいんじゃね? 以前七夕でやったように笹置いといて、それに自分で飾りをつけてさ。そしたら打ち出の小槌も小判もなんだかよくわからない小箱もJIS男もつけ放題。
でもそれじゃあ有難味が少ないし、第一儲けにならないなあ。沢山付け過ぎたら処理落ちするし、帯域食うし。
という辺りまで考えたところで、「お飾り買ってもらう」というアイデアを思いついた。1こ10円とかでつける飾り(例えばJIS男とか)を買ってもらう。代金は購読料から差し引いて。で、飾ってもらう。ログインページとかに。なんかネトゲーっぽくていい。
あるいは一つの場所にそういうのを持ち寄ってもらうのもいいかも知れない。その時は名前つきで。神社の鳥居とか灯篭とかの寄進者みたくていいんじゃまいか。
というわけで仕組みを考えているうちに、もっと汎用性を持たせていろいろな場面で使えるようにしたらと考え出した。そうしてCGIのアルゴリズムを考えているうちにふと
十日戎API
という言葉を思いついて、なんだかよくわからないがツボに入ってしまった。
そのへんで我に帰った。雪が舞っていた。
なんか悲しいので貼っておく。ベッコベコな返答されるのを期待。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1353374048
大阪府には履歴・職歴が残されていなかった.そもそも明治・大正の公文書は空襲や何やらでずいぶん失われているという.確か大阪市史にもそういう話があったような気がする.市は早いこと疎開させてたから残ったが,府はもたもたしてるうちに資料庫が焼けて云々.
むしろ詳しい職員の方に貴重な話を伺えたことが大きな収穫.5月7日採用,9月に退職というのは技術系職員にしては異例の短さで,やはり「腰掛け」的な採用だったのではないかとのこと.定員がオーバーしている等の理由により直接移動することができなかったので,大阪府でワンクッション置いたのでは? と.具体例は頂けなかったがそういう事例はないでもないとのことだ.そういうこともあって両府県の内務部長・土木課長のラインを狙ったほうがいいのではという助言をいただいた.そう言われてみれば大阪府の職員はよくチェックしていない.
滋賀県職員に定員があったかどうかは調べてないが,村田来滋の頃,県議会で課長更迭のたびに職員が変わることを危惧した質疑がなされている.あまり目立った動きができなかったことは確かで,そのへんを慮ったクッションであったかも知れない.しかしその後杉山豊吉は直接滋賀県へ移ってるんだよな.その頃にはほとぼりが冷めてたということか.
その辺りのことは想像したことがないでもなかったが,なにぶんどのつく素人故に確証が持てなかった.専門知識を有する人がそう仰るのであれば確かだろう.
職員の方が余りによくご存知だったので,帰る直前に思い出し,土木局長通牒秘乙第333号がないかどうか尋ねてみた.んが,ここにも存在しなかった.一体何処へ聞けばいいのか.どこに行ったら附図が見られるのか.国立国会図書館まで騒がせたにも関わらず.
すまん,これはおれだ.ていうか国立公文書館に直で聞けということか.DA確認で終わってるやん>レファレンス事例
独立行政法人国立公文書館利用等規則第27条の2に従ってレファレンスを申し込むのである.明日.
済生会病院前に架かる阪急のトラス.昭和14年頃に「菱構(ラウテントレーガー)」で架け直す計画があったことを堀威夫が書き残している.そのパースも残っている.ようするにダブルワーレン的構+下半分分格という構造.
阪急の橋なのになんで堀が?と思うのだが本人がそう書いてるいうのだからそうなんだろう.鉄道省委託で市岡元町架道橋の拡築なんかやってるみたいだし>大阪市.新淀川新橋のあの路線がまさにこの場所から始まることを考えると都計道路を通すにあたって改築する必要が生じたのかも知れぬ.なお大阪市公文書館には記録が残ってない.
ということは以前は違う橋が架かってたってことやなぁ.途中に橋脚のある複スパンの鉄橋だったのかも知れぬ(パースでも橋の真下が小公園的緩衝帯に描かれてる).そう言われてみるといまのトラスは溶接+リベットだ.いつ架け替えられたんだっけか.
JSCE-Lib.の橋梁史年表によれば1958年架替.土木学会誌1961-8
http://members.jcom.home.ne.jp/kinmokusei/jpn_law/signs/S17_N24.html
昭和17年の道路標識令,ということで無造作に例示されることが多いこの標識.制定までにはずいぶん紆余曲折があったらしい.最初の内務省案では例えば禁止標識が赤字に白であったり「禁」の文字が入っていたりするものだった.法令で採用されたものの大半は日本道路技術協会道路標識委員会が作成した私案(上写真,のはず)から採られている.
それ以前は昭和9年に制定した交通標識,地方庁で独自に作成した標識(大阪府なんかも独自規格のを作ってた),さらに関西道路研究会によって発表された道路標識なんかがあって,一部は実際に掲げられたりしてた.あまりに統一性がなくなったので昭和13年の土木主任官会議で全国共通の交通標識@車社会向けを作ろうということになり,内務省の試案が諮問され,何度か議論の結果結果S17の標識令に結実した.このへんの話は『日本道路史』にもある.
しかし実際にどのくらい作られたかは疑問.金属が欠乏の極となっていたし,戦後は進駐軍向けにせないかんかったし.
奈良市にある帝塚山大学。最寄駅が「学園前駅」なのでキャンパスの名称は「学園前キャンパス」なのだそうだ。しかしもともと1941年に帝塚山学園が開校し、そのために学園前駅が設けられたという歴史がある。学校のほうが先だったわけである。時系列に従えば学園前にできたから学園駅−>学園前駅前にあるから学園前キャンパスという流れになるが、とすると学園前キャンパスが前だと看做す学園ってどこ? と思ってしまう。卵が先か鶏が先か、あるいは自己言及の無限ループがひっそり潜んでいる。
要するに「学園前」ということばが地名として固有名詞として確立しているということなのだろう。
陸の道、空の道に続く第三の道・・・残ってるんかいな。
ファンいっこ夏目さんするんや・・・センサーなんていらんっちゅうねん。
「鉄道構造物探見」より。大正5年達1111号「鉄筋混凝土函渠標準」で甲(地盤良好・一径間)、乙(地盤不良・一径間)、丙(地盤良好・二径間)、丁(地盤不良・二径間)が定められた。昭和8年には鉄道省大臣官房研究所「単ラーメン函渠標準設計」で径間1.0m、1.2m、1.5m、2.0m、2.5m。「二連続ラーメン函渠標準設計」で1.2m×2、1.5m ×2、2.0m ×2、2.5m ×2。KS15。昭和12年建工第1109号で「鉄筋コンクリートラーメン設計標準で甲型(ボックスラーメン、1.0~2.5m0.5刻み)、乙型(門型ラーメン)。KS15。大正6年達第572号で鉄筋コンクリートボックスラーメンによる「停車場内地下道標準」。トンネルのほうは特にない? 御所トンネルが開削トンネルの例として出てる。
http://tabihatsu.jp/program/98173.html
募集人員にはまだまだまだ空きがあるそうです。1/27前後に体が開いている方、ぜひご参加下さい。宿泊代が出ます。nagajisに石を投げることができます。
部屋に鏡餅を置くことを始めてもう何年も経っているはずなのだけれども、記憶が正しければ初めて鏡割りの日に鏡割りを実行した。これは快哉というべきことではないだろうか。
今日びの安い鏡餅は鏡餅の型に流し込んで固めたいわゆる射出成形型の鏡餅で我が家も例に漏れずそのような射出成形鏡餅だったのだが裏面の説明書きによれば成形型ごと包丁で切って細かくして食えという。鏡割りは包丁を使わずに割るものだと教え込まれた旧世代の人間には一寸躊躇われる注意書きである。自分もしばし悩んだ末に旧陋を守ることにした。ガワだけ外して丸ごと煮たらええやんと閃いたからだ。しかしガワがご丁寧に鏡餅の段々くびれまで再現していたものだから簡単には外れず結局ガワを包丁で切ることになった。端の方を切って無理やりひっぺがして中身を取り出した。それを丸ごと鍋に放り込んで煮て食った。予想通りのドロドロになったがまあ食したことには間違いなく鏡餅の体面も保たれたというものだろう。割っていないことについては敢えて触れない。
何とも脈絡のない流れである。足が駄目なら上半身を動かせばいいという発想からバッティングセンターの存在を思い出しかれこれ二度ほど通っている。うちからだと江坂のバッティングセンターが最も近い。
中学生の頃田舎にもバッティングセンターがあったけれども、小遣い制度が導入されていなかった我が家の私にとっては贅沢以外の何物でもなかったしそもそも打撃がからっきし駄目であったものだから足繁く通ったというようなことはない。むしろ指を咥えて眺め憧れるような存在だった。そうして野球をやらなくなり数十年が経過した今ふと思い出せば無理なく好きなだけ楽しむことができる場所として最適な存在であることに気づいたわけだ。
初日いきなり120km/hの打席に立ってびびり上がったあと90km/hに立ってしまい全くタイミングが合わない腰砕けを演じたりしたが、思っていた以上には当てることができたので嬉しかった。齢43になって今更打撃開眼か、と思ったりもした。無論「開眼」いうほど快音連発なわけでもないのだが。あくまでも事前予想よりは当たったというだけだ。
父親からは野球の手ほどきをほどんどしてもらわなかったように記憶するのだが(だってそんなにまじめにやっていなかったのだもの)、唯一教わったことがバッティングの際の構えであった。バットを立てて構えろと言われたのだ。理由もよくわからずとりあえずそれに従っていたけれども試合に出ることもなかった自分にはそれを活用する機会がなかった。いや、一回だけあったな、代打で出てまぐれ当たりをかましたっけ。
途中でそれを思い出し、こんなんだったっけとやってみると、これが案外よく当たった。原理はさっぱりわからないがこれが自分に合った振り方なのだろうと思い今更ながら父親の慧眼に感服したりしている。時既に遅過ぎではあるが。
前に飛びはするけれどもなかなか芯を食わないのが気に食わなくて初日だけで8ゲームも振ってしまった。今日は残りの4ゲームを消化。やはり会心の当たりはわずか。この調子だとマイバットを購ったり夜な夜な公園で素振りをしたりしそうである。そこまでしたところで成果を還元する場面も披瀝する相手もいない。
遊んでばかりいるわけではない。原稿も書いている。久しぶりにTUKAさん方式に挑戦していて、短文だとかえって大変なのだなと思い知っている昨今である。だらだら書けば何だって/どうだって説明できるのだ。数行の文章に必要最小限を詰め込んで、なおかつさらりと読めるようなものに拡げるのがどんなに難しいことか(詰め込んで、なんて考えるからいけないのかも知れないな)。
ドロップシャドウをできるだけ使わないようにしたせいか、サイズ的には許容範囲内に収まりそうな塩梅。しかしこれでポップアップをつけたら急激に肥大化したりするから油断できない。
約束を違う行為詐欺行為はもちろん許せるものではないけれども、成人の日一日のためにあれだけの大枚をはたける人があれだけもいるのだなあと思い、振り返って我が身はどうだと思うことしきり。「一生に一度のことだから」とはいうけれどもそんなに晴れがましい誇りに思える行事だったっけと思ったりもする。自分ん時はTシャツで出席して1/3くらい居眠りしとったなあ。
一生に一度かあ。探索だって今日のバッティングセンターの第n打席だって全く同じ場面は二度と経験することができないのだからそれも一生に一度の出来事と言えば言えるのではないか。こちとら瞬間瞬間を必死に生きているのだ。うん。そういうことにしよう。
あれこれそれと手広く仕掛けていたものものが今日一日に集中して去来した。関西窯業の近代I。「のぼり窯」と「れんがと女」。宮津市教育委員会さんから賜った資料。ここで手をつけたらげんこーが進まないと思って自重していたけれども、結局我慢ならなくなって「れんがと女」を詠み始めてしまう。そして詠み終えてしまう。いかん。いかんなあこんな本。参考にならないわけがないではないか。感想を書くのもおこがましいカンジで困る。
一昔前だったら「煉瓦造り」をこれほども克明に記録できたのだな。いやまだ間に合わないと決まったわけじゃないが。しかし調べ得たとしてもこの本みたいに有益なものとして後世に残せる気がしねえ。「歴史」という無味乾燥で平板な情報、でさえも覚束ないとおもうぞ。
_ しとろん [すまん、腹減ってたので美味しいかと思ってしまった。]