nagajisの日不定記。
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帰ってきた.今回もまた刺激的な内容盛り沢山で大満足.近代化には「毒」が含まれているというお話.モノ=ハードではなくソフトであるというお話.自分が好きなものに矛先が向けられたような気がして一瞬身構えてしまうのだが,よくよく吟味すればその通りで,自分が漠然と考えていたことを的確な言葉で表現して下さったのだということに気付かされ,非常に腑に落ちた.自分にとっては戦争であったり皇国思想であったりが「毒」に相当する.物件を客観的に見ようとする時に邪魔になるものだ.モノ=ソフト論だって,ものづくり・道づくりに込められていた創意工夫,想い,妥協点,のような人臭さが面白く感じられるからこそ考究してみたいと思うのだ.ただ自分がどうしても技術者寄りの視点で考えがちで,技術=善のように考えてしまいがちなところに難がある.その視点もまたモノを見る際の客観性を損ねている.
KINIASは本当にさまざまな視点を持つ人が集まってくる.異なる意見も差し込まれる.そうしてそれを受け入れて視野を広くする懐の深さがある.そういう知的な成長が,私のような素人にも得られる,貴重な場なのだなと改めて思った次第.
庄谷先生も仰っていたけれども,産業考古学という学問は素人の寄り合い所帯で始まったものだった.素人が残されたものに対してあーだこーだと議論して究明しようとした所から始まった.だから私のような素人も参加することができる.単なる同業研究者の慣れ合いの場(といったら他団体からお叱りを受けるかも知れぬが)ではなく,それがいい意味でも悪い意味でも特色になっている.
個人的には,産業遺産・近代化遺産の研究をすることで,自分が生まれる前の世界を知るというか,近代とは何ぞやを明らかにしてみたいという思いがある.歴史学的・学問的な意味でと言うより「知りたい」という個人の思いを実現させたいということ.ちょんまげ脇差の時代からたった数十年で工業国になり,今でも世界に影響を与え続けている国になった「不思議」を明らかにし,納得してみたいと思う.近代以降は残された資料が膨大にあって,それがまだ整理し切れていないから,例えば県史なんかは「近(現)代」の巻が未完な都道府県が多い.大半がそうなんじゃないかと思う.そうこうしているうちに世の中はものすごいスピートで発展し,ネット社会になって,情報の蓄積量が加速度的に増えている.それを消化する暇もないほどに.その間にも忘れられていくモノや想いが大変多い.今ならばまだ当事者の生の声を聞き,残し,整理を始めることができるだろうし,ネット社会になったことで逆に情報収集・整理がしやすくなったはずだ(何にも知らない自分がこれこれこういう資料が存在することを知り,場合によってはそれを家に居ながらにして見ることができ,自分なりに学ぶことができる-近デジだとか土木デジタルアーカイブスとか-).それを飯の種にして命をつないでいけている.有難い世の中になったものだと思わねばならない.
歴史を学ぶのは,それによって未来がどう変わっていくかを予想するためだと言われる(決してテストのためではない!).これまでの変化のしかたから今後を予測し,未来へ向かって外挿線を描くために学んでいる.最近はあまりに変化が急すぎて外挿線の信頼性が悪くなっているとはいえ,基本的にその考え方は変わることがないだろう.産業の歴史を学んでいる我々自身の未来はどうなるだろうか.様々な意見がぶつかり合う寄り合い所帯は,将来どのような発展をするだろうか.そんなことを考えた.空中分解してしまうのか,何かのために結束するか,それとも「なあなあ」のままダラダラ続くのか.
あと,しきりと啄木の
友がみな われよりえらく 見ゆる日よ
花を買ひ来て 妻としたしむ
の句が思い浮かんだ.KINIASのような場では自分の知らない知識が次々と飛び交う.自分の持っていなかった視点がどんどん提示される.自分が何も知らないことを思い知らされる.向こうは大学の先生だったり学芸員だったりするのだから当然なのだし,もっと言えば自分以外の人は誰でも自分の知らない世界を知っているのだから,人と合えば齟齬が生まれるのが当たり前だとも言える.ただ人間は,自分が他より劣っていることを悟らされた時,弱さが出る.自分だって知っているんだぞ,ということを表に出して対抗してみたくなる.そういうものじゃないだろうか(子供の頃の不毛な言い争い.10を知っていると言われればこちらは100と答え,じゃあ1000と言われ,10000と答え…….那由多を飛び越して無量大数になって終わる).だから啄木も,花を求めて風流気分を味わうことで劣等感を補償したのだろうし,しかも人と競い合うようなことをせず,花を買い来て嗜む程度に留めて,自身の矛に鞘を被せるのほうが,手っ取り早くかつ効果的だ.すごく複雑な人間的な葛藤を三十一文字に納め切った素晴らしい句だと思う.
自分がORJであることないこと書いているのも,畢竟同じ心持ちからくるものだと思っている.社会的には最底辺に近い暮らししか出来ていない自分が,まるで社会の一員であるかのような顔をして,したり顔をしていろいろを書き散らいている.そうやってあたかも物知りになったような気分になっている.背伸びして自分を大きく見せかけている.決して勧められたやり方ではない.しかしそうやっているうちに,一緒に花に親しんでくれる人が見つかるのではないか.同じ事に興味を持ち,ともに花を楽しんでくれる人が現れるのではないか.新たな知見に繋がるのではないか(今回の講演のように).そういう思いがあるからわざと本筋を離れ,辺境へ辺境へと進んでいる.
誰だってスカッと爽やかなほうが楽しいに決まっている.だからといってそれに合わせず,脇道ばかり探し回っているのは,自分の劣っていることを補償しなければ生きていけないヤラシサに気づいていて,背伸びをしてばかりなことに反省しているからで,妻求めがもともと高望みなことであるとわかっている(つもりでいる)からだ.だから私は両手で数えるくらいの反応しかなくてもいい.むしろ反応して下さっている方々に申し訳なくさえ思う.
申し訳なく思うけれども,生きていくためには書かなければならない.否,書く以外に生きる術を知らない.そういう底辺者だという自覚がある.しかも底辺者で居続けたいとも思わない.勝手なものだと思う.そんな矛盾を抱えていながら「謙」を名乗らねばならないから,私は下の名前が嫌いなのだ.自分には重すぎる漢字だ.
KINIASでも近代化遺産でもない面白い発見.バッキーボール亜種の遊具.登大路のすぐ脇で見つけた.
正二十面体かと思ったがそうではないらしい(アルコールで頭が回らないのでまだ数えていない).中央の支柱の作りも独特.ただ格子の間隔があまりに小さすぎるので大人が潜って遊んだりすることができない.そういう用途で置いてあるのではないことは重々承知しているが.
数えてみたら60面あるようだ(上から5+5×5+5×5+5=60).でも正六十面体なんてないしな.微妙に歪んでるんだろうか.
多分、辺の中点を繋ぐとバッキーになるのではないでしょうか。<br>自信はありませんが。
間違った、面の中心ですね。60ですし。
1つの頂点に6個三角形が集まる所があるので、構成面は正三角形ではないですね。(60度が1箇所に6つ集まると平面になってしまう)<br>1つの頂点に集まる三角形の個数で分類すると、恐らく<br>・三角形が5個集まる頂点→結ぶと正十二面体ができる<br>・三角形が6個集まる頂点→結ぶと正二十面体ができる<br>となるので、立体のイメージとしては、正十二面体の各面に正五角錐をくっつけたものかなあと。<br>(この予測が正しければ、これだけの条件では立体の形が定まらないことになりますが…円に内接するなどの条件があればまた別でしょうが)
確かになりそうな感じですね>面をつなぐとC60.<br>五角形のところばかり見ていたので見逃してました.正面に六個集まってますね.<br>問題はこれをどうやって設計したのか・・・各部材の長さをどうやって決めたのでしょう(C60も).同じ立体の模型を作ってはる方もいるみたいなので,手法があるのかも知れませんが.