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2012-08-22 [長年日記]

[独言] 奈良図籠り

不用意な発言にツッコまれたのを隠すためいろいろゴチャゴチャしてしまったので明日に書く。奈良図に籠ってきた。北今西施業森林組合は大正4年の設立後の資料が別建て簿冊で保存されている。んで軌道・索道の計画を把握。高野竜神スカイラインの元になった軌道が北今西のものだということ、弓手原からそこまでの索道だったことを把握。弓手原索道は弓手原索道会社が大正4年に申請・許可を得たものだが、それを北今西が買い取って組合員の利用するものにしようとしたらしい。ついでに索道起点から奥へ入っていく木軌道と木馬道を開設して「完全なる林道網」を開くつもりだった。

計画が壮大すぎたせいで日本勧業銀行が資金融資を渋り、県の勧業課がずいぶん苦労した。 何とか事業を成功させようとしてあれこれ取り次ぎ取りなした結果、京都と和歌山の材木商二人(それぞれ資産20万円と15万円)が保証人となり、県からも官吏を派遣して事業の監督をさせることを約束したことでようやく融資が成立している。それが大正6年の4月2日のこと。

弓手原索道は大正7年に完成したことになっている@ 架空鉄索道台帳 。しかしこの索道、昨日の画像にもある通りまともに動かなかった(S10低利融資申請書)。そうしてその資料にある「五哩五五」の軌道というのが、辻ノ茶屋から高野山大門まで引っ張ってた軌道のことと思われる。大正5年の計画書にあるその軌道が五哩七分とされているうえ、その敷設が終わり、最後の砂利入れ?をする段階にあったことが、技手の視察復命書に書かれてある。。。残りの「林間軌道」はどうなったんねん、という話。仮に作られていたとしたら一部が車道化されずに残っているはずで、二つの製材所跡などは間違いなく残っているはずなんだが(製材所については復命書にも書かれている)、軌道については期待薄だろう。大正5年時点での軌道長と昭和10年時点でのそれとが若干異なるということだけが 微かな希望。そうして計画を前倒しして甲区の第一林班だとかを伐採していた。それを出すなら林間軌道がなければならぬ。しかし索道が機能しなかったらしいからアレなんだけどな。

以上の話が、16日の調査で教わった紀州林業の木軌道につながっていくのかも知れない。北今西の計画では紀州林業木軌道が作られた谷も組合の事業地になっていた(そこまで索道を延長する計画まであった!)。しかしYさんの話では高野竜神スカイライン方峠まで牛馬車で引っ張り上げていたという。昭和7年頃の話。そうしてそこから索道で下ろしたと。もし弓手原索道がまともに機能していたらそんな苦労をする必要などなかったのだ。

北今西施業森林組合の件が期待倒れに終わったかわり、 野川土工森林組合が紀和隧道を開削したことを資料で裏付けられた。これで調査票がまともになるぜ。ついでに和歌山県内に二つの軌道を発見。なんだか軌道ばっかりだが、わかりやすいんだから仕方ないじゃろ。

その他に軌道を敷設したのは、川迫土工森林組合、笠捨土工森林組合、伯母ヶ谷土工森林組合。 中奥土工森林組合もそうかも知れない。計画だけなのが洞川土工森林組合(S14までの時点で)。ここはずいぶん杜撰だった。電索の終点から山上川沿いに入っていく軌道を計画して資金2000円を借りたくせに3年9ヶ月経っても着工すらできず返済方法も決まらなかった。吉野銀行が怒って知事に掛け合ったりしている。なんだかなあ。ちなみに川迫の軌道はかなり残ってる筈。

これだけ豊富に森林組合関係の資料があると、どういう変遷をしたかまとめてみたくなるのだが、自分では役足らずだろう。組合法とか補助制度とか資金の借り方返済方とかわからんちんなことが多すぎる。資料の量も半端でないし。本来ならその方面から(経済学的アプローチで)分析すべき対象なんだろうな。そうして軌道ばかりに注目するのも変。せめて車道開設も含め「軌道以上の林道を開設した組合」でくくらないと。

それから大和山林会の果たした役割も要調査。植林育林の技術指導や研究なんかはもちろんのこと、林道敷設の指導や設計の請け負いみたいなこともやっていたようだ。洞川だったか川迫だったかは県から技術員を招いて相談をしていたようなんだけど。いろいろなつながりがあるものだねえ。知らないことが一杯だねえ。

ああ、奈良図の子供になりたい。なって泊まり込んで資料分析したい。往復にかかる時間も費用も馬鹿にならないし、何より落ち着いて読んでられない。北山川の河川占有物一件とか永田家文書とか東熊野街道縦断図但廿一葉とかも読みたいんだ・・・。

[独言] そしてまた留守にする

大詰めになってきたのでフル稼働しなければならぬ。どうせ今年だけの命だ、好きなだけ無茶するといい。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]
_ iso (2012-08-22 18:17)

ORJのアンケ送れないのでこちらに…。戦前の日本の電力史を確認していたところでしたので、興味深く読みました。カンパイは関西配電でしょうね。発電施設は日本発送電の持ち物になるのですが、通常、メーカーより販売会社のほうが知られるので、関西配電のものだとAさん(77)は認識されていたのでしょうね。(ご存じでそう書いているのでしたら失礼)

_ nagajis (2012-08-22 21:59)

おおご指摘ありがとうございました。関西配電という名前は最初に頭に浮かんだんですが、よくわかってなかったうえに施設のことばかり頭にあって日本発送電のことしか書いていませんでした。次回訂正する時に反映させていただきます。<br>てゆーか前号の修正もまだだろ!>nagajis


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