nagajisの日不定記。
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こいつの正体がわかった。日本発送電の社章だ。昭和14~26年に使われていたやつだ。 丸にノコギリだと思っていたがそうではない。電気をイメージした稲妻、しかも若干右肩上がりだ。
おかげでいろいろ説明できる。村に払い下げられる契約がどこかへ行ってしまったことや、先日見てきたあれやこれやを。
いつだったか3枚100円の数合わせに購入した一枚。いくら近遺調中とはいえ他県の発電所の絵葉書まで手を出すとは・・・。nagajis哀れ。しかし「 この世のどこかにはこれを必要としている人がいるかも知れない」という思いがあったのも事実である。奈良のこういうのがあれば私は喜ぶもの。
必要な方、いたらご自由にどうぞ。もっと大きなサイズのものや実物が必要であればご相談ください。
ほんとは旧大塔村役場で撮った看板に言及しようと思ったのだが、よく考えたらネタに使えるのな、ということで中止した。同じものを川上村かどこかの廃道で見た記憶がある。錆び錆びでよく読めなかったがあれと同じものだったはずだ。
天辻峠を越えて十津川流域に入るたび、毎度毎度飽きもせず、臆面もなく、「よくもこんな場所に人が住んでいるな」、と思う。大塔などはつい数年前まで独立した村だった。そんな村が約100年も存続していた。暮らしていくだけでも大変だろうに、そのうえ村の機能を維持していたのだから、驚くべきというか、敬意を覚えるというか。
昔は自給自足で暮らしていけたのだし、そういう暮らしが日本の山村の「普通」であって、全国どこでも見られたものだ、と頭ではわかっているつもりでいる。けれどもそれを現実のものとして見せつけられ、目の前に延べられると混乱をする。実感が理解を上書き消去してしまう。あの電光型のつづら折れを登り詰めた先の一軒屋は、いったいどうやって暮らしているのだろう。毎日の食事の食材はどこで入手し、どうやって運び上げているのだろう。車があるとしても(いや、あるに違いないのだが)そのたびごとにあの電光石火を登り降りするのか。今はともかく、家を建てる時はどうしたのか。建材や家財道具はどうやって上げたのだろうか。村の寄り合いのたび、いやいやゴミ出しのたび散歩のたびにあの坂道を行ったり来たりしていたはずで、よくそんな暮らしが永続したものだと思う。道があるからにはそうしているに違いないのだが。
見かける人はみな顔に深い皺を刻んで屈託がない。それはまだ元気なうちだとしても、年老いて足腰が立たなくなったときはどうするのだろう。集落があるということは、大昔から暮らしが続いていたということで、数え切れない代数を重ねているに違いなく、その連綿を思うだけで茫とする。昔は家族の構成人数も多く、看取ってくれる後達も事欠かなかっただろうが、若者が出ていき、集落に老人ばかり残されている今日、 冷たい言い方かも知れないが最後の一人も残るまいと思う。
舟ノ川流域は特にその感が強い。沼田原。中井傍示。惣谷。そして篠原。互いに何kmも離れていて、隣在所まで歩くだけで30分~1時間は費やされる。アスファルト舗装であってもだ。車道以前の細道だった頃はどんなに大変だったか想像もつかない。もしくは逆に、石ころ一つ、枯れ枝一本落ちていない、学校のグラウンドの表土のような地道が延々と延びていたのだろうか。
幹線街道が通っていたわけでもないはずなのに住民は多かった。各在所に一つずつ小学校があり、惣谷のは中学校も兼ねていた。 最盛期の篠原には100軒近い家があったとも聞いたし、実際篠原の小学校だけは二階建ての立派な木造校舎だ。いまの在所の住人を一部屋に集めても満たせないだろう。
これといった産業があったわけではない。昔は木杓子の生産が盛んだったというけれども、それだけで村が成り立っていたわけでもあるまい。林業が最大の支えだったに違いない。しかしその産業が衰退してしまった今、ただただ衰えていくばかりだ。どこもそうだ。惣谷はまだ人の暮らしの気配がしたけれども、中井傍示は村のコミュニティバスすらデマンド方式になっている。連絡がない限りバスが来ることもない。
定期運行のコミュニティバスは、昔の大塔村役場(いまの五條市大塔支所)の前を出て、標高1300mの高野辻を越え、篠原を経由して惣谷まで行く。舟ノ川沿いの県道が深層崩壊の危険ありといって 惣谷~中井傍示間で通行止めにされているため、コミュニティバスも惣谷で折り返していく。また1300mを登らなければならない。標高差でいえば600m、それだけでも一仕事なうえに15%の勾配が続くとんでもない道。冬になれば峠に雪が降り、融雪剤も効かない厚さに積もる。そんな道で篠原や惣谷の暮らしは維持されている。気管にチューブを突っ込まれた喉頭ガン患者の如し。
早いこと県道を復旧してもらいたいものだが、県道上何百mかの山腹に亀裂が入っているとかで、対処のしようもないようだった(実際そのような未崩壊を何とかする方法なんて、ないんじゃないだろうか)。ガードマンを置いて時間制限をかけて通すしかないね、いずれそういうふうになるだろうね、とコミュニティバスの運転手さんは仰っていたけれども、抜本的な解決であるはずもなく、かといって他に良案もないという、八方塞がりな状況に、相づちを打つこともできなかった。市町村合併で市の一部になってしまったことや過疎進行中であることも考えると4πrの全立体角が塞がっているといってもいいかも知れない。
過疎に悩む村。もう何十年も前から懸念され、いろいろな対策が取られてきたにも関わらず、それを克服した村があるとは聞かない。社会の摂理として仕方ないことなのだろうか。現代が現代であり続けるために必要な犠牲なんだろうか。道が整備されたら改善されるというわけでもないし。
天辻峠を越えて数十分も行けば五條の市街があり、安くて豊富な品揃えのAEONがあり、ガストやすき家やマクドの明かりが不夜城を成している。これも解せない。その賑わいの数十分の一でも天辻を越えたなら十津川流域はもっと暮らしやすくなるだろうにと思うけれども、そういう機運がこれっぽっちもないのは言わずもがなで、相対的評価で言えばかつて秘境と呼ばれていた頃と同じかそれ以上に差が開いているのではないだろうか。他所のそういう不便な地域をたくさん見知っているわけではないけれども、例えば四国の山の中や、中国産地の奥、奥羽山脈の麓でもここほどの寂しさを感じたことはない。どんなに小さくても、売り物の賞味期限が切れていようとも、食事のできる店もしくは商店の一軒もないような在所は見かけなかった気がする。ここは自販機すらも存在しないのだ。
東熊野街道の沿道がそれほど寂しくないように思えるのは、沿道に在所が集中しているからだろう。国道169号から見えている範囲が村の暮らしのほぼ全てであり、民家の数も多い。まだ暮らしが成り立っているなと思うことができ、自分がそこに移り住んでいる姿を想像することもできる。天辻以南はそれさえ叶わない。
いろいろ感じるがそれをうまく表現できず、答えも見いだせないゆえに未消化。
久しぶりに心地よい夢を見た。なぜかパルクールのようなことをしていた。壁を蹴って一回転してみたり、普段以上の高さにジャンプしたり。夢の中での動きはまどろっこしいことのほうが多いのだが、(しらふの今思っても夢の中の感覚でも)夢だとは思えないような軽やかな動きに独りで自惚れていた。パルクールというジャンルの存在理由がわかったような気がしたものだが、無論現実世界ではそんなことのできない鈍重者である。靴の紐を踏んでこけそうになるような運動音痴である。
自転車に乗れることと運動センスとは関係がない、と思っている。自転車なんて漕いでりゃ進むんだ。同じ動作を繰り返す退屈さにどれだけ耐えられるかっていうだけで、むしろ忍耐力のほうが要求され・・・と書いたところでそれすら持ち合わせてないんじゃね? と思ったりもした。
閑話休題(たぶん2度目)。壁を蹴って二倍以上にジャンプするのは高校時代にやったことがある。それでバスケのダンクシュートができた。折り畳み式のゴールなのでそれで届いたのだ。
つかれているはずなのにねむくねえ。下界に降りてきたのが嬉しくてコーヒーがぶのみしたからか。3日分の鬱憤が溜まっているのか。王将で食べたおすすめセット(ちゃんこ風チャンポン+焼き飯)が想像以上にボリューム大で苦しめられたからか。テントの中ではすっと眠れたのにな、珍しく。
寒冷前線の通過で雷が鳴るという予報通り、0時過ぎに雨が降り出し(その音で一度目が覚めた)、4時頃大きな雷で目覚めた。しかし雷はそれともう一度鳴ったきりだった。あとは遠かったな。山の中だからよほど近くないと音が響かない。実家は盆地だったからその違いがよくわかった。たまに大きな音がすると心底びっくりしたものだ。それが大阪に来てレアケースだったんじゃなかったことを知ったのだった。
昨日は一日中の雨。八木まで帰ってきた頃ようやく上がった。そのおかげで八木町元標と真菅村のを楽に探せたのだ。うんうん。誰も聞いちゃいない一人語り。
昨日朝に炊いた飯が見事なまでの芯飯で途方に暮れた。あそこまでの芯飯は久しぶり。記憶をまさぐってもすぐに出てこない位の昔の話だ。
原因はすぐにわかった。その前の日の晩に飯を研ぎ、適量もしくはそれよりも多いくらいの水を入れて一晩寝かせておいたのだが(夜中に雨が降ることがわかっていたので、朝やると川の水が濁っているだろうという判断から)、それをそのまま炊いてしまったのだ。中を確認して水を足さなければいけなかったのだ。水分を吸ってふやけた分、水を足さなければならなかったのだ。のだ三連発したくなるほど目から鱗の気付きだったのだ。
前日の晩から米を用意するのは合宿でよくやった。出発時間を早くする工夫だ。けれども一人旅では、 朝はのんびり出発したい質なのでほとんどしたことがない。珍しくやるとこんなヘマをする。&合宿で何度か食った芯飯もそうやって産み出されたに違いない。と十数年を経てようやく気がついたわけで、そのへんに書いてみたくなる要素があることを推し図っていただきたい。
いつもなら我慢して食うところだが、外は雨で出たくないし、昼過ぎのバスに乗れば良かったし、さほど腹も減ってないしだったので、禁断の「二度炊き」に挑戦した。ご飯をほぐして全体が濡れる程度+アルファの水をかけ、再度炊いて、ぱりぱり言い出したところでストップ。そのまま放置したところ、昼食った時には芯がなくなっていた。うんうんいけると調子に乗って食い過ぎたほど普通の仕上がりだった。ついでに芯飯の復旧方法まで会得したわけだ。ハラショー。オーチンハラショー。しかしこれは・・・使えそうな使えなさそうな技だな。昼缶用飯にはいいかも知れないが本来いますぐ食べるために炊いておるのだ。自分の場合は。
なお、自分の米の炊き方はセオリー通りではない。最初から最後まで同じ火力でぐつぐつ煮るような感じ。よほど吹きこぼれない限り火を弱めない。 パリパリ音がし始めたら炊き上がり。若干汁が浮いて坊主を形成していてもOK。蒸らすことでほどよくなる。なおこの炊き方は愛用している携帯ガスコンロか家の一口コンロでしか通用しない。普通の火器で同じことをやったらベチャ飯になるか炭化米を作ってE氏を悦ばせてしまう結果になる自信がある。