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2012-12-19 [長年日記]

[] 宇治電之回顧

長殿急を書くときに若干うろ覚えのまま書いてしまっていたので再度読みに行く。改めて林安繁の怨嗟の念凄まじを痛感。これが昭和17年に出版されたものだということを念頭に置いて読まなければならぬ。


電気事業黎明期から昭和一けた台までは、官民がちょうど親子のような関係で互いに相補いながら発展してきた。林が「両者の間には温かき情愛が、脈々として流れていた」と表現するほど睦まじいものだった。

然るに満州事変勃発以来、所謂革新的思想が官庁の間に瀰漫し、その結果として自由経済打倒論が台頭し、民間事業者を目して、単なる利益追求者と認め、その間に於ける経営の苦心の如何に大なるかを考慮の中に入れないで、氷の如き冷やかさを以てこれを批判し、これを打倒せんとする思想が生じ、各官庁の中層階級に横に一線を画して、殆んど例外なしに瀰漫したのである。

して、昭和10年頃から電気事業国営論が唱えられるようになる。最初は企画院の方面から起こり、それが発表された途端に電気事業者の株式が暴落。さらに昭和11年3月、 広田弘毅内閣の頼母木逓信大臣により逓信省案が出されて又々暴落。

即ち従来の事業を護(も)り立て、これに依って生産の拡充を図らんとする方針が一変して、労力に対する当然の報酬たる利益を制限し、事業の発達を抑圧することに主力を注ぎ、茲に官民対立の形勢になったのである。

頼母木案:配電事業(電気の小売事業)を除き、電気事業そのものを取上げ、その財産価格を評価して、それに相当する額を新設する発送電会社(=日本発送電)に投資するという形で「政府は一文半銭を費やさずして」国家による電力管理を成し遂げようというもの。

これに対し、民間電気事業のみならず財界一般も大反対した。曰く事業者の資産を強制的に取り上げることは憲法で保障された財産権を侵害するものである、曰く国営化によって電気料金を2割3割減じることができるというけれども、各国の現状に照らしても、国内各種の物価に比較しても決して高いものではなく、この十余年物価が上がり続けている中で電気料金ばかり下げられている実情がある、これ以上下げるすべき筋合のものではない。等々。

頼母木案は昭和12年1月の内閣総辞職で消滅したが、同年6月に第一次近衛文麿内閣が成立し、永井逓信大臣が再び電気国家管理問題を掲げた。

永井案:火力発電設備、送電幹線を徴収し、半官半民の日本発送電会社を設立(政府は株式を所有せずだが強力な管理下に置く)

この案では水力発電施設を事業者に残すとしたが、林曰く「重大なる欠点」。斯界の基本方針は水主火従であって、火力だけ接収しても効果がないことは(徴収される側にとっても)明らかであり、愚策に他ならないと糾弾している。

永井案は民間事業者も出席した審議会の場で諮られたが、場に出された時点ですでに成案同様となっており、「民間と協議した」という体裁を整えるためだけに開かれたらしい。そのくせ議会に提出された法案は審議に手間取り、閉会後に一日延期したうえに各種条件を付与せられて辛うじて成立(電力国家管理法日本発送電会社法: 昭和13年3月23日 。同時に国家総動員法も成立。同4月1日施行 )。そうして懸念された通りの成績不良だった。

これ即ち逓信当局が日本発送電の第一期配当六朱可能なりと、議会の本会議に於いても度々言明して置き乍ら、その実際は年四分の配当とし、而もその四分すら政府の補給を受けて辛うじてこれを為し得るという窮状を暴露した

第一条に標傍した「電力の豊富低廉」が実現しなかったのは勿論、電力不足のため節電のやむなきに至る有り様であった。

次いで昭和15年7月に第二次近衛内閣が成立、村田逓信大臣が水力発電の徴収を目す(電力統制令)。昭和16年8月に公布・即日施行。

前二案は各界の猛反発に遭ったが、村田案への反対は割合少なかったという。そこには横暴になっていく政府に対する諦観があった。この部分が最も痛烈で、当時の有り様がありありと伝わってくる。

最早発送電其物が国家管理となった以上、殊に料金の絶対的決定権が政府の手に属した以上、配電事業のみを民間事業者が経営したとて、事業に対する旨味はないのであって、寧ろ配電事業も合せて、国家の思う通りにするのがよかろうと我々は考えたのである。
言葉を換えて云えば、永井案の国家管理は、茶碗に罅が入ったようなものであって、最早完全なる茶碗ではなく、何れの時か罅のところから割れて二つになることは、判り切って居る。それが判っている以上は自ら進んで叩きつけて割った方が得策であって、善かれ悪しかれ革新思想の理想通りに御破算となし、改めて出発する方がよいのである。但しその御破算にして出発した新しい茶碗が、仁清作のような素晴らしい国宝級のものになるか、そこらに転がっている五郎八茶碗になるかは、自ら別個の問題であって、心ある者の窃かに憂慮したところであった。

そんなこんなの経緯で日本発送電株式会社と9つの配電会社による電力統制が完成する。宇治電も前後2回の分割の末、昭和17年3月31日に消滅した。

果たして新生茶碗はどうなったか。それはまだ漠然としか理解できていない。日本は太平洋戦争に突っ込み、負け、日発は昭和26年に解体された。

宇治電の水力発電施設が没収されたのは昭和16年だったはずだが、それ以前から兆候はあって、弥山・川合発電所の建設には日本発送電も出資していた。やがて取り上げようという下心があったのか、それとも電力国家管理法がそういう法律だったのか。たぶん後者。

してWikipではS13時点で出力5000kWを超える水力発電をも収用したような感じに書いてある。林の言ではS15の村田案でということになっている。うーん理解が足らん。巻末年表でも後者だった気がする。

そうそう、「道路の改良」はとても内務省寄りの雑誌だったことを忘れてはいけない。あの雑誌で当時の雰囲気を知ったつもりになってはいけない。牧される側の民は民で言いたいことがあったはずだ。


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