nagajisの日不定記。
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★刻印の出処では?と推測している明治大阪煉化石@炭屋新田。史料上では明治20年に創業し明治30年頃まで存在していたことになっている。
創業時の役員の一人・岡島嘉平次は、江戸時代の末期にこの辺りに新田を築いた岡島嘉平次であるのかも知れない。といっても岡島家の当主が代々この名前を継承していたようなので、何代目かの岡島嘉平次が煉瓦製造業を始めたということなのだろう。しかしその何代目かがはっきりさせられなかったので廃毒では省略した。いずれにせよ地元資本による起業であったことは確かだ。
炭屋新田の現在。千島公園の南方から南方を向いて撮影。この辺り一帯がそのはず……と思って歩きまわってみたけれども、H.J.△B.C.のような僥倖には恵まれなかった。手成形煉瓦すら見つからなかった。予想はしていたが、そう予想するのと予想が的中するのとではオクラとピーマンくらいの違いがある。
こういう状況(無刻印だったと推定することもできない)は困る。下手に推測してもその証明が不可能なわけで、邪馬台国は韓国だった説なみに扱いが困るものになるだろう。混乱の種を蒔くだけで終わってしまうかも知れない。そんな確固とした根拠があるわけでもないしなぁ。
そもそも★刻印と推定津守の六僚星の分布状況は一致していない。六僚星は大阪市を中心に淀川の北、泉南、果ては和歌山県九度山駅まで広がっている。似たような位置にあった大阪煉化石が★刻印を使っていたなら、六僚星ほど広くはないにしても、せめて淀川を越えていてもおかしくないはず。しかし現段階では淀川以北で見つけられていない。自分が歩いたエリアが限られているのもあるんだろうけど……。
写真は以前に掲げたことがあるかも。堺市柳之町西の廃屋前の転石。用途不明の異形煉瓦で、通常の2/3くらいの大きさ、かつ平-長手の稜線に凹みがある(同じ凹みが裏側にある)。 永代町では★刻印入りの角丸の異形煉瓦を見たことがあるし、その向かいの側溝にずらっと並んでいたし、綾之町で建物基礎に★刻印煉瓦ばかり使われているのを見たこともある。他にはkousenさんが和泉市の旧府神社で見つけてはるし、柏原駅のそばにあるという極秘情報も頂いている。現状ではむしろ、大阪市の南半分から府下南方にかけて分布している印象。なのでむしろ、堺の煉瓦工場の刻印・・・旭商社とかの刻印である可能性のほうが高いのかも知れない。柳之町西といったらずばり旭商社の所在地だし、その2つ北のブロックが綾之町だしなぁ。
大阪煉瓦石の工場はもっと北の方だったかも知れない。落合の辺りという記述がどこかにあったことを今頃思い出した。勘助島で二つに分かれた木津川の合流する辺り(三軒家川と七瀬川の出合)だ。その場所はいま打ち放しゴルフ場+住宅街+大正湯+王将になっている。工場地帯でないのならまだ何か見つかる可能性は残っているか。
大正区小林のなかを歩いていて銭湯に遭遇した。裏手や脇に薪にするものと思われる古材が山積みになっていた。いまどき薪の銭湯なんて珍しいんじゃね? と思ったのだけれども、府下にはそれなりの数あるのだそうだ。Oh,エコロジー。
建物を建てるのに使った木材が、最後は燃料になって消費される。灰も以前は田畑の肥料に使われていただろう。重油じゃ資源をターミネートするばかりだから、なんかもったいないな。
大阪梅田、阪急と阪神とJRを結んでいる歩道橋。松下幸之助の寄付で1973年11月に完成した。大阪一の目抜き通りにかかる大阪一の歩道橋である(誇らしくてそう言っているわけではない。客観的に見てそう思うだけだ。交通量とか所在地とか便利さとか。あとCD#1路上販売した恩もあるし)。
昨年だったか一昨年だったか、財政難の大阪市が「歩道橋ネーミングライツ制度」なるものを思いつき、募集した。要するに福岡ヤホードームの「ヤホー」みたいなのを歩道橋につける権利を売ろうとしたのだ。しかし告知が不十分だったのか、それとも効果薄と判断されたのか、入札があったのはたった一件で、それがこの歩道橋だった。落札したのは鳩がドバーでおなじみのロート製薬。そうして同社のキャッチフレーズである「よろこビックリ」を橋の名前につけた。自社名だけにしなかったところが面白い(確か会社も「それじゃ面白くないから」みたいなことを言ってた気がする)。ライツ料は年間610万円だそうだ。
橋名表示のアップ。名前はともかく・・・(そりゃ権利者が好きにつけるべきものだからな)、せっかくやるんだったらもうちょっとしっかりした作りにしてあげればいいのに、と思った。鋳鉄銘板とは言わない。せめて立体看板とか電飾とかにして、もっと目立つようにしてあげたほうがいいんじゃないだろーか。これじゃまるで横断幕だ。誰も気がつかないだろう。
ちなみに本来の橋梁銘板は最北方の面のJR大阪駅方に貼ってある。歩道橋指針(1965)なんてあるんだ。
歩道橋のネーミングライツという発想は面白いと思うし、対象はたくさんあるんだから、どんどんやってほしいと思う。勝手宣伝のつもりで書いてみる。
まかり間違ってもORJが購入したりすることはない(できるわけがない)。「日本の廃道歩道橋」とか誰が喜んで渡るものか/潜るものか。いやそこは別のフレーズにすりゃいいのか。ORJでんがなまんがな歩道橋、とか結構ゴロが良くないか、ベタでわかりやすいし。
せっかくなら宣伝になるようなのがいいな。「ORJは毎月15日発行1号400円!歩道橋」とか。んでその歩道橋で事故があったりして浮き目立ちすることになるわけだ。花火大会の日に将棋倒しが発生したりしたら後々まで汚名を残すことになる……。あんまり良くないな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130724-00000047-rps-bus_all
以前から決まってたことだっけか。車両はともかく所蔵資料は生かしてやってほしい。南和鉄道社史とか国立国会図書館にもないんだから。貨物時刻表のバックナンバーとか。自分はもういいけど。
閉館後の敷地はどうなるんだろう。車両を展示するために相当厚い基礎を敷いてあると、以前KINIASの研究発表会で使った時に聞かされた覚えがある。再利用できるものなのかしらん。
大正区でこんな看板を見かけた。毎月15日は公衆電話の日だという。公衆電話がめっきり少なくなった昨今でも公衆電話の日は残ってるんだろか……という素朴な疑問から検索してみたところ、公衆電話の日は9月11日なのだという答えが返ってきた。ええええー。
明治33年9月11日、新橋駅-上野駅前間に日本初の自動公衆電話が設置されたことに因むという。そんな雑学を解説するサイトはネズミ講的に存在する。しかし誰がいつこの日を公衆電話の日と定めたのか教えてくれはしない。困ったインターネッツである。
この看板の提唱者?提携者?である日本公衆電話会はいまでも存在している様子。「会について」のページに昭和47年8月15日設立とあった。なるほど、だから15日が公衆電話の日なのか!
どんな協会? 定款があったので覗いてみる。
(目 的) 第3条 この法人は、地域社会における安全と安心に関する情報提供活動および 啓発活動、並びに地域環境整備などの諸活動を推進することにより、地域社会の 安全と安心の向上と健全な地域社会生活の充実に寄与することを目的とする。 (公益目的事業) 第4条 この法人は、前条の目的を達成するため、日本全国において次の事業を 行う。 (1)「清潔・快適・便利な」公衆電話を基本とした利便向上に向けた事業 (2)「安全で安心できる地域社会」の実現に向けた事業 (3)社会生活に有用な情報を提供するための調査研究に関する事業 (4)地域活動、ボランティア活動その他の社会貢献に向けた事業 (5)その他、公益目的を達成するに必要な事業 (その他の事業) 第5条 この法人は、その公益目的事業の推進に資するため、必要に応じて日本 全国において次の事業を行う。 (1)公衆電話受託者の啓発に関する事業 (2)会員の福利厚生及び相互共済に関する事業 (3)その他、前号に定める事業に関連する事業
べ、別に公衆電話の普及をするとかじゃあないのね。その役目はもう終わったってことかしらん。上記だけ読むと正体不明なボランティア組織だ。
ちなみに件の看板の附近に公衆電話はなかった。
しつこいのとはやいのはきらわれるよ、と先輩が言っていた気がする。以前大正区に行った時も指定道路の写真を撮っていたのを今さら気づいた。なるほどそういう繋がりか、と自分の中だけで通っている脈絡がある。
毎月25日は写真供養の日であると今決めた。吉野町宮滝の商店前に貼ってあった看板。適当なカテがないので標識とする。ああいかにも頭悪そうな文章構成万歳。
この頃の瓶ファンタはリアルタイムで馴染みがあるのだけれども「大きな大きな」なんていうキャッチフレーズだったっけ?と思わないでもなかった。並んでいる2本の瓶のイラストを見て、右のファンタは確かに大きいなあ、などとも思った。たったそれだけの接点を記録するために撮った写真である。
わざわざ新カテ作ってまでして掲げるべきものではないかも知らんが、適当なカテがなかった。
今年四月に貞徳舎のあたりをうろついた時の写真。 堀に囲まれた大阪城の北面にこんな石アーチの門があるのを発見した。帰ってネットで調べると、大阪砲兵工廠時代の荷揚場で、明治4年に作られたことになっているのだそうだ。
確かにアーチの天井に滑車がついている。昔はもう少し水かさがあって、この真下まで船が入れて、そこから滑車経由で荷を揚げていたのだろう。向こう側がぐさぐさになっているのも、当時はもうちょっと整地されてたはずだ。
もしホントに明治4年に作られたものだとしたら、技術史的に面白いものなんじゃないかと思った。このアーチはたぶん西洋技術で積んである。盾状迫石に切石の胸壁で、両者一体で緻密な組石造をなしている。石橋のアーチは基本的に迫石と胸壁が独立の構造だ。そうじゃない西洋風のアーチが明治4年にはもう作られていて、今でも現存しているわけだから。
もうちょっと時代が下って、明治10年代以降の築だったとしたら、ふつうに納得するんだけどなあ。
いつも詳しい資料と解説、楽しみ拝見させていただいてますm(__)m<br>良いお写真ですね!この石門の上下の川岸は私も一度行きましたが少ないですが幾つかの遺構が確認できました。煉瓦も少し有ったと思います。ご存じかもですが。
なんでも樹で焚くのと重油で焚くのとではお湯の肌触りが違うらしく、重油焚きだと棘棘しくなるらしいと藤森照信さんが建築探偵で書いておられました。<br><br> ネーミングライツですがせっかくの関西センスを行政がうまく活用しきれてないのは残念ですね。ただ電飾であちこちに設置すると煩楽しい新名物(?)になりそうですが経費の削減としては?
荷揚げ場は対岸から眺めただけで過ぎてしまいました・・・近くに煉瓦があるというのも存じ上げず。今度ぜひ行ってみます!<br><br>重油と薪の違い・・・温泉とガス湯沸かし器の湯の違いみたいなものでしょうか。たまに贅沢のつもりでユニットバスに湯を張って入りますがちっとも温まりません(当たり前)。<br>電飾は行き過ぎでしたね(笑)。なんしかもっと目立たせてあげたいものです。