nagajisの日不定記。
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分水嶺と土木費補助を入れ、道連れで穴の裏と榎と塩久を入れなければならなくなり、収拾がつかなくなるところだった。いくら書いてもまとまらない毛生えがぽんぷん。着地点をずいぶんずらしてまとめた気がするくらいに持っていけたのはやはりTF101が完全復活したお陰か。いやそれは長くなる原因になるだけだから。
兵庫県は県道・里道を厳密に定義して、県道=県費支弁/里道=町村費支弁を厳格に守ったらしい。 それさえ守れば補助里道はいらない。 それに加えて年度ごとに里道改修個所を認定してその工事に対しては補助した? M22の類纂見つけたのであとできちんと見ておくこと。
明治の統計書が近デジに収録されていないのが辛い。そこから県道拾うことができただろうに。
あー考えずに書けるのは楽だなあ。反射神経だけで書きたいなあ。とかいいながら分水嶺であることが不足している気がしてなんとかうまく丸め込む方策はないものかなどと考えてしまった。もうええやん。直交軸の成分を足し合わせることはできても重ね合わることは不可能なのよ。足したらベクトルがぐらぐらするだけなのよ。
真っ青に晴れ上がった乾いた空を見上げて、目を瞑り、瞼越しにあかるさ暖かさを感じるような感じ。目を開ければ眩しくてしかめ面になりそうだがしかし、青空の青さはさらに深みを増している。日の下に出たばかりの時にはシアンがかった白けた空なのに。この青さを好ましく感じるのは普遍だろうかと思ってみてすぐに止めた。自分がよいと思えばそれでいいじゃないか。
真夏の青空を恨めしく見上げたこともあったように思う。40度に迫る勢いの猛暑の日。雲ひとつない空。あればそれが日陰を作って、少しは凌ぎやすくなるだろうに、地面もちったあ冷えるだろうに、と思ったことがあった気がする。いつのことだろう。いつぞやの長旅の時だったか、それとも酷暑の北海道を旅した1ヶ月のうちの一駒か。
思い出せない旅が多くなった。旅先の光景以外にも忘れてしまったことが多い。心地良かった空気。眠気を誘う湿度。風。朝靄。月明かりに照らされる諸々。冬枯れの森。概していい思い出は覚えていない。後悔したり悲しんだり苦しかったりする記憶ばかり残っている。なぜだろうといつも不思議に思う。二度とそうならないようにという配慮なら無駄だ。哀しい思いが減った試しがない。同じ間違いを同じように再現して同じ意気消沈をしているようにしか思えぬ。楽しい思い出は、氷か、ボンタンアメの皮みたいなものなのかも知れない。
楽しい思い出がいつまでも残っていたらどうだろう。四六時中幸せ感に包まれていたら。進歩はしないだろうな。ひとときの儚い幸福感だからこそそういうのを求めて何かしようという気になるのだろう。見知らぬ土地へ行ってあてもなく歩き回ってみたり図書館で歴史に触れたりして刺激を得たくなるのだろう。
新しいことを知るというのはそれが何であっても刺激になる。悲しみの引き金になったり逆さに生えた鱗に触ることもあるが、じゃあ、といってしないわけにもいかない。虫に刺されるかもしれないから藪へ入らないのであれば何一つ得られない。机上の論、資料の精査だけで事実に到達できるわけがない。できると勘違いしているような人とは関わりたくないものだ。
他愛もない話題を退屈もせず喋り続けられる女性という存在は不思議な存在だ。疲れないのだろうか。他愛のなさに自分で呆れたりすることはないのだろうか。自分が同じことをしたら、また同じことを言っている(もしくは書いている)と思ってだんだんいたたまれなくなる。もしくは相手の出方を伺いつつ喋ることに疲れてくるだろう。そうして終いには黙り込んでしまう。端的でまとまりのある言葉のほうがいい。そう思うのは自分が面倒くさがりなのもあるだろうけれど。
心通わせるのが面倒だ、と言っているわけじゃない。どう伝えたらもっとも効果的かを考えて喋る・書くが面倒になったということだ。それで全部が伝わるでもなし、そもそも伝えて価値のある思惟を有しているわけでも普遍的価値の発見があったわけでもなく。ただの個人の感想だ。そこからして価値を見いだせなくなった。
記憶力が悪くなったなと思う。長期記憶も短期記憶も。数ヶ月まえのことを思い出して書くのがつらい。目の前の本を見て、閉じて、書かれてあった内容をキー入力し切れない。ノンブルの数字さえ間違う。どうしたものかと思う。だんだんと過去の記憶が交雑してきて、間違っていることをあたかも唯一の真実のごとくに信じ切っていることがある。それを書けばまた変わる。はて、どうしたものか。反射神経だけで書いてきた証拠だなと思う。そうじゃないか、ずっと反射で書いてきたのに無理に筋道をつけて書こうとするからいけないのか。最近は意図的にものを覚えようと試みている。多少は成果があるようだが頭の整理はまだ出来ていない。がらくた同然に詰まっている過去を引っ掻き回して探しては並べ探しては並べの作業。一度整理してからかかればいいのだ。箱をひっくり返して並べ変えて詰め直して。そうしないから取り出そうとするたびに全部をひっくり返すはめになる。似て非なるものを取り上げてしまう。思考が短絡的なのもよくないな。見えているところからぱっぱと取っていけばやがて詰むのは分かりきったことだろう、と麻雀牌のパズルゲームを思い出しつつ思う。情報も記憶も感情も牌のごとくな有形物だったらいいのに。そうすれば整理のしようもあるだろう。