nagajisの日不定記。
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今日中に終わらせたると思っていたけれども。あと1/6くらいのところで力尽きた。明日には仕上げる。んで次のを作らないと。
モノが出てこないから展開が単調だなあ。だからといって何かを仕込むほど余裕がないわけでもない。そういう探索だったんだという記録だ。
うむそれよりも問い合わせをどうしよう。したらしたでまた長くなるけど、しないとますます締りがないかも。でもまあ「謎だー」で終わっても連載企画なのだから後日追記したってよいじゃないか。
今回の原稿を書いている最中にハタと気づいたことがあった。今までいくつも峠を越えてきたのに気付かなかった、しかし気づいてみると真理のようなものであるらしく思えるものなのだが、それがうまく表現できなかった。今もモヤモヤしている。無知は罪ならず。拙いのが罪。
生き死にをかけて越えていた峠、そこまで大げさでなくても暮らしていく手段として越えていた峠ほど、さり気なく、粗野でいて、に続く部分。深く考えずに越えていた峠だから、お地蔵様や堀割のような「目を引くもの」が欠けているという説。ないなら記憶に残らず、残らないゆえに振り返り思い出そうとする。思いが懸かる。印象を残さなかったことがかえって峠への誘引剤となる。
峠が目的地でないからか。あくまでも通過点であって、そこを無事越えられれば充分だった。峠で煙草をくゆらしらり立ち小便をしたりしたのは旅人ばかりで、道を使って暮らした人々は必ずしもそうでないだろう。そうそう、家の前の路地を遠く離れた地で思う時のような感じ。旅に疲れた時、天神荘前の細路地が懐かしく思えたような。んで実際に立ち戻ってみても道があるだけで失望する。
思うばかりでなかなか越える機会がないという点では「あれは峠だ」と思う人々と同じ心持ち。ゆえに石垣りんの詩に共感するところがあるのだと思う。行きたくなるのは可哀想な峠だから?Noとは言い切れない。誰も興味を抱かないから思いを懸けてみたくなるのはある。構ってあげようというスタンスではなく、共感をもって、対等なものとして接したくなる。ここがいちばん伝わらない。
越えて、麓から仰ぎ見て初めて実感が沸くものかも知れない。峠に立つことじゃない。越えたという記憶を得るために越える。形態は物見遊山に近いけれど、はてどうか。それと観光地巡りとどう違うのか。違わない、特別なもの、と思っているのは自分だけで。ならば何故特別なのかをわかりやすい言葉で表現してみろってんだ。