nagajisの日不定記。
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鳴門市史をなめておった。ちゃんと一節割いて書かれてある。北辰社→天羽煉瓦工場から鳴門煉瓦工場になり、鳴門設立時の一人が独立して田中煉瓦工場を立てたのだとか。その後堂浦中浦に阿波煉瓦ができ、T14に解散。昭和2年に岸氏らが共同出資で三共煉瓦を始め、のち個人工場・岸煉瓦となる。ホフマン窯はこの時(三共煉瓦時代)に作られた。昭和20年で廃業という。あれそうなん? 通覧ではS34まで追えるんだけど。岸煉瓦名での記載はS21から。
岸煉瓦の岸氏は阿波煉瓦工業組合の本部を勤めたこともある(のち堂浦地廻りに移った。ここは中央硅石耐火煉瓦もあった;現瀬戸中学校の敷地だがその番地ではない。地廻りには戦後に上木工業所が一瞬だけあったがそことも番地が違う)。この界隈では結構な重鎮であったようで、戦時中に中央珪石耐火煉瓦を誘致したのも岸氏だとか。中央珪石とこの工場はすぐに美濃窯業に合併されたが戦争末期に空襲を食らって廃止、敷地は昭和22年に瀬戸町に譲渡された。こんなところまで爆撃せんでもなあ>米軍。
写真があったお陰で搬入口✕6だと確認できたのだけれども、とすると14室だなあ。現存窯は写真右端の搬入口のすぐ右で切断されている。この写真ですでに草だらけになっているところを見ると市史発行の頃撮影されたものじゃなかろうか(だいいち上屋がないもんな、操業中のではありえない)。だとすれば切り詰めも操業中にではないのだろう。あと現存窯の煙突は先端が1/3ほど欠けている。現物を見てずいぶん高い煙突だと思ったが昔はそれ以上であったようだ。
「徳島県の近代化遺産」には岸煉瓦のホフマン窯も日の出煉瓦の鉄砲窯も載っちょらん。一次調査リストにもあがってない。近代化の通説のみコピー。
「鳴門市史中巻付図」に2万分1図があったんで入手。確かに天羽煉瓦の位置に窯記号がある。あの在所のある谷には工場と数件しかなかったようだ。
あっ、違うわー。一つ北の谷だ。北辰社→天羽煉瓦と鳴門煉瓦は場所違ったのか・・・。
通覧S15で福井県忘れていたのを回収。なぜかS16の3巻がなくS16は追えない。
「大高庄右衛門紀年史」の年譜部分のみコピー。
耐火物関係の雑誌から社章を拾おう作戦は思っていたほどの成果を挙げず、むしろネット非公開だった昭和15年版にいろいろ見つかってホクホク。これは手書きで。
「岡田煉瓦100年史」のキモと年譜。JIS取得は昭和末期なのだなあ(しかもトンネルキルン導入後)。意外。岡田煉瓦は戦後の通覧には載っていないがこうして100年史を出すほど続いているのだった。通覧に載っていないからといって即廃業ではないことを改めて肝に命じられた。
昭和19年の「日本窯業大観」では赤煉瓦産業に何らの支援策がないことを嘆いている。しかし岡田煉瓦100年史には軍需指定工場となっていろいろの方便を得ていたことが書かれている。三河地震で倒壊した窯を再建するために陸軍兵士を派遣してもらったり。軍需指定工場かどうかの違いなだけかな。昭和16年から煉瓦価格統制。つかカブトビールのTO○YOは東洋耐火煉瓦じゃねえの。不明で切り捨てられておる。
土曜まで雨かよ! ザケンナヨ!
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967103/41
名西郡事業として明治40年度から6カ年事業。工費3万7000円。歯ノ辻橋もこのときに。
緒方煉瓦工場 T7.8. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1910363/26
田中、鳴門、岸、下淵が載ってる。岸工場は大正7からってことになってる。阿波煉瓦を引っ張ってるな。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054556/41
明治40年代に郡営公園(皇太子殿下来た記念)、大正12郡制廃止以降県有となって昭和6年名勝指定。
残念、小鳴門公園は出てこなかった。美妙。大正8年に忠魂碑って何かズレている気がしないでもないけれど、第一次大戦における戦死者が全くいないわけでもないのだし、そういや板東俘虜収容所も板野郡やった。あの碑が中心にある以上門も公園もその頃だと思う。徳島日日新報・阿波十五景の四の碑は昭和4年。
大正8年にしろ昭和4年にしろ、使われている煉瓦が地元産である可能性はすこぶる大と思われる。この頃には3つも4つも工場があった。
小鳴門公園からの眺めはすこぶる良い。赤い色した小鳴門大橋がちょうどいい大きさで風景内に収まっている。