nagajisの日不定記。
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近日中最も寒く日中十余度、夜四度なり。上級生の方は授業なけれど一年生のみありてうらやましかりき。何となれば二三年は明日より訓育旅行なり。教練の目測は大体に於て確実に近し。正規の自習となり十分出来たり。
本部長初度巡視の為授業なし。清水中将閣下なり。九・〇〇御着校、我等は棒倒しのみなす。他に、授業・剣術・体操・滑空教育の巡視あり。此の頃の棒倒しは誠に剛健に為りたるを感ず。会食の際は正取締の名を以て本部長閣下の眼前に会食す。諸々御質問ありたり。十三時御離校。会食に際しての閣下の訓示に曰く
1、成績に拘わることなく毎日ヽの本務に邁進せよ
2、卓越せる武将の素地を作れ
3、陸軍の制度は幼年校、予科、本科、大学、専科と段階あるを以て、もし一つに失敗したなれば次で頑張るというが如く勉強せよ。
と。
解散後我学術練磨会に物化を希望せしを以て、田中教官殿より指導あり。
朝香宮鳩彦王殿下を十四時三十分清宮郵便局前に奉送す。嗚呼此の光栄。然るに殿下には思いがけなくも自動車を止め給い下車されて我等の前を敬礼を受け給いたり。時の感激如何ばかりか言うに法なし。剰え終りに臨みて激励の御言葉を賜わりたり 此の光栄に浴するにても充分なるにかゝる御殊過ぎを受く。豈唯皇恩の厚きに感謝するのみならず国恩に報いざるべからず。
昨日隈府より電話ありたるに違いて祖母は来られず好気〔機〕を逸したり。
今日は誠に光栄の日なりき。
取締にて自習時間勤務日誌の起栽〔載〕に忙しく自習すること能わず。皆命に服し、此の四日間を愉快に過し得たり。
シゴトが佳境なため今日も作業できそうになく。明日朝また出直してきます。メールが途中だ。。。
ヨッキ氏からOK出たので特濃!リンク貼りにかかることができる。こちらも佳境。
一昨日あんなふうに書いたが本気でお口あーんして待っている訳がない。さっそく近くの自転車屋で一式買って来た。安売り組合せで7000円強の臨時出費。CDプレス前にちと痛い(いっておくがとても貧乏だ>nagajis)。ついでにサドルがえらく硬くて尻も痛い。99年頃に使っていたサドルといい勝負。
覚えているぞこの感覚。99年の夏は初めてまともに北海道を走った年で、行く前に買い替えたサドルがこれと同じ硬さだった。板のように硬いうえに骨盤の先端の幅より狭いからアノ辺をひどく圧迫するのだ。木古内辺りを走ってた頃は苦労したよなあ。。。 輪行袋は3000円ちょっとで軽いものがあったためそちらにする。前輪を外すだけでいいタイプなので機動力はアップしそうだが以前の袋より薄手だからあまり無茶できなくなるかも知れない。R420は自転車だけでなくキャリアにテントにシュラフにロールマットにコッヘルにはんごうにサイドバッグ×2を入れても平気だったが。その前に自分自身がそんな大荷物を担げなくなっている。強力伝はすでに過去のものだ。
ORJに直接関連するものでは「日本の廃道」史を作成。これまで発行したORJの目次と表紙を並べたもの。どの号に何を載せたか自分でも忘れるからね(笑
その次に関連するとすれば、この前からココで書いていたpdfの小ワザを紹介するページ。ずっと前からこういうページを作らねばと思っていて、ようやくそれが完成した。ここをお読みの方でpdfがどうも好かんという方、ぜひお試し下さい。
おまけで、ずいぶん以前に作っておいたURLコンバータもアップした。URLコンバータはしばらくしたらトップから外すかも知れない。
何しろ左のメニューがいっぱいいっぱいだ。フレームデザインなんかにするから困るんだよ>nagajis
一応、作業は進んでますよという証拠として。KINIASの報告書は以前のパターンをそのまま使って作成済み。今回は近代建築と高瀬川の変遷を辿り、島津製作所記念館を見学するというような見学会で、廃道成分はやや低め。とはいえ(自分にとっては)新しい分野の話に刺激を受けた1日だった。京都郵便局の消印でCDが届いた方、この日に送ってます。どうでもいいことだけど。
この日の最後に見つけた橋は、別個に「旧橋紀行」で取り上げたい。それが次回となるか次次回となるかはまだわからない。
もう一つ。江浪峠の前編。これはルポとは言えないだろうけれど、まあ、廃道を歩いた記録だ。
江浪峠は兵庫と鳥取の境にあって、かつては山陰と播州地方を結ぶ要路だった道。明治の半ばに馬車道化され、昭和40年代には廃道になっていたという。その峠道の南側を辿った記録を、nagajisの内面を掘り下げながら紹介してみようと思う。なお独語は未履修なのでタイトルは間違っているかも試練。
このほかにほぼ完成?なのが1本、原稿修正&デザイン作成中なのが2本。ヨッキ氏やTUKA氏も着々と作成しているし、「コノ人ヲ暴ク」もありそうな塩梅。このままの勢いで行けば次号はいつもの2倍量になるんじゃないかと思うくらいだ。
勢い、長く続く企画をということで、2話完結とか3話完結という記事が増えるかも知れない。しかしその分、1号には盛り沢山の内容で。有料化を謳うからには手抜きナシ、ガチだぜ。nagajisの体が持てばな。
自分の「廃道を読む」もテキスト化は終わったんだった。格闘の成果は全500kbのテキストだ。多分pdf本体よりもデカい。
思い起こせば長い道のり。indexにないpdfまで拾い集めて入力したったからな。それでも、ようやく終わった、、、という余韻に浸る暇もない。Wikiにするのはスクリプトを書いているので一発で済むだろうが、その後で微調整しないと。Wikiになったらまあ、誰かの役にも立つだろうさ。立たんでも満足。
アクセス数は増えているけど読者登録は増えず。18号のダウンロードも実はそれほど伸びていない(転送ファイルのサイズを見るとよくわかる)。モノがまだ出来上がっていない以上、無碍に乞うこともできないわさ。犯罪履歴もあることだしな。生暖かく見守って下さい>各位。
いつ復旧するやら。とりあえずss1.coressl.jpを経由しないルートを確保。お名前・パスワードが盗聴される危険性に目をつぶってもよいという方はこちらをお試しください。
PayPalからの戻りもss1.coressl.jpを外した。最悪入金処理が反映されないということはないと思うが。バナーが壊れているのは仕方ない。このページからhttpな画像を呼び出すとIEで警告が出る。
CDサイズ+日曜始まりで作成してみる。案外いい構成になった気がする。ヨコイチをタテで使うような練習、しないといけないなあ。
最初に見たものが全てという性格なんだと思う。刷り込まれやすいというか、最初に見た構図から離れられない。見方を変えるといろんな味わいが出ることを発見。
調べてみると日曜始まりっていうのはちゃんと意味がある。労働法で定められている週の定義は日曜から土曜なのだそうだ。ニートが労働法か、と思わないでもないが自分以外はニートじゃないもんな。
何かいいことを思いついた気がするんだが忘れてしまった。最終的に切られる存在であるってことと何か関連してた気がするんだが。
11/21、23辺りで大台ヶ原へ行こうかと考えていたのだけれど、Oさんからお誘いをいただいてしまった。。。さっさと告知しないからだ。どうしよう。
いやいや。ここは連休ではないのか。21日奈良市街、22日乗り込み+休める人神之谷にでも行きますか?、23日に大台、でいいのか。紅葉は終わってるだろうけれど。ふむふむ。そうしよう双子葉。
というわけで11/23大台行きます。
わー違うよぉ。2010年のカレンダー見てたよぉ
異聞2まで書き始めてみたが、性に合わない。東熊野の書き過ぎか。こんなんじゃなきゃ喜ばないような層に対して書くまでもねぇ、ってことか>nagajis。そういうの欲しけりゃそういうとこ行けばいいよ。無料だし。
90ページ作って使うのは40ページ。がっつり削るとこうなる。これで20分前後、質疑応答たっぷり受け付け□。10/31、東大阪市鴻池新田会所へどーぞ。
M9 舟戸経由高見峠
M16 舟戸経由?2.18.26.06
M19 舟戸経由!1.31.06.06
M26 太良木経由!1.18.34
勢陽五鈴遺響。1833年(天保4年)。江戸末期。
高見峠
本郡舟戸ヨリ和州吉野郡杉谷村ヘ一里二丁五十六間紀州和州ノ街道ニシテ高見越ト称ス高見嶺堀切アリ二州ノ堺アリ又鳥居アリ三十三丁十八間又杉谷ト舟戸ノ間鬼木茶屋アリ二丁六間ニ一里塚アリ
松坂府城国界堀切マテ十四里二十六丁四十八間アリ
鬼木茶屋はすべての用材を槐の巨木1つに求めて建てられたとかや而云。
請取峠
本郡多羅木ヨリ和州宇陀郡土屋原村ヘ一里三十一丁十八間渓[カン]四十一処難嶮牛馬不通歩荷ハ稍ク通ス 本郡波瀬村ヨリ大和州宇陀郡土屋原村ヘ二里十丁十八間難処牛馬不通
もしかして:御取越 by 戦前三重県誌[要確認]
新道峠
本郡月出ヨリ和州宇陀郡上村ヘ一里二十七丁五十四間
白髪峠
又和州宇陀郡大森ヘ一里二十四丁五十一間嶮路曲腸ノ地九十九ケ処アリ其径ヲ経ルニ艱苦甚ク忽白頭ト変スルカ如シ故ニ方俗白髪越ト称ス雑記所載シカラシ越ト云ハ非ナリ
ここには神武天皇云々は出て来ない。カラシ越とはワサビ峠のことかいな。雑記は南勢雑記のことかいな。中之島にあったんじゃんかくそ。
波瀬から舟戸・太良木・月出までの距離が要るのか…。>明治19年、松阪〜波瀬間12里77町137間207尺。約14里10間。道幅二間ないし一間三尺。七日市まで車通ず。この年じゃだめだな。
M15〜19大阪府統計書。伊勢街道の東端は下淵驛から和勢国境杉谷村まで。10里余。
M21奈良県統計では下淵驛〜上市驛と短くなっている(宇野嶺?)。M26では上市驛〜三重県波瀬驛、7里(木津峠?)。車不通だが幅1間2尺〜2間。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807305/103
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807310/110
三重県と奈良県を結ぶ高見峠を含む和歌山街道は旧幕時代から紀州藩の重要街道であり、現在では林業上重要視されてきたので、高見峠開発について両県の意見が一致して、昭和九年八月共同調査をした。本県では現在の[梁−、*2−刀+刃]道の分岐点落方から木梶まで完成している林道(五キロメートル)を延長することとし、林道をもって木梶−高見峠間五キロメートルを開発して、奈良県道と連絡した。これは昭和九年ごろに竣工し、林道は県道に改められた。
see also 奈良県政70年史、奈良県議会史議決。麓落方までは昭和4年前後に開通している筈。
松阪市史資料編近代2の引用は明治19伊勢新聞。
「和歌山街道 過日も我が紙上に掲載せし如く松阪より射和村に至る三里間の道路は見殊に落成し、県知事を始じめ人々の皆喜悦に堪へざる所なるが、熊野街道も粗ぼ落成を告げ和歌山街道の如きも粥見村より高見嶺(とふげ)までは目下工事に着手中なれば、明春二月頃には全く竣工すべしと云へり 然る時は大和までは車を通ずるの便を得べしと云ふ」
その後音沙汰なし、というか粥見もできてない…。川俣=かばた
和歌山街道六呂木の隧道は明治18年とのこと。上とつながるのかしらん。って鳥羽見峠のことじゃないかっ
寄書 (注:たぶん明治19年)6月23日鳥羽見嶺(とうげ)開削工事の早きを望む
(略)余熟々本郡の知性を按ずるに、東北より西南に延長し、郡の四分の三は山間に僻在し、道路険悪にして辻原以南に七曲り鳥羽見の険あり、粥見に大見坂の難路あり、宮の前以西に[王+爾](珍)しの嶮坂あり (中略)此を以て有志者或は之を憂ひ開鑿せんと欲するの議は、已に数年前より起こりし子ことなりと雖ども、未だ今日に於いて何れに着手せしやを聞かず、実に遺憾に堪へざるなり」
(松阪市史資料編 近代2 P.402)
(注:たぶん明治20年)7月21日
習慣を改む
(略 松阪愛宕町の人が旧習の見舞金を廃止し積立金にしたことで)彼の飯高郡の負担たる鳥羽見峠・七曲峠の開鑿費も、半ばは此余裕にて支払ひし程なりしかば(略)
(松阪市史資料編 近代2 P.430)
ずれてるな…。ともかくこの頃には改修ができたと。粥見地内も明治21年に改修工事の請負入札。
第三次広告(和歌山街道改修)1月11日
和歌山街道改修の内道路改修 延長二千百十六間、号数五十五ケ所、右調査済ニ付請負ヲ命ズ 尤モ開札ノ期日ヲ来ル廿日ト定ム 望ノ者ハ同日大石村出張所ヘ来会スべシ
明治廿一年一月七日 飯高飯野郡役所第二課
(同P.442)
初瀬街道(青山越)M23着工通常会で建議。新初瀬街道中街道(櫃坂越)M30台。新初瀬街道明治29年前後。この3つでほぼ事足りた。紀州領でなくなってしまえば松阪−和歌山を直結する必要もない。
番外2(岡本)
木津より高見に至る迄の間に凡そ二里程の平坦部ありて此間に四十ヶ村程散在せり而して此村々に於て木津峠の改修を[北+異:き]望し其前後両端は里道の名称を以て開削したるも独り木津峠に至ては到底地方民力の及ぶ所に非ずとて地方税の補助を願出を以て伊勢街道の全通を計らんとしたる次第なり尤も改修工事落成後に於ける修繕費は一切地方に於て負担し更に地方税の補助を仰がざるとのことなれば左様了承ありたし
七番(山崎)
此木津峠を開削すれば伊勢街道は完通するに至るべきか
番外二(岡本)
此の峠を切下げ而して鷲家より峠に至る迄の間は地方人民に於て改修するとのことなり
要するに開通しないということだな>番外
明治36木津隧道。
歳入に於ては高見峠改修案の否決によつて地元寄付金参千八百五拾円を削減したのみで(以下略)
(三重県会史第二巻 P151)
問題となつた高見峠改修工事は飯南郡波瀬の和歌山街道から分岐し、大字舟戸を経て奈良街道に至る上市街道改修工事に対する本県負担の工事費は左の如く提案されたが、同工事の改修によつて利害関係の深い松阪町に改修反対の声が起り県会亦た賛否両説あつて曾て見ざる紛糾を来し、結局賛否の分野が賛成十八、反対亦同数、中立一名と云う奇現象を呈した為め押切つて開議に至らず二三日間延会或は流会を続け結局本案を撤回することゝなつた。
高見峠改修工事補助案
一金参万弐千弐百拾円 工事補助総額
内 壱千円 大正三年度支出 七千五百五拾弐円 自大正四年度至同七年度
備考(本案を補助とせるは工事主体奈良県の為めと解せらる)(三重県会史第二巻 P155)
建議
一伊勢街道中吉野郡高見村大字杉谷に達する工事は、既に完成したるを以て、三重県に於て工事を起し速に連絡せしむるの要求を同県にせられんことを望む
理由
伊勢街道は三重県の工事と相俟って、両県交通の便を得るもの、然るに本県に属する分は既に完成すと雖とも、三重県に属する分未た着手せられす、是れ本建議ある所以なり、
右本会の議決を以て及建議候也、大正二年十一月二十九日
奈良県会議長 吉川徳三郎
奈良県知事 折原巳一郎殿
(原文カナ漢・奈良県議会史下巻P.240)
下巻は詳しく見てないからな…再度。
昭和五年十二月二日
建議
県道上市、松阪線高見越の開通は多年の懸案なるに拘はらず、一部の完成を見ざるが為め開通するに至らざるは三重、奈良両県の連絡上将産業の開発上支障少なからず、是が開通は実に刻下の急務なるを以て、遂に三重県飯南郡波瀬村木梶字長畑国境に達する道路の改修を速成せられん事を、
理由
口頭を以て申述ぶ、
昭和五年十二月二日
建議者 竹田仁蔵
林定太郎
伊藤丑松
松岡[金+(護-言)]
青木重恭
岡本正治
県会議長 浅田好太郎殿(原文カナ漢・奈良県議会史下巻P.289)
長島の魚、東吉野村郷土史p.297。笠木峠、荷坂峠経由!
year! 探していた一枚をついに発見。丁字ヶ滝隧道の記事でちょっとだけ触れた『時計橋千歳橋』、クイーンポストのRCトラス橋RCのワデルトラスの絵葉書だ。いやまあ通販で買やあいいんだろうけど、1枚に1000えんも払いたくない払えない。
この形式のRC橋はおそらくこれだけだったと思われる。S9の室戸台風だったかS13の阪神大水害だったかで流失。勿体無いことだ。というか、この程度のスパンなら普通のT桁で良かったんじゃね? とか言ったら怒られるんだろうな。
拡大図。厳密にはクインポストではないのかも知れない。縦に入った鉄格子も含めるとハウトラスに分類されそう。RCだけ見てもまん中に梁が入ってない。本来ここは圧縮がかかるはずなので、RCでないと効力を発揮しないはず。橋脚のところもヒンジではないようだし。いずれにしても地元の時計屋さんが設計しただけあって構造力学的にはあんまり洗練されてない。
後日追記:Wikipediaによるとワデルトラスという形式名があるんだそうな。ご指摘感謝!>isoさん。キングポストトラスの真束は引っ張り力がかかるのか・・・。そりゃそうだな、荷重は下の材にかかるんだから。なんしかてっぺんちょからかかることしか考えてなかった。
さらについき:時計屋設計というのが印象強すぎて名前間違えたうはは。
そのほかにいろいろゲッツしてきた。青の洞門+4枚とか。脱肛してしまった今となっては必要無いものかも知らんが……参考資料にでも上げておこう。
鳴門市史をなめておった。ちゃんと一節割いて書かれてある。北辰社→天羽煉瓦工場から鳴門煉瓦工場になり、鳴門設立時の一人が独立して田中煉瓦工場を立てたのだとか。その後堂浦中浦に阿波煉瓦ができ、T14に解散。昭和2年に岸氏らが共同出資で三共煉瓦を始め、のち個人工場・岸煉瓦となる。ホフマン窯はこの時(三共煉瓦時代)に作られた。昭和20年で廃業という。あれそうなん? 通覧ではS34まで追えるんだけど。岸煉瓦名での記載はS21から。
岸煉瓦の岸氏は阿波煉瓦工業組合の本部を勤めたこともある(のち堂浦地廻りに移った。ここは中央硅石耐火煉瓦もあった;現瀬戸中学校の敷地だがその番地ではない。地廻りには戦後に上木工業所が一瞬だけあったがそことも番地が違う)。この界隈では結構な重鎮であったようで、戦時中に中央珪石耐火煉瓦を誘致したのも岸氏だとか。中央珪石とこの工場はすぐに美濃窯業に合併されたが戦争末期に空襲を食らって廃止、敷地は昭和22年に瀬戸町に譲渡された。こんなところまで爆撃せんでもなあ>米軍。
写真があったお陰で搬入口✕6だと確認できたのだけれども、とすると14室だなあ。現存窯は写真右端の搬入口のすぐ右で切断されている。この写真ですでに草だらけになっているところを見ると市史発行の頃撮影されたものじゃなかろうか(だいいち上屋がないもんな、操業中のではありえない)。だとすれば切り詰めも操業中にではないのだろう。あと現存窯の煙突は先端が1/3ほど欠けている。現物を見てずいぶん高い煙突だと思ったが昔はそれ以上であったようだ。
「徳島県の近代化遺産」には岸煉瓦のホフマン窯も日の出煉瓦の鉄砲窯も載っちょらん。一次調査リストにもあがってない。近代化の通説のみコピー。
「鳴門市史中巻付図」に2万分1図があったんで入手。確かに天羽煉瓦の位置に窯記号がある。あの在所のある谷には工場と数件しかなかったようだ。
あっ、違うわー。一つ北の谷だ。北辰社→天羽煉瓦と鳴門煉瓦は場所違ったのか・・・。
通覧S15で福井県忘れていたのを回収。なぜかS16の3巻がなくS16は追えない。
「大高庄右衛門紀年史」の年譜部分のみコピー。
耐火物関係の雑誌から社章を拾おう作戦は思っていたほどの成果を挙げず、むしろネット非公開だった昭和15年版にいろいろ見つかってホクホク。これは手書きで。
「岡田煉瓦100年史」のキモと年譜。JIS取得は昭和末期なのだなあ(しかもトンネルキルン導入後)。意外。岡田煉瓦は戦後の通覧には載っていないがこうして100年史を出すほど続いているのだった。通覧に載っていないからといって即廃業ではないことを改めて肝に命じられた。
昭和19年の「日本窯業大観」では赤煉瓦産業に何らの支援策がないことを嘆いている。しかし岡田煉瓦100年史には軍需指定工場となっていろいろの方便を得ていたことが書かれている。三河地震で倒壊した窯を再建するために陸軍兵士を派遣してもらったり。軍需指定工場かどうかの違いなだけかな。昭和16年から煉瓦価格統制。つかカブトビールのTO○YOは東洋耐火煉瓦じゃねえの。不明で切り捨てられておる。
土曜まで雨かよ! ザケンナヨ!
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967103/41
名西郡事業として明治40年度から6カ年事業。工費3万7000円。歯ノ辻橋もこのときに。
緒方煉瓦工場 T7.8. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1910363/26
田中、鳴門、岸、下淵が載ってる。岸工場は大正7からってことになってる。阿波煉瓦を引っ張ってるな。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054556/41
明治40年代に郡営公園(皇太子殿下来た記念)、大正12郡制廃止以降県有となって昭和6年名勝指定。
残念、小鳴門公園は出てこなかった。美妙。大正8年に忠魂碑って何かズレている気がしないでもないけれど、第一次大戦における戦死者が全くいないわけでもないのだし、そういや板東俘虜収容所も板野郡やった。あの碑が中心にある以上門も公園もその頃だと思う。徳島日日新報・阿波十五景の四の碑は昭和4年。
大正8年にしろ昭和4年にしろ、使われている煉瓦が地元産である可能性はすこぶる大と思われる。この頃には3つも4つも工場があった。
小鳴門公園からの眺めはすこぶる良い。赤い色した小鳴門大橋がちょうどいい大きさで風景内に収まっている。
比較的熔解しにくい材料で粗く形をつくり、焼いて可熔成分を固めた後圧縮して所望の形状につくる。発明者(特許権者・以下同):エドワード・クリプトン・ブライス
クローム鉱を混ぜた素材を焼成して擬花崗岩の人造石を製造する 発明者:野吹秀太郎、藤江永孝、立野列助、海福悠
陶磁器素地原料に雲母、マンガナイト、黄鉄鉱の粉末を混ぜて梨地様小斑紋の化粧煉瓦を製造 発明者:品川白煉瓦
穴あき煉瓦(等の構造物)にコルクや砂・煉瓦粉末などを充填して熱音響・湿気を防ぐ構造材料 発明者:アルノー・テッツネル
黒色白色透明の破片に石英砂・白粘土・ソーダ灰・硼砂の溶液を塗布して焼くことで作る人造石 発明者:加藤虎三郎
(略) 発明者:ウォルフ・ラウフェル
白地の化粧煉瓦素地に特殊な珪石粉末を加えて焼いて作る御影石風化粧煉瓦 発明者:金森玄八、品川白煉瓦
(略) 発明者:川本友太郎、加藤五助
珪石粉末と粘土の混合物にポルトランドセメントを加え珪酸ソーダの水溶液を加えて練って焼成する 発明者:山内良太郎、品川白煉瓦
珪石粉末と粘土の混合物にポルトランドセメントを加え珪酸ソーダの水溶液を加えて練って焼成する 発明者:山内良太郎、品川白煉瓦
ソーダ灰を混和し圧搾成形後表面に浮き出す白色粉末に加熱した砂を付着させて焼成する 発明者:佐野時造、清水照吉
黒鉛粘土食塩を混和して焼成 比熱の大きな「温石」を製造 発明者:古田覚念
耐火粘土と酸化鉄含有粘土で耐久力強大な煉瓦を製造 発明者:水野竹次郎、永田恒治
割面を装飾に使う陶磁製外装 発明者:浅原真一、大阪陶業
(略) 発明者:佐野時造、西遠建材工業株式会社
(略) 発明者:伊藤清吉
(略) 発明者:三日月貞吉
箱形の枠 四方がぱかっと開く 発明者:佐々木初吉
押出・切断・移動を連続的に行なう 発明者:西浦円治
押出・切断・移動を連続的に行なう 発明者:ウォルター・オーガスタス・デハビラント
煉瓦素地を迅速に成形 小口長手をギュッとはさんで平をけずる 発明者:野崎留吉、特許権者:大阪窯業株式会社
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/PU/JPC_32984/623F78CDE786EFD0E061645220893424
うーん、面白そうなんがすくないなぁ・・・
↑は湯浅町角長の煉瓦の特許とか意匠登録とかしてねえかなあと思って始めたこと。わざわざ特許総目録をコピってきて「れんが」の項目を総当りしたりしてみたけれども見当たらず。実用新案もあたってみたけど勘所がわかってないからなー。そういや金森氏の鉄筋煉瓦も出てこなかったな、あれ特許取ってなかったけか。別の鉄筋煉瓦は出てきたんだけどさ。
「大阪では煉瓦の発色をよくするために塩を入れて焼く」云々という話を どこかで読んだ記憶があるのだけれども出典を見つけられず。つい最近仕入れた情報だった筈なんだが。近デジで「煉瓦」総当りした時だったか、新聞記事だったか、そのいずれでもない何かか。出処のわからない情報ほどもやもやするものはない。況んや⊿div=0の原点が自分自身というに於てをや。
胎土を数ヶ月〜数年寝かせてから使うのも「近年ではほとんどしなくなった」と読んだことがある。それは近デジの煉瓦製造法のどれか。発行日降順で古いのから順に見ていったどこかやねん。くそう。そういうメモをするためにここがあるんちゃうんか>nagajis。
そんなこんなに記憶が怪しくなりつつある昨今(否昨今に始まったことでもないか)。その如き状況下で仮説を積み上げ続けるのは危険極まりなく、だから一度「確実なこと」を書きまとめて基壇を作っておかねばならんのではないかと焦っているのである。
中川煉瓦ホフマン窯の天井にあったじゃないか。小口“イ”。
これがこれなんだ。
だから仁保川橋梁の“丙丁+英数字”は中川さんとこで作られたのは間違いない……!!!
ここでようやく、こんなところでようやく、またひとつの謎が解けた。うれしいことだ。
これこそが探していた湖東組製品! と断言したいところだが、湖東線建設時(M22)=湖東組時代の製品なのか、複線化時(M34)=中川煉瓦時代なのかをこれだけで断定することはできない。中川煉瓦のホフマン窯は明治45/大正元年建造だ。どちらでもあり得る。時間軸で見れば後者のほうがあり得るようにも思える。
だがしかし、余った異形煉瓦が工場でも持て余されるくらいに邪魔だったらしいことは勢陽組工場跡の状況が物語っている。池田本町には間違いなく後年製の堺煉瓦の異形煉瓦だとか“E”だとかもあった。その一方で西尾士族生産所製らしい漢数字印もあた。池田本町の瓦礫は新旧の井筒の残骸であることは間違いなく。してM34には堺煉瓦だったり岸和田煉瓦だったりといった大工場が安価で大量供給できるようになっていた。競争入札せねばならなくもあった。複線化時には異形煉瓦を作らなかったのではないか>中川さん。即ち丙丁+英数字を湖東組製品とみてよいのではないか。
ああ、見えないものが見えてくる。僅かな残余物がものをいう。無いものを勝手に見ているだけ、幻聴しているだけでも構わない。理論的にはその可能性が高いというまでよ。
Before...
_ 軟式Oです [あちゃー!ブッキングしてしまいました。 足をひっぱるのは本意ではありませんので、お気遣いないようにしてください。]
_ みつ [返信したのですが届いて無いかな? 23日は日帰りなのでしょうか?]
_ nagajis [Oさん、すみません・・・昨晩慌ててメールしました。 みつさんごめんなさーい! 返事ができてませんでした(汗 今から慌てて送ります]