nagajisの日不定記。
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旧橋の原稿を書き始めていたのに固まって再起動を余儀なくされた。鞍馬寺を嗤った罰であろうか。
ボトルシップ展示じゃあ机がいるだろうが。何も全部持っていかなくても。
以上2件の腹いせに下記を書く。
昭和11年に行なった8ヶ月におよぶ欧米視察の結果を日本土木学会第75回講演会で発表したもの。
パリ。セーヌ川の橋梁は古い形式のものが多く、自分たち近代の橋梁技術者の参考になるものはなかったけれども、重厚な石アーチ、過度にも見える装飾がいかにも環境に合致していて相応しく感じた。それが地方的な特色。川と橋と街との総合的の美観を問題にしなければならないと痛切に感じ、もし掛け替えるなら、橋が実用的な構造物である以上、古い物の持っている欠点を取り除き、近代の合理的取扱の元にこの街の風格に調和した橋を架けねばならないと。
イギリスの橋は「まだ少し洗練さが足りない様に見受け」られた。1932年にでき、地元技術者が自慢したランベス橋も「垢抜けのした感じは得られなかった」。1928年竣工のジョージ五世橋、鉄筋コンクリートの連続桁橋も、架構に苦心の跡が見られたけれども外観からは「全く不格好な石のアーチという感じしか受けなかった」。曲線は美しいという、迷信的な概念に捉われた古い昔の臭みが謂われなく主張されているのではないか、という風を英国ではどこでも受けた。
ドイツ、アメリカでは目を見晴らされるものに出会った。「”簡単”にものを取扱って行く、殊に力の働く工合を構造の上にはっきり現わすように努めている」ようだった。構造を非常に簡明にして合理的に取扱っていく。アーリントンメモリアル橋などはダブルリーフのバスキュールスパンがアプローチのコンクリートアーチのスパンと似せて作られていて、しかも不愉快な印象を与えないことに感心した。
そこで私は最後の結論と致しまして、最近に於ける欧米の橋梁に現れて居る傾向、古い物の残り滓ではなく、新しく之から発展して行こうという風な性質を一言にして申しますと、非常に洗練された単純さというものを覘(ねら)って居るのではないかと思われたのであります。此の事柄は橋梁の形態の取扱のみならず、近頃色々の方面、建築は勿論でありますが、他の色々のデザインの方面に向っても同じ事柄が割合に広く主張されて居るように思われるのであります。橋梁は勿論実用的の構造物であります。其の生命とするところは之に要求されて居る機能を満足に発揮しなければならぬ、そして之を最も明快にして適切な形態で以て、而も最も経済的に之を処理しなければならぬということが最も肝腎な態度ではなかろうかと考えて居るのでありますが、其の明快にして適切な形態とう事柄を言葉を換えて申せば、合理的に取扱われ、或は合目的々に取扱うということになって現れては参りますが、そういう事柄も要は非常に洗練された単純さを覘って居るところにあるのではないかと思うのであります。橋梁の美観と申しますと少し大袈裟でありますが、よく問題になるのが外観であります。英国で見たように古い概念に捉われて構造物の性質を偽る或は隠すというようなことは間違であって、どうしても合理的な形が或る与えられた条件から創造せられるという時に、昔から有り来りの概念に依って創造すべき形を真似なければならぬという風なことは、最早今日真面目な意味に於て橋梁としての美観が云々せられるときには、当然そういう概念は退却しなあければならぬということになるのではないかと思うのであります。勿論美観と申しますと人々に依って結論が違って来るのでありますが、合理的なものを真面目に整然と整頓して行こうというところから茲に新しい美が創造せられるというふうに考えて行きたいと思うのであります。英国では先程申上げましたように、折角技術の発展から創作的な所をやらなければならぬという場合に於いても古い概念に依って引込み思案になって居るという感じを深く感ぜさせられる実例に遭遇したのでありますが、今日の独逸或は亜米利加の一部に於ては全然そういうことなしに、全く明快適切に構造物の持って居る性質を少しも偽らず隠さずに、気持好く整頓して行くというような傾向が多分に見受けられたのであります。此の洗練された単純さという言葉をもう少し説明させて戴きたいのでありますが、私勝手の意見でありますが、洗練と申しますと、必要のエッセンスが非常に巧妙なる整頓に置かれて居る、一つの構造系に向ってどこかに重心がある、重心が失われていない、そして整然たる調和統制のあることである。之を私は洗練と考えて居るのであります。そうすれば自ら其の構造物には一貫した或る品格が出て来るのではないかと考えるのであります。此の一貫した一つの品格というものが真面目な意味に於て本当の実用的な橋梁という構造物に対する美観ではなかろうかと思うのであります。そういう風に考えて居る私の目にドイツのアウトバーンなどに使われて居りましたああいう橋を見た時に実に心嬉しく感ぜられたのであります。此の洗練された単純さというものは決して橋梁の形を取扱うということばかりでなしに、色々ものの取扱方或は考え方に於て肝腎な主張ではないかと考えて居ります。之は昔から主張されて来たような法則的、形式的な考えではなく、あらゆる方面に向っても最も適切な本当に生きた主張ではないかと思うのであります。
ここでも力学的な均整的な話が出てくる。加えてシンプルであることと、構造・素材のあるべき姿?との一致と。単純・明快・軽快が最先端の橋梁の美と。
都市計画事業橋梁でも堀はその方向を向いていたらしい。大江橋とか土佐堀橋とかどう見てたんだろうなぁ。難波橋が先にあったこととか周辺建物との調和を優先したんだろうか。しかしそうした周辺建物は次々となくなって単明軽な現代建築に囲まれるようになり、かえって浮いた存在になりつつある(完全に浮ききってないとことろが非凡かも知れぬ。難波橋はいろいろと問題噴出したので及第点すら覚束ない)。天満橋の直線形であったり天神橋の軽快な鉄骨アーチのほうがかえって似つかわしい都市になっている。結果的には堀に先見の明があったといえそうな気がする。それとも都市がこれほど急激に変化するのだと見抜けというほうが酷だろうか。
久しぶりに堀威夫「世界の橋」を見て、やっぱりシビれるなと再確認。こういう写真を撮りたいもんだ。