nagajisの日不定記。
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それで神崎煉瓦工場の件だが、やはりイベントか何かがないと開放されていないらしく、体よく門前払いされてしまった。そうなることは半ば承知で出掛けたので悔いはない。
在所から少し離れた海際に工場はある。その周辺を歩きまわってみると、やはり屑煉瓦がたくさん落ちていた。ほとんどの煉瓦は見本に持ち帰りたいくらいにあからさまな機械整形煉瓦であった。工場末期の製品であることは疑いようがない。
神崎の集落は西神崎のほうが古いように見える。東にゆくほど旧家が減り、かわりに永春寺や大明寺といった寺社、商店、小学校などは東にある。民家の密度は東神崎のほうが密だが、廃屋になり朽ち果てている家、そうなる途上の空き家も東神崎のほうが多い。細い路地を挟んで民家が軒を接せんばかりに並んでいる、その中を人一人幅の通路が四通八達しているという海辺特有の集落のつくりだ。
西神崎の在所をうろついている時にこの刻印煉瓦に出会った。写真では「C」字に見えるが○を十字に切ったような形をしている。その近くでは半割にしたもの(即ち円弧×2で円を形成している)も見た。しかし在所で見つけられたのはその2つだけだ。これだけだと「これが神崎煉瓦の刻印だッ!」という牽強付会さえ難しい。手整形の煉瓦も機械整形の煉瓦も数え切れないくらい転がっていたなかで、たった2つだったから……。そう主張するなら東神崎で見かけた日本煉瓦刻印をどう説明するつもりか>nagajis。
うろうろの足がふと向いたのが、浜辺にある神社だった。湊十二社神社というそうだ。その鳥居を潜って最初に出会ったものが、意外にも神崎煉瓦---ていうか京都竹村丹後製造所に直結する遺構であった。
この水屋。非常にきれいな煉瓦積み。柱は角を丸くとった異形煉瓦を積み、壁は透かし積みにしてある。ホウきれいな肌をしている、と思って平を覗き込んで、やっと手整形の煉瓦だとわかった。平に筋が入っていたからだ。そうして傷らしい傷はそれしかない。小石が顔を出してたりだとか微細なヒビが入ってたりだとかさえもない。あっても構わない瑕疵はおろか焼きムラさえない。
脇に掲げてあった解説看板によると、井戸の石組みの内側に竹村氏や山田氏らが明治36年に寄進したことが刻まれているそうだ(その拓本が飾ってある。実物を見たかったが頑丈な蓋がされてあって覗けなかった)。
この水屋に使われている煉瓦を見て、自分のなかの京都竹村丹後製造所の「格」が一気にあがった。いままでトップの座にあった大阪窯業を押しのけて王座に君臨する勢いである。色合いといい形といい、それがどの煉瓦にも等しく言えることといい、しかもそれが手整形となると、たいへんな技術力といわねばならない。当時は鉄砲窯だったはずで、特別に注意を払って焼くことはできたとは思うが、陶芸作品ばりに丁寧に扱って焼いたとしてもこう焼き上げるのは難しいんじゃないだろうか。
後で東神崎のほうもうろついたが、東西どちらの神崎でも、手整形の煉瓦はこの色目この肌理だった。断面にマーブル模様が見られるようなこともないし、小石が混じっていることも稀だった。いま売っている素焼きの植木鉢の土で煉瓦を焼いたらこうなるだろうという塩梅の、きわめて均質な断面である。
さらにその後建部山砲台に登って煉瓦を探したりしているのだが、少なくとも建部山一体の表土は黄土色をした粘土質の土であった。むかし小学校の裏山で泥団子を作ったあの土だ。神崎はその峰続きにある。槙山とか金崎とかも同じ地質なんじゃないか。この土と浜の砂を混ぜて作れば確かにこんな仕上がりになりそうである。
建部山砲台では遊離した煉瓦を見ることはなかったが、掩体壕の壁からこぼれた煉瓦断片、およびその剥離した跡を見る限り、やはり質感は神崎で見たものと似ていたように思う。大阪で見ることができる煉瓦は(大阪窯業製であっても)5mmくらいの小石が混じっているもので、あそこまで均質じゃない。
水屋の流し?の足元や外周壁の腰壁には焼過煉瓦が使われている。これは表面がガラス化するほど焼いたもので、建部山堡塁で見た焼過煉瓦とはちょっと違う。建部山のは由良で見るのと同じ程度の暗褐色~褐紫色のざらざらした肌のやつだ。水屋のは特に水をかぶることが当然なので吸水しないよう徹底的に焼いたものだろうか。少なくともこれがあるお陰で京都竹村丹後は焼過煉瓦を作る技術があったことを知れる。
なお水枡に刻まれた山田宗三郎は三人いた共同経営者中最後に名が上がっていた。住所も「京都深草」となっている。その頃深草にも竹村煉瓦の工場があった。「工場通覧」ほか文献資料では丹後製造所も深草の工場も工場主は一貫して山田宗三郎か山田姓の人物であった。どういう関係にあったんだろう。
について奈良県立図書情報館にレファレンスをお願いしていた件を書き忘れた。依頼して数日後、半ば諦めかけていたところで御回答を頂く。時間がかかったのはその分念入りに調べて下ったからであった。感謝せんとダメよ>おれ。
詰まるところ鹿峰社とはナンゾやが分かる資料は公文書の中にもそんざいしなかった。しかし明治26年会社一件なる簿冊の中に鹿峯社の名前が出て来る個所があるという。統計書ではM25までしか出てこなかった(M26には載ってなかった)のを確認していたが[それ以降も存在していたみたいですね」と。うーむ、デジタル化資料は調べたつもりになっていたけれども「明治廿六年會社一件」というタイトルだから「明治26」という検索ワードでは引っかからないのだった。迂闊だ。
簿冊はこの年に成立した法律第9号に基づき27年度予算を作成する必要があるので既存会社の定款とか存在とかを確認して報告すべしという内容の大蔵省主税局からの通達。法律第9号は商法改正でこれはここに要約がある。はじめのは3月16日の通達でこのなかに挙げられた会社のうちに奈良鹿峯社がある。已に廃業していたり調査対象ではなくなっているものについては(おそらく)朱で消されているが、鹿峯社についてはサラだ。んで4月19日に郡長から内務部長あてに12社ぶんの定款他が回送されていてその中に鹿峯社が入っている(26コマ目)。というわけでこの時点までは存在していたことになる。統計書は12月31日現在のデータだから26年中に廃業していたら26年版には載らないだろう。この年度で統計書の掲載基準が変わったようではないのだが(書式が多少変わっているけど)。