nagajisの日不定記。
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現在写真のコピー中。動きがまったりしているうえ、何故か指先がヒリヒリしていて、出発前に仕入れておいたPro Keyboardの感触をよく味わうことができない。明日から一ヶ月間、このキーボードでで戦わなければならない。その前に写真の整理をしておかないと何が起こったのか忘れてしまいそうだ。
結論いっとくと明治矢の川道途中敗退、昭和矢の川道はスルー。石垣見て、鹿避けネットと超強力な羊歯と戯れてwith自転車、満足した。そもそも1日でどちらも回ろうってのは無理な話だ。南谷から峠まで500upもあんのね>矢の川
どちらかといえば中ネタ・小ネタ満載の旅。行ってみたかったがそれだけのために向かうのはちょっと・・・というようなところを一気にかッさらってきたような感じ。
で、どーでもいいものから片付ける。
バッキーボール3つ目。三重県大紀町宮原の電子水準点が置かれている保育園にて。一色で統一されたフラーレンは初めて(除く中央と支えの柱)
旧紀伊長島町(現在の紀北町紀伊長島区)はマンボウが町のマスコット。道の駅も紀伊長島マンボウだし、市街の北部をバイパスするトンネルにもマンボウ君。なかでも気になったのは歩道トンネルに描かれたマンボウ君だ。一見すると何でもないが・・・(よく見るとコナミmってのは無視の方向で)
ついに2足歩行を始めたマンボウ君。足のラインがちょっとセクシー。
前回やられたこともあって少しは気にするようになった。薮を出て「チクッ」としたのを見てみると、奴だ。この間刺されたものとは種類がちょっと違うがよく見られるのはこのタイプ。薄手のズボンの上から刺していたので払い除けて終了。逃げていくさまを撮影してみた。しかしまあ、このテのモソモソするマダニでなくて良かったと思う。
しかしその後、矢の川峠の激薮の中で数尾見かけたうえ、ロングソックスの上から刺されていることに(帰ってきてから)気づく体たらく。後者はソックスが厚手だったおかげで皮膚には届いていず、しかし口器から出したと思われるセメント様物質が皮膚にくっついていて、ちょっと引っ張っただけでは取れなかった。マジ刺しされていたらまず抜けないだろうと思うような強力さ。くわばらくわばら。
しかも、腰の辺りに潜んでいたのを寝ている時に発見、寝ぼけ頭でむしり取ってテントの中へポイしてしまった。翌日ノコノコ出てきたところをライターオイルで焼かせてもろた。これも刺されていなくて幸い。
東熊野街道(熊野にとってみれば大和街道)にて。空からこの石が降ってきた。どうやらカラスが落としたものらしく、直後に上空を2羽のカラスがバサバサ飛んでいった。
一部始終(?)を見て思ったことは、かつて日本にあった風習のこと。正月松の内など祝いの暦のなかで「烏へ餅をやる風習」がかつてはあった。東北辺ではノサカケといって苞に入れて木にかけたりしたが、丸餅をカラスめがけて投げ、空中でキャッチさせるというのも多かったらしい。や、これはホントの話。柳田翁がそう言っていたもの。
この石もちょうどそんな丸餅サイズで色も似ている。戯れにこんな石を投げて取らせた悪小僧もいたようだが、まさにその石なのか、それとも餅の記憶があって丸餅っぽい石をカラスが運ばんとしていたのか。
ゴルフの打球をカラスが空中キャッチして持っていってしまうことは、雲仙に外人向けのゴルフ場が出来た直後から起こっていたという。実際この地方では丸餅を投げていた。それで、どうやら烏餅の記憶の名残りでそんなことをするらしいのだ。熊野烏もその風習を忘れずにいるのかも知れない。と思った。
_ traffic [も、餅突いて!!]
西播煉瓦を訪問し、「セ」刻印に遭遇して、「セ」≠関野煉瓦であることを証明する必要が出てきた。雨も上がったことだし(蒸し暑いこと限りなしだが)ついでに足を伸ばしてみようという気になった。前回関野煉瓦跡を訪問した時には工場跡地しか見れなかったから、もう一度曽根の街中を歩いて確認しなければと思っていたのもある。
もう何度目になるかわからない曽根駅で下車。そこから歩いて南下してゆく。新幹線の高架を越えた辺りから路地裏に入り、煉瓦を探しつつ行くと……。あるわあるわ、古そげな煉瓦構造物が。
最初に見つけたのはこの壁。民家の裏手にあって、屋敷の垣根ではなく煉瓦積みの小屋の一部であるらしかった。段になっているところに平が露出しているので、うんとこしょして覗いてみたら、「K7」がびっしり。
出た。「Kn」。n=7は尼崎で目撃していたけれども、まとまった量使われているのは初めて見た。最寄りの工場は播煉合同曽根工場→伊藤窯業だが、天川の川向こうには大正煉瓦の曽根工場があったし、下流には関野煉瓦もあったから、これだけではどこと推定することもできない。しかしn=7の出処がこの附近にあったらしことは言える。他所でも転石になったK7を見た。&、ここもn一定であるのでライン番号説を否定する材料になる。
別の場所では煉瓦積みの蔵も目撃。2棟ほど。写真のものは腰壁に煉瓦が採用されていて、すべて播煉合同の「ヲ」が見られた。
そういうわかりやすいもの?ばかりだといいのだが、そうは問屋が卸さない。
最初に掲げた壁の前の空き地に転がっていたもの。 一文字 「へ」と打刻されている。実はこの刻印、似たようなものを尼崎で目撃している。セオリーでは作業者の識別符丁っぽいのだが、だとするとイロハが識別符丁に使われていたことになり、「イ」が伊藤窯業とか「ワ」が和田煉瓦だとか言いにくくなる。
別所村に最初にできた別所煉瓦、もしくは大正10年版に記載がある別所窯業の「べ」であるのかも知れず、今のところそれが最有力候補だ。しかしこの工場、資料では大正初期と10年頃にピヨっと現れるだけなので経歴がよくわからない。印南郡ではこれ1つしか見つからなかった(うえに工場から離れた所で発見した)のも説の根拠を揺るがす事態である。
このほかにも、楕円に十字が入った刻印煉瓦の断片を採取した。これもちょっと解釈が難しい。こじつけかも知らぬが原田煉瓦の「田」を意匠化したものではなかろーかと思っているが、原田工場の周辺にはなかったし、1つしか見つかっていないので、話題の俎上に載せにくい(とかいってここに書いてるけど。そういうところだ>ここ)。煉瓦自体はこの辺りでよく見る焦げ茶系の煉瓦だったのだがなぁ。
それで肝心の「セ」刻印は見つからずじまい。古い民家が残っているのは曽根町を東西に横切っている県道718号の北側で、小字でいえば南之町、東之町といった辺りになるが、かなり細かく入り込んで(というよりも迷い込んで)かなりの量の古煉瓦をひっくり返したつもりなのだが見つからなかった。
「セ」=西播だとすると、今度は関野煉瓦は何?って話になる。大正14年の「重要貨物調書」煉瓦編、曽根の煉瓦工場の筆頭に関野煉瓦があがってるくらいだから、それなりにでっかかったはずなのだが……(ちなみに他には中播と大正煉瓦が挙げられていて、曽根駅の貨物輸出量は合わせて16000トンとなっている。曽根駅からの煉瓦輸出は山陽本線中では耐火煉瓦でおなじみの三石に次いで多かった)。
1つ引っかかるのは、ちうよりも無理くり引っ掛けるならば、広島の吉名煉瓦が使っていたのと同じ刻印の煉瓦が見つかっていること。今回の曽根歩きでも見つかった。具体的には①曽根町の国道西側の旧家の敷石、②播煉中筋工場近くの民家の敷石、③曽根町南之町の畑の中、の三箇所だ。まとまって使われている例はまだ見ない。○を三等分した記号はYoshinaのYを○で囲ったものとされていて『煉瓦刻印集成』にもそう載っている。広島県の煉瓦工場の記録『赤れんが物語』でも大きな工場だったことが紹介されている。しかし遠く離れた兵庫県まで分布しているものだろうか。&、それ以外の広島の煉瓦が見られないのも疑問符。だいいち大阪の煉瓦さえ入ってきていないようなところなのだ。印南郡は。
関野煉瓦の所有者は関野與平という人なので、YoheiのYを○囲いしたもの、とこじつけられなくもないな、と帰りの電車の中で思った。他に該当しそうな刻印が見られないのだし。どっちにしても発見数が少なすぎ、現状では判断を下せない。頭の片隅に置いて熟成発酵させるほかないだろう。
煉瓦刻印のマッチングはマインスイーパーと同じような面白さがある。最初は見当もつかない地雷原だが、一つひとつ理詰めで考え、外してはいけない法則を押さえ、従っていけば、そのうち解けるような気がする)。解けたところで誰の役に立つかは考えてない。面白いからやっているだけだ 。
使い途のない写真の供養。四郷町見野で見かけた火の見櫓。足元が倉庫になっていて、
非常に立派な石製額が掲げてあった。しかも左書きだ。消防器具倉庫でこんなに立派なのは初めて見た。
火の見櫓の構造もちょっと面白い。同じようなアーチが採用されたものを郡内他所でも見かけた。
C60もどき。曽根町中之町集会所前の公園にて。こういうのも取り上げてたらきりがないが、なぜか写真に収めていたので、片付ける。
http://megalodon.jp/2013-0731-1923-57/www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2958760/11104051
http://megalodon.jp/2013-0731-1923-19/www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013071208581322/
吉野町2p、和田2p。中間子論。2600。後ろ2者のほうが大変。じっくり構成を練るしかないが……時間があるだろうか? 思想を反映させずに2600年なんて書けるんかね? と思ったりもするがnagajisにはそもそも確固たる思想なんてないだろ。利害関係も有してないし、ある意味適任者なのかも知れないな。最低賃金以下の収入しかなく生活保護すら検討しているようなヒキニート部外者だからこそ書けることだってあるだろう。
○○と自分に言い聞かせてやる仕事なんてつまんないからな。すべては自分のするべきこと。誰かのためにやってるんじゃなく自分のためにやっている。そう言い聞かせずに自然に認識したいものだ。
怒りに任せて書いたッた。数日後か数週間後か、はたまた数カ月後か数年後かに存在意義のない記事になってくれればいい。pgrの的ならなり慣れている。
先日高野山に連れて行っていただいた時にこんなものを見つけた。「大阪奈良/わらぢ會建之」「大正四年□月廿一日」と刻まれている。上のまるいところには東西南北が彫ってある。ただそれだけのものである。
ぱっと見て「大阪わらじの会?」と誤解した。あれは沢登り専門の人々だ。まさかこの石を沢を担いで登ってきたわけじゃないだろう。「奈良」も抜けている。
それで神崎煉瓦工場の件だが、やはりイベントか何かがないと開放されていないらしく、体よく門前払いされてしまった。そうなることは半ば承知で出掛けたので悔いはない。
在所から少し離れた海際に工場はある。その周辺を歩きまわってみると、やはり屑煉瓦がたくさん落ちていた。ほとんどの煉瓦は見本に持ち帰りたいくらいにあからさまな機械整形煉瓦であった。工場末期の製品であることは疑いようがない。
神崎の集落は西神崎のほうが古いように見える。東にゆくほど旧家が減り、かわりに永春寺や大明寺といった寺社、商店、小学校などは東にある。民家の密度は東神崎のほうが密だが、廃屋になり朽ち果てている家、そうなる途上の空き家も東神崎のほうが多い。細い路地を挟んで民家が軒を接せんばかりに並んでいる、その中を人一人幅の通路が四通八達しているという海辺特有の集落のつくりだ。
西神崎の在所をうろついている時にこの刻印煉瓦に出会った。写真では「C」字に見えるが○を十字に切ったような形をしている。その近くでは半割にしたもの(即ち円弧×2で円を形成している)も見た。しかし在所で見つけられたのはその2つだけだ。これだけだと「これが神崎煉瓦の刻印だッ!」という牽強付会さえ難しい。手整形の煉瓦も機械整形の煉瓦も数え切れないくらい転がっていたなかで、たった2つだったから……。そう主張するなら東神崎で見かけた日本煉瓦刻印をどう説明するつもりか>nagajis。
うろうろの足がふと向いたのが、浜辺にある神社だった。湊十二社神社というそうだ。その鳥居を潜って最初に出会ったものが、意外にも神崎煉瓦---ていうか京都竹村丹後製造所に直結する遺構であった。
この水屋。非常にきれいな煉瓦積み。柱は角を丸くとった異形煉瓦を積み、壁は透かし積みにしてある。ホウきれいな肌をしている、と思って平を覗き込んで、やっと手整形の煉瓦だとわかった。平に筋が入っていたからだ。そうして傷らしい傷はそれしかない。小石が顔を出してたりだとか微細なヒビが入ってたりだとかさえもない。あっても構わない瑕疵はおろか焼きムラさえない。
脇に掲げてあった解説看板によると、井戸の石組みの内側に竹村氏や山田氏らが明治36年に寄進したことが刻まれているそうだ(その拓本が飾ってある。実物を見たかったが頑丈な蓋がされてあって覗けなかった)。
この水屋に使われている煉瓦を見て、自分のなかの京都竹村丹後製造所の「格」が一気にあがった。いままでトップの座にあった大阪窯業を押しのけて王座に君臨する勢いである。色合いといい形といい、それがどの煉瓦にも等しく言えることといい、しかもそれが手整形となると、たいへんな技術力といわねばならない。当時は鉄砲窯だったはずで、特別に注意を払って焼くことはできたとは思うが、陶芸作品ばりに丁寧に扱って焼いたとしてもこう焼き上げるのは難しいんじゃないだろうか。
後で東神崎のほうもうろついたが、東西どちらの神崎でも、手整形の煉瓦はこの色目この肌理だった。断面にマーブル模様が見られるようなこともないし、小石が混じっていることも稀だった。いま売っている素焼きの植木鉢の土で煉瓦を焼いたらこうなるだろうという塩梅の、きわめて均質な断面である。
さらにその後建部山砲台に登って煉瓦を探したりしているのだが、少なくとも建部山一体の表土は黄土色をした粘土質の土であった。むかし小学校の裏山で泥団子を作ったあの土だ。神崎はその峰続きにある。槙山とか金崎とかも同じ地質なんじゃないか。この土と浜の砂を混ぜて作れば確かにこんな仕上がりになりそうである。
建部山砲台では遊離した煉瓦を見ることはなかったが、掩体壕の壁からこぼれた煉瓦断片、およびその剥離した跡を見る限り、やはり質感は神崎で見たものと似ていたように思う。大阪で見ることができる煉瓦は(大阪窯業製であっても)5mmくらいの小石が混じっているもので、あそこまで均質じゃない。
水屋の流し?の足元や外周壁の腰壁には焼過煉瓦が使われている。これは表面がガラス化するほど焼いたもので、建部山堡塁で見た焼過煉瓦とはちょっと違う。建部山のは由良で見るのと同じ程度の暗褐色~褐紫色のざらざらした肌のやつだ。水屋のは特に水をかぶることが当然なので吸水しないよう徹底的に焼いたものだろうか。少なくともこれがあるお陰で京都竹村丹後は焼過煉瓦を作る技術があったことを知れる。
なお水枡に刻まれた山田宗三郎は三人いた共同経営者中最後に名が上がっていた。住所も「京都深草」となっている。その頃深草にも竹村煉瓦の工場があった。「工場通覧」ほか文献資料では丹後製造所も深草の工場も工場主は一貫して山田宗三郎か山田姓の人物であった。どういう関係にあったんだろう。
について奈良県立図書情報館にレファレンスをお願いしていた件を書き忘れた。依頼して数日後、半ば諦めかけていたところで御回答を頂く。時間がかかったのはその分念入りに調べて下ったからであった。感謝せんとダメよ>おれ。
詰まるところ鹿峰社とはナンゾやが分かる資料は公文書の中にもそんざいしなかった。しかし明治26年会社一件なる簿冊の中に鹿峯社の名前が出て来る個所があるという。統計書ではM25までしか出てこなかった(M26には載ってなかった)のを確認していたが[それ以降も存在していたみたいですね」と。うーむ、デジタル化資料は調べたつもりになっていたけれども「明治廿六年會社一件」というタイトルだから「明治26」という検索ワードでは引っかからないのだった。迂闊だ。
簿冊はこの年に成立した法律第9号に基づき27年度予算を作成する必要があるので既存会社の定款とか存在とかを確認して報告すべしという内容の大蔵省主税局からの通達。法律第9号は商法改正でこれはここに要約がある。はじめのは3月16日の通達でこのなかに挙げられた会社のうちに奈良鹿峯社がある。已に廃業していたり調査対象ではなくなっているものについては(おそらく)朱で消されているが、鹿峯社についてはサラだ。んで4月19日に郡長から内務部長あてに12社ぶんの定款他が回送されていてその中に鹿峯社が入っている(26コマ目)。というわけでこの時点までは存在していたことになる。統計書は12月31日現在のデータだから26年中に廃業していたら26年版には載らないだろう。この年度で統計書の掲載基準が変わったようではないのだが(書式が多少変わっているけど)。
_ 建築屋さん [生きて帰ってきてくれなきゃ、次号ORJの厚みが比較できんじゃないか・・・・。]
_ nagajis [大丈夫です、nagajis以外のメンバーや受付がなんとかしてくれるハズ(マテ]