nagajisの日不定記。
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間違ってはいないと思うのだけれども、とてももやもやする。名前を覚えてもらいやすくするために苗字か名前かをひらがなにしとこう的風潮が納得行かない。そんな姑息手段で票を集めなければならないのかと思う。それをXORしたルビになおさらもやもやする。ひらがなルビ、漢字名前を並べれば済む話ではないか。
という攻撃はそのままブーメランして自分に返ってくる。要するに有権者がバカだからこんな姑息手段を用いなければならぬのだ。自分の意志で選挙公報を読むなり講演会を聞くなりしてその人の掲げる政策を理解した上自らの志を代弁してくれる人物を選び出しさえすれば、名前なんて自然に覚えるだろう。そういうことをしない自分にこの看板のモヤモヤを愚痴る資格などないのである。
駅舎のイラストデコレーションのほうは、あれはあれでいいんだと思った。訪れた人を楽しませよう、自分たちが毎日使う駅舎を明るくしよう、という前向きな試みに対して、私のような滅多に利用しない第三者が口を挟む筋合いはない。なんだか「ゆっくりしていってね!!!」と喋り出しそうだな、と思ったことだけ書いておけばよい。
和歌山線、もうちょっと本数増えないかなあ。ふらっと訪れると30分に1本とか1時間に1本とかで行程を組み立てにくい。かと思ったら橋本で1、2分差で見送らねばならなかったりする。あれに乗れてたら30分違うんだ。
近頃急に「言偏」の漢字に違和感を覚えるようになった。全ての言偏の漢字にではない。駅のポスターや車内広告を見ていて急に「あ、変な漢字」と思うことがある。何と表現したらいいのか……その言偏の漢字だけが中国の簡体字になっているように見えてしまうのだ。
その漢字のどこに違和感を覚えるのか、今日やっと判明した。言偏の一画目の「点」の書き方に因るらしいのだ。
今日見たのは市営地下鉄めとろの車内広告であったのだけれども、写真など撮っていないので掲げられない。かわりに以前違和感を抱いた、東京書籍小学二年生用「新しい国語」の表題を掲げる。違和の臭いはまだ柔いほうだが、この「語」の一画目に違和感を感じたことがあった。
見慣れているフォントの場合はどうだろう。
「丶」ではなく横棒に近い書き方をする。雑誌本文でよく使われるこれなんかもそうだ。
しかしよくよく考えてみれば、これはこれで「書いた文字」とは乖離している。普通こういう字を書くことはない。が、至極落ち着いて見ることができる。しっくりくる。なぜだろう。単に記号として・デザインとしてバランスが取れているからだろうか? 見慣れているから、だけだろうか?
これなどは逆に、「丶」であるけれども、全く違和感がない。
教科書体
だとなおさら違和感がない。
だけれども、東京書籍「新しい国語」の「語」は臭う。「丶」の辺りから臭いが発せられている。(そういえば、他の臭った「言偏」では、この「点」がもう少し左に寄っていたような気もする。二画目の辺から転げ落ちるんじゃないかと不安になるような「丶」であったような記憶がある。上二つの「言偏」の「丶」は文句のつけようのない位置に収まっているように思われる)
こうやって並べてみた結果、それはどうも、「横棒の反り」あるいは「文字の傾き」があるかないかにも因るらしい、と気がついた。東京書籍「新しい国語」は、横棒が直線であるのに「丶」だけが書き文字風で、だからそこに不統一感を嗅ぎ取ってしまうようだ。そういえば今日市営地下鉄めとろで見た広告の言偏漢字はゴシック体でありながら「丶」だけがこの角度で書かれていた。なおさら臭ったわけである。
同じような違和感を「示偏」の一画目に感じることがある。「丶」を使うか「縦棒」を使うかの違いのようで、「丶」の場合に臭うようだった気がする。煩雑なので例は挙げないが多分上記と同じ理由であると思う。今度気をつけて見ておこう。
広告業界、DTP業界に、密かにそういうフォントが混入してきているのかも知れない。あるいはデザインまで海外に発注しているのかも知れぬ。こういうのは結局のところ「見初め」のタイミングであったり「馴れ」であったりの違いでしかなくて、たとえば戦前の雑誌の活字体に微妙な違和感を感じ「古さ」を読み取ってしまうのも、写研写植とかモリサワフォントとかに馴れてしまっている自分たち世代だからそう思うだけであるだろう。後の世では直線横棒に「丶」を添えた言偏でも違和を感じることなどなくなるのだろう。ともかくまあ、流行り廃りの変わり目にいるらしいことに気がついた私であるらしい。