nagajisの日不定記。
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梅雨となりたるか早雨は降り出したり。然して終日降る。誕生日会ありて、食後直ちに月例身体検査あり。されど五月に比し余り何物も増加せず。術科は工作計算力の見方を習う。随意運動時は一年の者と話す。一層の奮励を求む、何故昨年中期の如き精出でざるか、残念なり。家より時計送り来たり。此の品こそ紛失せず。
しとヽ雨。午後は教練にて照準鑑査及射撃予行練習なりき。明日の狭窄射撃に備えてなり。第一回目に、四粍なりき。未だ不充分。運動班運動は体操・遊戯にして二・三年は球戦ををなす。三年には闘志なく、さんヾ二年に負けたり。三年よりだらけ残念なり。審判をして、立っているのは大概三年。思えば近日亦切磋が消滅しかかる状態なり。一般に、三学班の大きな方の連中は口だけは人以上に良いことをしゃべり実行之に伴わず。又私語・雑談多くして大きければ大きい者としての威厳がなく軽々しく感ぜらる。良好。愈〃好調。
暫定的に。要は今までの号の目次ページをつなげてリンク指定しただけだ。
Whole版はすべてを統合した十MBクラスのファイルしか落としていない方へ。該当号の該当ページを開く。(単に目次をクリックすると、同じウィンドウで開くので読み込みがうっとうしい・別ウィンドウで開いておくとそっちがアクティブになる)
Partial版は個々の企画ごとに分けた版を落としている方へ。該当企画を開く。
どちらもORJのpdfを入れたフォルダと同じ階層に置く必要がある。またフォルダ名はデフォルトのORJ_XXXX(第一号ならORJ_0507)で、ファイル名も配布時のものと同じでなければ機能しない。名前・フォルダ名を決め打ちしないとリンク指定できないため。
├index_whole.pdf
├index_partial.pdf
├ORJ_0507
│ ├ORJ_0507.pdf
│ ├01_top.pdf
│ ├ :
│
├ORJ_0508
├ORJ_0509
├ORJ_0510
├ORJ_0511
:
どちらもがさつに作っているので機能しないリンクがあるかも。また、CD版には新しく作りなおした総目次をつける予定。
したのはいいが、明日1時起きなんて聞いてないよ。。。
ロープウェーで登って歩いて下ってくるとのことなので足も大丈夫だろうと思い参加した。今回は神吉先生のご紹介で神戸市の職員の方が案内して下さることになり、普段入れない辺りにもづかづかと入っていけたのが嬉しかった。そういう機会があることを期待して(訪問を)後回しにしておいて正解だったと思う。念のためにと思って平成の改修記念誌を持っていったが、その必要はない位に詳しく&ツボを抑えて解説して下さったので有難かった。
以下断片的に。貯水池の最上流にある取水堰堤の前なるRC橋。地味に明治38年頃竣工で現存2、3番目の古さを誇るブツである。アーチは鉄筋(≠メラン式)、床版はモニエ式。五本松堰堤の下にもRC橋が架かっているが、そちらは大正時代に作られたものだそうだ。リブ+柱(写真のはヴォールト+柱)という違いもある。
締切堰堤の上のバイパス水路隧道の取水口には水平アーチが採用されている。年代的には第二期工事の構造物だが、ブツは少し新しい感じがしないでもない。苔生してないし。あとアーチは入口の50cmほどで、要するに隧道ポータルと同じような役割のものだ。
布引五本松堰堤の上に設けられた銘板。堰堤の完成は明治33年で、設計者や監督者の名前が英語で刻まれている(文字は金属製で一文字ずつ堤体に埋め込まれている)。今ならば神戸市長だとか水道局長だとかの偉い人の名前が載るところだが(実際この隣に1960年代に行なわれた防水工事の記念銘板がありお偉いさんの名前が載っている)、そうではなくて実際に手掛けた技術者の名前が掲げられているのが興味深い。昔はそれだけ技術者の地位が高かったという解説をいただいたが、むしろこれを責任署名だと捉えてみるのはどうだろうと思った。いくらでも首をすげ替え可能な上層部の名前ではなく、この堰堤を設計し、工事監督した者の名前があったほうが署名の重みが出やしまいか。彼らのほうが直接的な責任を負っていたと考えるべきではないか。そういえば逢坂山隧道の西口に掲げられていた額も工事監督の国沢能長を称える内容だった。ただの身内褒めではなくて「これを作ったのは私たちだ」という宣言だと。そう宣言して恥じない仕事であったのだと。
それ以降の、隧道名を刻んだり祝いの文字を掲げたりした扁額はまたちょっと違うかもしれない。完成を記念するものではあるが責任明示ではあり得ない。単にこの文字を書いた人の名前というまでで、偉い人にそのお鉢が回って来やすかったというまでだろう。逢坂山のあの額だけが以上なのす。以上階上屋的余談。
堰堤上のグラウチングの跡。五本松堰堤はコンクリートを使ったために漏水に悩まされた。そこで堰堤の真上から垂直方向に小さな穴を開けモルタルを圧入して止水した(グラウチング。先の'60の時も、平成の大改修でもやったはzy)。そういう工法は聞いたことがあるものの、実際の跡を(グラウチングの跡として)見るのは初めて。こういう埋め殺しの鉄管をどこかで見た気がする。しかも執拗に。それがグラウチングの穴だったとは。些細なことだが少し賢くなった。
砂子橋。明治33年竣工。三心円+副アーチ2という変わった形の煉瓦橋。この時期に来ると左右の控えのアーチが木々に遮られてしまうのが残念(土木デジタルアーカイブスの絵葉書集なんかに写真があったはず。次のリンク先にもある)。本来の役目は五本松堰堤から引いてきた水を渡すためのもので、のちに布引の遊歩道用に解放された。いまある欄干の上半分は後年打越したもので、煉瓦のサイズを測ってみると確かに違う。旧部分は幅107mm前後だが打越した部分は90mm+αで幅が妙に狭い。この改修はいつだったか・・・工事記念誌にあったはずだが今はまだザックの中だ。
というわけでネットで調べると神戸市のページに昭和51年に嵩上げと書いてあった。へえ。その割にJIS煉瓦でないのはちょっと面白い。
いろいろ構図を変えて撮ってみたがどれもしっくり来ない。三心円アーチがウリなのだからそれを活かして撮りたいところなのだが、天気が良すぎてハイコントラストになってしまううえ、斜めからだと曲がり具合がいまいち伝わらぬ。とかく橋の写真は難しい。
足の方はまあまあ。2月に七三峠へ行って太子道を帰ってきた時に比べれば安定感があるものの、下りの一歩を踏み出す怖さおよび急に捻ったときの痛みは相変わらず。むしろ今は蕁麻疹が気持ち悪くてかなわん。薬を飲むようになって一気に広がり遠山の金さんか何かのようになっている。見目がわるいだけで痒みがないのは幸いだが、これが全身を覆って区別がつかなくなるまではあまり出歩けないだろう。今日も暑いのを我慢して長袖を着て行ったので汗だくだ。
小さな旅ができるくらいに治ってきたことは素直に嬉しい。しかし6カ月でたったこれだけか、とも思う。若山牧水だったか三好達治だったか・・・結核を患ってから高い山へ登ることができなくなり、山を恋うばかりになったわが身のことを書いた篇を読んだことがある。それに似た思いのごく小さなものが心にあって取り扱いに困っている。すっかり諦める気にはなれないが、ただちに以前のような旅ができる気もしない。山のあなたのなお遠くにもやもやとした思いを馳せるばかりの毎日。そろそろ違うことをしなければと思いながらもう半月である。早めに裏工作を始めて活路その2を設けておいたから退屈してはいないが、それとて長続きするとは限らん。8日午後3時で終わりそうな気もする。
私用を2つ片付ける。なんかnagajisが人間の真似事をしている。笑止千万である。ちなみに岡山県に真似男ヶ峠なる峠がある。由来は不明である。
調査票を作っていたのだが、あらかた作り終えたところで古いフォーマットを使っていることが発覚してしまった。なんということだ。慌てて全ページ作り直したがまだpdf化できてねえ。一ページ変換するのに2、3分かかるのはどうにかしてほしい。多分自分の設定がよくないんだろうけど(画像の大きさとかなんとか)。
旅行以来放置気味だった部屋を片付けた。居間と台所と両方ともを片付ける本格的な掃除。そうして蚊取り線香を初点灯。この香りが夏を思い起こさせて好きなのだ。
「泉州の煉瓦生産と陸軍由良要塞」では長手につく焼き目の数で生産工場を区別できる可能性が指摘されている。煉瓦を窯で焼く時に井桁に積み上げて焼くため煉瓦同士が接するところとそうでない所で焼き色に違いが出たり凹んで段がついたりする。工場によって積み重ね方が違うためそれが判断材料になるという。
具体的には長手に2筋の型がつく(2つの煉瓦に長手を載せて焼く)のは大阪窯業と岸和田煉瓦で「2本組」と称し、それ以外は3筋(3本の煉瓦に載せて焼く)ので「3本組」と。
自分はそこまで考えたことがなかったので、なるほどそういう見方があるものかと思ったものだが、実際にそうなっているかどうかは未だ納得していない。確かに焼く工程は煉瓦生産の要であって工場ごとに仕手があったと思うけれども、その工場のすべての煉瓦が同じように積んで焼かれたものかどうか。窯の天井がアーチ状になっているのでそれに合わせて積んでいけば重ね方が変わってきそうな気がするし、そもそもホフマン窯の端のカーブしている部分では正確な格子積みをすることができない。煉瓦の長手同士を斜めに重ねるような場面もあったはずで、実際そのような斜めの型のついた煉瓦を見たこともある。自分の気付かなかったことを指摘された時の、悔しさと反省の入り交じったような気分で、そんな意見を延べてみるけれども、その意見だって別に実現場を見て言っているわけじゃないからな、反証というほどのものでもなく、とすればますます意固地なニエットにしかならぬのだった。
そんなら自分で確かめてみればいいじゃんか、と思い、写真フォルダを漁ってみたけれども、これといったものが見つからなかった。刻印は写してても長手がわかるような写真が少ない(上記の説を知ってから撮るようにしていたつもりなんだがなあ。大阪窯業や岸和田煉瓦は飽きるほど見つかるのでその都度撮ったりしていないのだ)。それ以外のだと確かに3本線が多く見つかる。友ヶ島第4砲台の堺煉瓦だとか、虎島堡塁の厠とか。手元にある大阪窯業刻印煉瓦も両端で接した一応の2本組であった。しかし、岡町では六稜星刻印煉瓦で2本組のものがある。
展示までに一度徹底的に洗ってみるか。。。幸い大阪窯業のサンプルは岡町のあちこちに存在している。手元にもまだいくつかあったはずだ。
間違ってはいないと思うのだけれども、とてももやもやする。名前を覚えてもらいやすくするために苗字か名前かをひらがなにしとこう的風潮が納得行かない。そんな姑息手段で票を集めなければならないのかと思う。それをXORしたルビになおさらもやもやする。ひらがなルビ、漢字名前を並べれば済む話ではないか。
という攻撃はそのままブーメランして自分に返ってくる。要するに有権者がバカだからこんな姑息手段を用いなければならぬのだ。自分の意志で選挙公報を読むなり講演会を聞くなりしてその人の掲げる政策を理解した上自らの志を代弁してくれる人物を選び出しさえすれば、名前なんて自然に覚えるだろう。そういうことをしない自分にこの看板のモヤモヤを愚痴る資格などないのである。
駅舎のイラストデコレーションのほうは、あれはあれでいいんだと思った。訪れた人を楽しませよう、自分たちが毎日使う駅舎を明るくしよう、という前向きな試みに対して、私のような滅多に利用しない第三者が口を挟む筋合いはない。なんだか「ゆっくりしていってね!!!」と喋り出しそうだな、と思ったことだけ書いておけばよい。
和歌山線、もうちょっと本数増えないかなあ。ふらっと訪れると30分に1本とか1時間に1本とかで行程を組み立てにくい。かと思ったら橋本で1、2分差で見送らねばならなかったりする。あれに乗れてたら30分違うんだ。
近頃急に「言偏」の漢字に違和感を覚えるようになった。全ての言偏の漢字にではない。駅のポスターや車内広告を見ていて急に「あ、変な漢字」と思うことがある。何と表現したらいいのか……その言偏の漢字だけが中国の簡体字になっているように見えてしまうのだ。
その漢字のどこに違和感を覚えるのか、今日やっと判明した。言偏の一画目の「点」の書き方に因るらしいのだ。
今日見たのは市営地下鉄めとろの車内広告であったのだけれども、写真など撮っていないので掲げられない。かわりに以前違和感を抱いた、東京書籍小学二年生用「新しい国語」の表題を掲げる。違和の臭いはまだ柔いほうだが、この「語」の一画目に違和感を感じたことがあった。
見慣れているフォントの場合はどうだろう。
「丶」ではなく横棒に近い書き方をする。雑誌本文でよく使われるこれなんかもそうだ。
しかしよくよく考えてみれば、これはこれで「書いた文字」とは乖離している。普通こういう字を書くことはない。が、至極落ち着いて見ることができる。しっくりくる。なぜだろう。単に記号として・デザインとしてバランスが取れているからだろうか? 見慣れているから、だけだろうか?
これなどは逆に、「丶」であるけれども、全く違和感がない。
教科書体
だとなおさら違和感がない。
だけれども、東京書籍「新しい国語」の「語」は臭う。「丶」の辺りから臭いが発せられている。(そういえば、他の臭った「言偏」では、この「点」がもう少し左に寄っていたような気もする。二画目の辺から転げ落ちるんじゃないかと不安になるような「丶」であったような記憶がある。上二つの「言偏」の「丶」は文句のつけようのない位置に収まっているように思われる)
こうやって並べてみた結果、それはどうも、「横棒の反り」あるいは「文字の傾き」があるかないかにも因るらしい、と気がついた。東京書籍「新しい国語」は、横棒が直線であるのに「丶」だけが書き文字風で、だからそこに不統一感を嗅ぎ取ってしまうようだ。そういえば今日市営地下鉄めとろで見た広告の言偏漢字はゴシック体でありながら「丶」だけがこの角度で書かれていた。なおさら臭ったわけである。
同じような違和感を「示偏」の一画目に感じることがある。「丶」を使うか「縦棒」を使うかの違いのようで、「丶」の場合に臭うようだった気がする。煩雑なので例は挙げないが多分上記と同じ理由であると思う。今度気をつけて見ておこう。
広告業界、DTP業界に、密かにそういうフォントが混入してきているのかも知れない。あるいはデザインまで海外に発注しているのかも知れぬ。こういうのは結局のところ「見初め」のタイミングであったり「馴れ」であったりの違いでしかなくて、たとえば戦前の雑誌の活字体に微妙な違和感を感じ「古さ」を読み取ってしまうのも、写研写植とかモリサワフォントとかに馴れてしまっている自分たち世代だからそう思うだけであるだろう。後の世では直線横棒に「丶」を添えた言偏でも違和を感じることなどなくなるのだろう。ともかくまあ、流行り廃りの変わり目にいるらしいことに気がついた私であるらしい。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060301&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
製品市価は近時著しく昂騰せるが右は当業者数比較的少なきを以てよく一致団結力強く製品値上げ操業短縮等一致の歩調を以てなし得る関係と仲買取引は生産業者中有力なるものにて行われ絶対に純粋なる商人の手を経ざる関係にて製品の市価維持は比較的容易なるが如し
強調筆者。なるほどなあ。大阪はそういう機能がなかった>煉瓦業組合。個々が勝手に売っていて、たぶん有力な仲買業が早くから登場していたりしたから。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00482942&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
大阪府に於ける重要物産同業組合は知事の命令で価格口銭手数料賃金などに関する定款の規定は絶対に許されない、只売薬同業組合だけがその定款中に定価販売のことを規定し若し定価以下で売るときは違約金を徴発するという罰則を設けていたがこれは衛生保健上値段を安くすると粗製濫造に流れることがあるのと印紙貼用の関係からこんな規約を許していたのであるがこれとて昨年知事の命令で削除された
守らねばならないのは組合ではなく市民の生活。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060708&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
最近わが国に於る製鉄製鋼並に高熱工業の躍進は目覚しいものがあるが、此時流に乗って今回耐火煉瓦製造を目的とする大阪窯業耐火煉瓦株式会社が創設された、同社は大阪窯業セメント及び大阪窯業両者の資本系統に属するものであるが、工場は全然新規に建設し差当り月産三千噸(並形百万箇)第一期工事落成の明年五月からは月産一千五百噸を目標とし引続き第二期工事に着手する予定となっている、新会社要項左の通り
事務所大阪市北区堂島浜通▲創立十一年八月一日▲資本金一百万円=第一回払込金二十五万円▲工場所在地岡山県和気郡日生町▲製品耐火煉瓦、蝋石質、シャモット質、硅石質、クローム質等▲役員取締役社長磯野良吉、専務取締役谷口徳政取締役浅田平蔵、同山田馨同高野新治郎、同橋本太郎、同永井清七、監査役白崎広文、同河村秀九
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060172&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
輸出に奨励金の制度。あくまで検討段階。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00482041&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
煉瓦合同の活動恁る協定申合の中にも最も注目すべきは大阪窯業堺煉瓦を初め大阪附近煉瓦業者の活動にて当業者は事業界不振の為初秋来生産三分一減を協定し明年三月迄之を実行することに為り居りしが其結果近頃市場の在荷漸く減少したれば此の程千個に就き五十銭宛の値上げを実行したるに止まらず進んで此際満鮮輸出を企図すると共に関東西当業者の販路侵略策として輸移出奨励金の制度を設くべき計画あり過般第一回協議会を開き更に一両日中再会合の上何分の決定を見る筈なるが其方法は各会社より毎月生産品千個に対し三十銭宛を醵出し之が年額四万三千二百円と為る予算なれが此基金を以て満鮮輸出品に向っては千個六十銭宛の輸出奨励金を交附し尚内地向に於ても名古屋以東並に岡山以西四国九州方面への移出品に対し同じく一円宛の奨励金を交附すべしと云うに在り該案にして仮りに成立せば当該会社は販路を拡大する一面遠隔地方当業者を圧迫するの結果を免れざる可し
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060160&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
四十四年中に於ける県下の煉瓦及び瓦製造高は煉瓦に於て総製造個数二百八十万三千八百七十六個価格四万四千一円製造個数十七個にして之を前年に比すれば耐火煉瓦に於て漸次増加の傾向なるも普通煉瓦は四十年以来山陰線鉄道工事用材料の為め城崎郡内に其工場増加し居りたるに同鉄道の完成と倶に産額を減したれば前年に比し八万余円を減じたり
瓦は製造個数五千六百三十万六千七百四十一個其価額二万八千四百五円其工場数千四百七戸殊に淡路二郡明石郡に於ける各工場発展の結果前年に比して四万余円を増加せり
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00745271&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
煉瓦主要物産に産業統制を行う
工業組合設立のため県吏員が工業家と懇談する
S8時点では組合がなく県当局が結成を働きかけるという内容。せやった、この頃にはまだ無かったんだ。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00214517&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
工場が多数生まれて煉瓦製造業も活況。
元資料が「恨み節」に近いものなので読んでいて辛くなる。正しい認識に基づくものであればまだ救いがあるが、管見壟断がやたらと目についてしまい、せっかくの御説がくどい恨み節になってしまっている。故に正視に耐えられない。むかし自分が書いたもの---中途半端な理解で、自分が見知った事象の範囲を出ることのない書いたもの---も、きっとこのような内容なのだろうと思うと、なおさらいたたまれなくなるのであった。
この事例から何を学ぶか。それは多分、喪われたことについてのどうこうではなく、それより以前に何をなすべきであったか、何があれば成せたか、なんだろうと思う。土木構造物は遺産である前に土木構造物であって、市民の幸福な生活に資することを使命としているものだ、不便であるなら作り替えられなければならないものだ、ということに思い及ばないと、ただの恨み節になる。そうしてそういう恨み節はあまり意味が無い。ものが残っていず、恨みだけがただ在り続けるだけになる。恨みしか引き継げない後世の人間が不幸になるだけである。
年を経てねうねうと鳴かなくなった猫
いまはもう電話がリンリン鳴ることもない。レンジでチンすることもできなくなった。目覚まし時計も電子音がデフォルトだろう。当たり前だと思っていたこと、当たり前だと思っていた表現が当たり前でなくなることは「お前は歳を取ったのだ」と宣告されているようで辛いけれども、その辛さは甘んじて受けるべき類のものだ。いちいち愚痴こぼしたりするべきものではない(なら書くな)。
TUKAさんからDMで報らされた。残念ながら私も識らない。毎日に出ている白黒写真は、たぶん『大大阪橋梁選集』第一集に載っているやつで(手許に抜き刷りコピーがあるが該当写真のページはコピってなかった。ただ橋梁全景を撮ったものに該写真と同じシミのある親柱&メダリオンが写っている)、それで判別不能ならどうしようもなかろうと思う。それくらい基礎的な都市計画橋梁の写真資料。
大阪市の橋は土木部にかなり重厚な資料蓄積があったはずで、竣工時の設計図面もデータ化して保存してた筈。そんな大阪市が見つからんというからには相当難しいのではないか。絵葉書もあんまりあてにならない気がする。堂島大橋はホリプロ社長でない方の堀威夫(当時橋梁課課長)が設計したやつなのでかえって写真が残っていない。自作なので遠慮したのだろう。他の橋はずいぶんいろいろ撮ってるんだけど。
追記・『大阪都市計画事業橋梁総覧』によれば「イタリアン、ロマネスクに影響されたる近世式」の意匠。高欄材料は今村鋼器製造会社の作。ここの図面は一般側面図・平面図・横断図だけで高欄意匠の詳細はないのだね。
工事画報第4巻第2号に橋詰の写真があるが親柱小せえ。
Before...
_ nagajis [あ、同じフォルダに入れた場合のバージョンも作りますわ。]
_ TUKA [リンク切れ報告 P1 鐘ヶ坂隧道、リアタイヤ P2 青乙林道、予告 P3 鳥海林鉄ではなく、直根林鉄、投稿のすすめ P4 林鉄探求、八幡平(リンクミス) P5 NPO、リアタイヤと予告..]
_ TUKA [続き P6 総括、リアタイヤ(リンクミス) P7 廃道あるき、林田隧道、投稿のすすめ、リアタイヤ(以上、リンクミス) 付録 P8 廃道あるき、廃道を読む、投稿のすすめ 、リアタイヤ(以上、リ..]