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2018-06-06 [長年日記]

[] デザインにかかる

帯と段割、文字級数まではすんなり行ったがその後が思いやられる。どんだけ長いねん、という内容。やはり前後編で区切るべきなのかも知れない。ちょうどよいところで目玉が出てくるのだし。

柵に使われているレールにまつわる話題を逐次的に入れ込んでいくスタイルはまったくの苦肉の策である。自分自身がレールの話題に詳しくない(俯瞰的にレール史を観るまでには至れていない)ので、聞きかじり読みかじりした「おもろい話」をその都度思い出したように突っ込んでいくしかできないのである。もし本当にレール史軌条商工史を綴りたいのであればもっと知識を練り上げた上で別の書き方をしなければならないと思う(いや自分が書くつもりは全然ない。相応しい方に相応しく書いていただかないといけない)。今回の記事はダメな例として作ってみるつもり・筋のよくないと思われる方式を筋が良くないと確認するつもりですすめている。

前後編に分けるか分けまいか悩んでいる一方で後編範囲に書き加えたりしているのは全くダメダメさんである。いい加減方向を固めないと間に合わないぞ。

[独言] 今年も落ちなかった

6月6日である。

[独言] こっちのほうがらくでいい

生半可な知識でそれらしいことを書くことの難しさを弥が上にも実感させられるような書きものがここ一ヶ月ちかく続いていてそれはそれは大変なフラストレーションなのであった。ここにぐだぐだテケテケ書いている時の気安さが恋しい。のだけれどもここに何かを書いている暇があったらげのほうを進めないといけないという切迫がそれを許さない。書く暇がないのではない。暇ならいくらでも見繕える。げを休んで書けば済む話である。そうではなく書けないのである、後ろから追い立てられているようで。我ながらバカだとおもう。こっちに書いてもあっちに書いても同じ地獄だというのにな。

パートさんの愚痴を聞いているとなんであんなに同じ愚痴を繰り返すことができるのだろうと思ってしまう。飽きてしまわないのだろうか。自分で嫌にならないのだろうか。自分だったら同じ愚痴ばかり繰り返していたらだんだんその愚痴に取り憑かれて喋るのも考えるのも嫌になってしまう。愚痴の元を取り除く、もしくは愚痴の元を忘れられるまた別の何かを考えると思う。同じことを同じ調子で同じように繰り返されるのは聞かされるほうにとってはこの上ない苦痛である。とはいえ最近はそんな愚痴を「他人事だから」と思えるくらいにはなってきた。同情したところで何も解決しないし本人も多分そんなことは望んでいない。ただ愚痴を述べることだけが愚痴の目的になっていて、そういう愚痴が世間一般でいうところの愚痴なのであり、即ちそれが世間話と呼ばれる部類の会話なのだと、この歳になってようやく解ってきたようなお子ちゃまnagajisなのであった。

結局のところ、いらいら、フラストレーション、皮肉、そいったものを他人に向けて発射するのは何の益も齎さない。世間話的愚痴話でもやめといたほうがいい。誰あてでもないこの場で虚空に向かって投げておくのが吉なのである。最上なのはそんなこと考えてないでげんこうかけってところだがそれも最近佳境続きで疲れているのであるなあ。

今年の梅雨は昨年よりも過ごしやすい気がする。日陰夜陰が涼しいのはとてもありがたいことだ。夜になったら涼しい空気に包まれるというごく当然のことさえ大阪の夏は許さない。許さない?もうちょっと他に適当な語がありそうだが思いつかぬ。それくらいには疲れている。何一つ取り柄無き身の憂さ晴らし。

[独言] レールは重い

あまりおおっぴらには書けない場所のおおっぴらには書けないレールをごろごろひっくり返してみたときに、レールってこんなに重いんだなあと実感した。当たり前なのだ。1mあたり30kgもあるんだから。2mあれば自分の体重と同じくらい、3mならそれよりも重い。至極当然の掛け算ができていなかった。いや数値としては理解できてても90kgの重さを知覚で理解できていなかった。

福知山線で散々レールを触って、その手触りからくる重量感には慣れていたつもりだけれども、その手の感じた重量感と、実際のそのレールの重さは全然違う。もしあの柵が、たとえレール1本だけでも倒れてきたら大変な目に遭うに違いない。あんな重いものをどうやって崖の上まで運び上げたのだろうと思う。あの不安定な崖の上でどうやって立てたり組んだりしたんだろうと思う。横材なんか5、6mもあるんだぜ。単純計算でも150kg以上あるわけなんだぜ。必死になって転がしたあのレールの数倍の重さがあるんだぜ。そうしてそれが何十本何百本と固まって崖の上にある。よく足元が崩れないものだ。

感覚、を理解するのは難しい。ましてやそれを人に伝えるのはもっと難しい。

そういや伊賀上野で電車を待っている時だったっけ、隣で保線作業の準備をしていて、貨車にレールを積む作業を見たことがある。硬くて微塵も曲がらなそうに見えるレールがびよんびよんとしなっていたのが、意外でもあり当然のようでもあった。この「硬さ」のイメージも掴みにくい。あれはあれで貴重な実験だったと思う。

重さの感覚、硬さの感覚、自分が知り得るその感覚の範囲は、結局のところ「自分で持てる重さ」「自分で曲げられる硬さ」が上限値になるのだろうな。あるいは「自分で操ることのできる重さ・硬さ」か。車やバイクに乗らない自分は数百キロのものが時速数十キロで動き回るという感覚を知覚できない。百キロも持ち上げたことがない故にその重さを知覚できない。せいぜい懸垂で自分の重さを感じるくらい。60数キロであんななのだから、百貫氏などはいかなる感覚なのだろうと思う。自分の体重を支えて歩くというだけでも相当な負担だと思うし、自分にはできそうにない。

[奇妙なポテンシャル] 「だし」

「~だし、~」という言い回しがここ数年で急に増えたように感じている。何故かはよくわからないが鼻持ちならない印象を受ける。これが40年前だったら確実に筒井御大が「言語姦覚」に取り上げて分析してくられていただろう。

鼻持ちならなさを感じるポイントは、前後の文の関連の無さ、よりもむしろ類似性、同じ内容のことを言い換えているに過ぎないところにあるかもしれない。多角的にものを言えるのだ・見ているのだという自慢が暗に込められていて、しかもそれを糊塗し切れていないところに鼻持ちならなさを嗅ぎとってしまうようだ。試しに「だし、」を「。」に置き換えても文意が損なわれることなく伝わる。しかもそちらのほうがすっきりしていて耳障りもよいことのほうが多い。「だし」はあくまで風味のベースであり使い過ぎると不味くなるものである。(それで旨いこと言ったつもりか>nagajis)

[独言] 指先のしびれと脚のしびれ

暖かくなってきたせいかおくすりのせいか、最近は指先のしびれにぢりぢりさせられることが少なくなった(だからこんなだらだら書いているのである)。診断の通り首と腰のなんとかいうやつのせいであるとは正直思えなかったのだけれどもやっぱり診断通りであるようだ。当たり前だど素人めが。あ、変な訛りだな。

膝下の慢性的な違和感は未だすっきりせずのままである。じっと座りつづけていられないので合間に小作業を挟みながら騙し騙し生きている。ある区分、もとい歩く分には支障がないので幾らでも出歩いてはいるがむしろそれはこのまま歩くことさえできなくなったらという恐怖心に駆られてのことである成分に因るところのほうが大きい。動けるうちにやっときたいことをやっとこうというさもしい魂胆である。いわゆる新消防大というやつである。


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