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2018-10-04 [長年日記]

[奇妙なポテンシャル] 罠山谷暗渠

わなやまだにあんきょ、と読むのだが、何故か正しく発音できない。特に連続してわなやまだにわなやまだにわなやまだにと喋ることができない。わなやなだにとかやまわなだにとかわやあななにとかやなやなだにとかになってしまう。文字に起こしても一抹の不安がよぎる。わやなあだにとかわなやまだにとかやまやまやまとか。正解が混じっていても気がつかない。困ったことである。

普段殆ど喋らないので口の筋肉が退化していると感じている。咀嚼に困難を覚えるようなことはないが喋るという行為に関しては不得手を自覚している。そのくせ独り言は多い。口を大きく開けまして、の発話が下手なのだ。多少なりとも鍛えておいたほうが旅先での聞き込みとか電話で凸とかには役に立つと思うのだがまさかそれだけのためにあえいうえおあおかけきくけこかこぱたりろとか練習するわけにも行かぬ。訳に行かないというより愚である。だったら普段の会話に役立つべく普段の会話で喋る練習をしておりさえすればよいだけの話なのである。

[][奇妙なポテンシャル] 穂村弘「絶叫委員会」(ちくま文庫)

密かに敬愛する歌人穂村弘氏のエッセイ。短歌以外の著作をじっくり読むのは初めてなのだがまったくもって共感した。要するに私が「奇妙なポテンシャル」と名付けてなんとかかんとか分析しようとしているあの違和感を、詩人の感性で端的かつ見事にことばにしてくられている。

例えば「天使の叫び」。すれ違った小学生集団のうちの一人が叫んだ

マツダのちんこはまるっこいです

という言葉に感銘を受けたという一文である。特に「まるっこい」というところに注目をしておられる。

 これが「ちっこい」とか「でっかい」では駄目だ。「ちんこ」が「ちっこい」とか「でっかい」っていうのは、現実世界における分類や価値体系のなかにすんなりと収まってしまう表現だと思う。
「まるい」でもまだ弱い。「まるっこい」の「っこい」がポイントで、ここに、なんというか、実際に手で握って確かめた実感があると思うのだ。
「っこい」には、現実の分類からはみ出して、世界の奥行きを柔らかく回復させる力が宿っている。褒めすぎだ。
(「天使の叫び」)

私がもしその現場にいてその言葉を聞いたとしたらきっと同じ感銘を受けるだろう。ちんこを「まるっこい」とする表現のしかたがあることを知りそれが素晴らしくフィットすることに瞠目して高度な奇妙なポテンシャルを見出しただろう。しかし言葉遣いの氏はさすがである。そこに世界の生命の回復をみる。世界というものが決して薄っぺらいものではなく「なんだか得体の知れない奥行きをもった場所」にしてくれる力を宿したことばと分析する。すばらしい。私には至れない境地である。

氏は別の編で、駅の伝言板に書かれていたという 次の一文を紹介して、そこに潜む「どうみても変な言葉でありながら、その全体から奇妙な真剣さが伝わってくる点」に最も興味を惹かれたと書いてある。

犬、特にシーズ犬

書いた人物の頭の中にはこの一文に達するまでに切実な思考の流れがあっただろうと感じ、「この不合理でナンセンスで真剣な言葉」を一字一句違わずメモ帳に記録したそうだ。そうしてこの一言を「天使の呟き?」とみている。生涯に一度会えるかどうかのメッセージとさえ考えておられる。この、ことばに対する執着の姿勢はさすがだと思った。私だったら「奇妙なポテンシャル」に分類しこそすれ、その絶対値を定量して書き示すことはおろか、 ポテンシャルの湧き出づるポイントを的確に指し示すことすら叶わなかっただろう。

畢竟詩句とはそういうものなのかも知れない。 画一的なことばで塗り固められた「日常」の壁を、鋭い感性と分析力で打ち砕いて、壁の向こうにあるものを切り取って持ち帰ってくることーーーことばの限界を押し広めて世界の奥行きをつくることが詩作句作なのかも知れない。ことばで世界を探検し未開の地平を切り開いて得た新たなた知見を私たちにもたらしてくれる人々が詩人であり歌人であり俳人であるのかも知れない(本のどこかにそのようなことが書いてあったように思うのだけど今慌てて探してみても見つからなかった) 。 奇妙なポテンシャルの追求もそれに似た意義があるように思われたことだった。

ならば奇妙なポテンシャルは即ち詩なのか。奇妙なポテンシャルを追求する奇妙なポテンシャリストは詩人歌人俳人と同義と云えるのか。多分違う。彼らは自ら詩歌を生み出すけれども奇妙なポテンシャリストは奇妙なポテンシャルを生み出すことはない。あくまでも日常生活の端々に垣間見える奇妙なポテンシャルを補足し分析するだけである。 日常の裂け目から顔を覗かせる見逃し難い違和感をとっ捕まえて鑑賞するだけである。徹頭徹尾受動的な行ないであって、せいぜい観察者とか観賞者止まり、それによって世界の生命が回復したりは決してしない。自ら奇妙なポテンシャルを生み出したりすれば、それは世界を混沌に落とし込む蛮行にしかなるまいと思う。あるいはただの自作自演、廃人の行ないである。


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