nagajisの日不定記。
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大手前大学史学研究所からいただいた『関西窯業の近代I』を読んでいて、ちょっと面白いことを発見した。明治36年第5回内国勧業博覧会に堺煉瓦と貝塚煉瓦が「三吋型」煉瓦を出品している(c.f.審査報告第5部巻之4・吸水率検定表)。表の他の出品と合わせて眺めると「東京型」や「並型」と同列の煉瓦規格を示すものらしい。そうして2社が出品しているということが単独社の思いつき規格でなかったこと即ち比較的流通していた規格だったことを物語っている。
3インチ=7.62センチ。これは東海道線の大津〜米原辺でよく見られる肉厚煉瓦のサイズに近い。旧桂川橋梁の下流側橋脚の異形煉瓦も厚7.6cm。このあたりが建設された頃、明治20年代〜30年代にこの厚さが流行したと推定していたが、それがどうやら「三吋型」煉瓦だったらしい。
実際、この厚さの煉瓦で堺煉瓦刻印が押されているものをいくつか検出している。例えば桂川橋梁跡で採取したnot異形の肉厚煉瓦。上新庄の異形煉瓦もそう。測ってはいないが遠目からでもそうだとわかる。
さらにいうと、瀬田で取得した井桁菱+カ、も厚7.6cmであったりする。この厚さと審査報告の記載、そして印影から、逆合算して貝塚煉瓦の刻印だと推断してもよいのではないか。
滋賀県甲賀市の杉本煉瓦工場があった在所でもこのサイズの肉厚煉瓦を多数検出する。膳所駅前の改修工事でも無刻印のこれが出てきていた。
厚い煉瓦というと山陽型煉瓦が連想されるが、これは目地込で3インチとなるよう設計されていた。三吋型は煉瓦だけで3インチあるわけだから、たぶん目地込み3・1/4インチみたいな感じなのだろう(構造物の煉瓦段数が4の倍数で作られてやしないだろうか。そこまでは合わせてないか…)。
三吋型は構造物の寸法をインチ準拠で作れるほかにどんな利点があっただろう。東京型や並型に比べて煉瓦1個の容量が大きいわけだから、同じ大きさの壁体を作るのに使用するモルタルの量を少なくすることができる。それから煉瓦の個数を減らすことができる。個数が減ればそのぶん「少ない手数」で積むことができる。煉瓦構造物の建造の手間は大部分が「積む作業の手数」なんじゃないだろうか。例えばの話、小まい煉瓦を4000積む必要があるところを3000で済むのであれば1000回の手間を節約できるわけで、これはかなりの利得だと思う。持ち上げて移動させてモルタル塗って乗せてという手間×1000回を減らせるのだし。少し重いので積む方はちょっと大変だったろうけど。
作る方の利点は。粘土の量が1.5倍ほど必要になるが、材料費増はたかが知れている。その一方で「手数を減らせる」という利点をウリに割高にすることはできただろう(高くしないと利益増にはならぬ。納入個数は減るのだからその分価格を上乗せしておかないと苦労し損だ)。焼いたり乾燥させたりするのは結構難しそう。厚い煉瓦をきちんと乾燥させ、火を通さねばならず、普通の感覚でやったらうまくいかないと思う。
堺煉瓦と貝塚煉瓦はキシレンや大阪窯業と比べて煉瓦1個の単価が安めに設定されていた(確かM34大阪府誌)。岸大の後塵を拝していた中堅会社。品質では負けるからそれなりの苦労をしたと思われ、その一つが三吋型なのかも知れぬ。
大高庄右衛門が煉瓦規格の統一を訴えたのは第5回内国勧業博覧会の2年後、明治38年。http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20180822&参照。この論文のなかでは三吋型というのは出て来ない(そのかわり「独逸型」が一時流行し廃れたことが書かれてる。これが三吋型なのかどうかは不明。ドイツの煉瓦は3・1/4だったか2・3/4だったか、ともかく端数があった@実地土木工学←検索窓で「各国 煉瓦」検索のこと)。鉄道構造物でも30年代後半からは肉厚煉瓦が現れなくなる。