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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1943-03-29 高千穂丸遭難 この日を編集

[陸幼日記]三月二十九日 月 晴

佐賀に比し熊本の寒きに驚く。午前は九・〇〇帰校申告ありて、後に田代皎大尉殿(東幼三十五期・佐賀中学出身)の命課布達式あり。大尉殿は四十七期三訓、児玉生徒監殿は四十六期三訓となられたり。後校長訓示あり。昭和十八年度に於ける夫〃の方針及覚悟につき。田中真美は次期編入を命ぜられたり。他は随意、午後は愛校作業にて舎の周囲をなす。一向〔只管〕に独乙語をなす。夕に至り風を加え雨を共〔伴〕う。未だ休暇が思われて漸くたてる一日は愉快ならず。良好。高千穂丸遭難状況を承り僅か四分間にて沈みし故渦に間にあわずして巻き込まれたらなんと。松浦も十分八九生きある見込みなしと。元気なりし松浦が次々と思い出されて寂しき感に打たれたり。

〔nagajis:高千穂丸は1943年3月17日米潜水艦の雷撃を受けて沈没。他に東幼・広幼の生徒も乗船していた〕


2010-03-29 この日を編集

波瀾万丈の人生を送っている。この年にしてようやく人の生らしきものを生きている。感謝。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ とと [↑などと地震で前後閉塞した和歌山県某廃隧道内からつぶやいてます。とかは止めてくださいよ(笑)]

_ nagajis [大丈夫! nagajisには呟く相手も携帯もありませんっ!]

_ Bee [まぁなんだ、呟きに相手の有無は関係ないんだな。。。 などと呟いてみる。 どうせならツイッターに書けよ。俺。Orz]


2011-03-29 朗報 この日を編集

めっさフル回転。ずびずびずばば、ずびずびずばば、うちゅうーのはーてーのー、とか歌いながらキー叩いてマウス弄んでる。一息ついたところだがやらなきゃいかんことは山積みなのよねぇ。

TUKA氏より打電。数日中に復帰とのこと!

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ tyaffic [〇△□]

_ bnb206 [朗報!\(^o^)/]

_ nagajis [原稿チェックももらいましたので、修正版お待ち下さいませ。]


2013-03-29 この日を編集

[近遺調][近代デジタルライブラリー] 吉野村上水道籠池

「道路の改良」第19巻第5号(昭和12年5月発行)「最近内務省に於ける路政関係行政処分例」に,3月31日付で上水道溜池建設費の起債が認められている.起債額10000円.籠池の建設に関係するものだろう.

このコーナーには国道の改修開始・終了の告示,指定府県道の改修の告示なんかもあったりする.この頃の国道改修を厳密に追いたい場合は役に立ちそうだ.

[道路考古学][近代デジタルライブラリー] 指定府県道の改良の例

新潟県土木季鑑. 昭和14年版より.新潟県の例.

(その一)指定府県道改良事業

(前略)然るに政府は昭和十一年度に於て,国家的見地から全国主要府県道の改良を企画し,地方産業の開発並に軍事上其の他特殊の事由に依り,其の新設改築を必要とするものに対し工事費の三分の一を補助するの計画を樹て,本県には二十七万六千円の事業費が割当られたのである.而して之が改良の標準としては一,指定府県道の改良なること,二地方更生産業振興上有効適切なる工事なること,三,一連の工事費三万円以上のものなること,四,改良規格は道路構造令の規程に該当するものなることの要件を必要としたのである.
以上の採択標準に則り計画せられたものは,新津,新発田線外五線で引続き昭和十二年度七線十三年度には四線と政府補助のもとに順次改良工事を施しつつある.而して高速度交通機関の発達に因り要求せらるる道路改良の急に応じ其機能を十分に発揚せしめ,之を産業方向の進展に利用することによって,県民経済の発達を阻止している現下の状況を排除することは最も緊要の事項と思慮せらるるのである.

[道路考古学][道路元標][近代デジタルライブラリー] 田中好による道路元標の説明、あるいは否定

「道路法の田中か、田中の道路法か」と言われたほど(旧)道路法成案に深く関わった田中好による解説を発見。「道路法」道路改良会刊、大正14年発行である。

要するに田中の考えていた道路元標は国・府県道の起終点を明確にするためのものだった。府県庁等の所在地を国・府県道の起終点とする場合、その起終点を道路元標に採るべきことは道路法施行令第八条で定められているが、T8の公布時には郡道もそれに準じる扱いになっていて、なおかつ郡道は町村役場を起終点とすることが予想されたから、同令第九条で「各市町村に一個を置く」と定めていたのである。

けれどもT11に郡道が廃止されたことで町村役場を起終点とする郡道が無くなってしまった(あるものは府県道になったが、あるものは町村道に格下げされた)。なおかつ府県道は町村役場を起終点とすることを想定していなかった(府県道の資格標準にないからな)。結局、各市町村に設置したとしても国・府県道の起終点を示す用途に使われない道路元標が生じてしまうことになり、そういうところにわざわざ元標を設置するのは無駄なことであるから「第九条はそのうち改正するべきだ」とまで言っている。あの田中が。

(ニ)道路元標 府県庁,師団司令部,鎮守府又は郡市役所の所在地を国道又は府県道の起点終点と為すときには其の道路の起点又は終点は其の市町村の道路元標の位置に依らなければならぬ(道路法施行令第八条)其の道路の起点たり又は終点たる位置を表示するに必要な設備である,従て府県庁,師団司令部,鎮守府又は郡市役所の所在地に達する,国道又は府県道は必ずしも府県庁,師団司令部,鎮守府又は郡市役所の存在する地点に達するものでなく道路元標のある位置に達すればよいのである,而して道路元標の位置は,路線の位置を示すものなるが故に,道路の中心に之を定むることを要し其の位置は府県知事に於て指定するものである,唯だ東京市に於ける道路元標は日本橋の中央を以て其位置とするのである(道路法施行令第八条)
 道路法施行令第九条は各市町村に道路元標一箇を置くことを規定したるも,各市町村に必ず設置する必要あるや否やは大に攻究を要する問題である,府県庁,師団司令部,鎮守府又は郡市役所の所在地を,国道又は府県道の起終点と為したる場合に於て設置するのは格別であるが,然らざる場合には畢竟 形式行政の便宜の為に設けられたものであって,町村役場の所在地を起点又は終点とする郡道の廃止せられたる今日に在りては,多額の費用を投じて之を設置するの必要がない何れ是等は改正あるべきことと信ずる.
 道路元標の様式は,大正十一年内務省令第二十号を以て規定され,石材其の他耐久性材料を以て築造することを要しその様式を示して居る,其の元標は道路の起点又は終点たる位置を表示する為,道路に面し道路中心線の最近距離に於て路端に建設することになって居る,道路元標は之を必要とする道路管理者に於て建設するを原則とし,等級を異にする道路が,その元標を併用する場合に於ては,上級道路の管理者が之を建設することを要するのである,従て建設したる道路管理者の管理する道路の附属物となるのである.

道路法を起案した本人が「要らんかも」と言っているくらいだから、設置が遅れてもとやかく言われなかっただろうし、全市町村漏れることなく設置されたわけでもなかろう。そうして第九条は改正されることなく戦後を迎え、国・府県道に関与することのなかった道路元標の多くは設置されないままで終わったに違いない。

国・府県道の起終点を示すことが道路元標のレゾンデートルと目されていたなら、橿原道路元標の存在も自然と納得される。橿原神宮を起終点とする府県道が一度に複数生まれたため、その起終点を示すために元標が必要だった。というよりも、府県道を橿原神宮に結びつけたいがために橿原元標を設置したのだ。法の曲解ではなくガッチガチに遵守するための落とし所だったわけである。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/22-05-0015.pdf


2014-03-29 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #336

流行りものに手を出さないくせに、世間から忘れられた頃になっても頭から離れないものが多く、どうしたものか、と思う。

アガリスク

などはそう。不意に思考の中に浮かび上がってくるうえ、その言葉尻だけから判断して、

血圧が上がるリスクを有する何か

だと連想してしまう。「茸」なのを未だに知らない。

無駄な思考の連鎖を食い止めるよい方法はないものか。それこそドコサヘキサン酸か何か摂取したほうが良いのかも知れぬ。

[納得がいかない] 安直なネーミング

納得がいかないものを列挙していくと自分の頭の硬さがわかる気がしたのでやってみる。

安直なネーミング、未だに馴染めない。 例えば「まとまるくん」。消しカスがまとまるので摘んで捨てられて便利という消しゴム。その機能は便利かも知らぬが「まとまるくん」はないだろうと思う。安直すぎやしないか。そのうえ言うほどまとまらないし。ゆるキャラの名前も腑に落ちない最たるもの。「ひこにゃん」は確かに可愛いが「彦根のにゃんこ」だから「ひこにゃん」というのは安直すぎる。その安直さのくせに人気者なのがまた納得がいかない。

そういう安直なネーミングは消費者を馬鹿にしてるんじゃないかと思う。難しい名前つけたらお前らわかんないだろ。覚えられないだろ。そんな憐れみ目線が読み取れる。してまたそんなネーミングじゃないと売れないらしいのがなんともだ。

というところまで書いて、我が身を振り返ってみて、いろんな角度からブーメランが帰ってくる気配を感じた。まあいいか。そういうのに気づくためのカテだ。

名前をただの識別子と割り切ることができたら楽なんだけどな。世の中がすでにそうなっているのかも知れない。名はなくても存在するものだってあるぜ。

[独言] ちぇ

ちとコーヒーを飲み過ぎたようだ。さっさと寝てしまいたいのになあ。


2016-03-29 この日を編集

[煉瓦刻印][由良要塞] 五本線(○つき)

煉瓦刻印 五本線○

煉瓦刻印 五本線○拡大一見堺煉瓦のように見えて違う刻印。工場記号の放射線が一本なくなったような感じ。採集例がこれ一つなので何とも言えないのだが生石山第三砲台の建設された頃には堺煉瓦なかったしなー。

[煉瓦刻印] 大阪窯業+「子」+釘

煉瓦刻印 大阪窯業刻印 添印「子」と釘

大阪窯業手成形の例。「子」が使われているということは少なくとも作り手が20人いたことを示している。あと、小口前で押されているのがポイント。ずいぶん前に上げた岡町住宅地の「改」つきは長手前だった。

「改」は改良ホフマン窯だとしても、釘は何やろね。作業者の識別のためならすでに「子」がついてるわけだし。鉄板を打ち出して刻印にしたのを板に打ち付けてたとか、そんな感じの適当な作業痕なのかも知れない。「子」と大阪窯業マークと釘との間隔がどの煉瓦でも同じなのかそうでないのかで判断が変わると思う。


2018-03-29 この日を編集

[古レール] ドツボにはまるDARLINGTON

画像の説
明EXCELで整理をしているうち、

DARLINGTON IRON CO LIMD 71 IRJ

と読める一本があったことに気づいて困っている。しかも平底レールである。

Darlington Ironは1872年に株式会社になったとGRACES GUIDEにも書かれてあって、実際 CO 71 の双頭レールも見つけてあるし、その納入先はIGJRだし、73・74の平底は皆 CO LIMD であった。該レールも1の縦棒の脇にちょこっと塊がついていて、4の左半分が朽ちたように最初は思ったのだけれども、いろんな角度から撮った写真を観直しているうちにわからなくなってしまった。74の7と4の縦棒との離れ具合いと違う、つまりは7と1を続けて刻んであるようにも見えるし、やっぱり4の左半分が欠けただけのようにも見える。

宜しくドツボである。 画像の説明

私は学者でないので適当を言う。もし現物が確かに71であったとしたらどうだろう。1872年にLIMITEDになったという情報が間違いで、1871のどこかでLIMD.になって平底レールを作り始めたんだったら、それはあり得る。71ではなく74であれば何の擾乱も起こさずに済む。

GRACE'S GUIDEには1872 の”recently”にペンデルトン工場にベッセマー炉を作りDarlington Iron Company Limitedを設立したあるんだな。原文嫁。レジストれ。しかし今日はもう疲れた。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ TAKATAKATAKA [衝撃的な新発見だぞ、わーい。]


2019-03-29 この日を編集

[煉瓦] 「三吋型」規格

大手前大学史学研究所からいただいた『関西窯業の近代I』を読んでいて、ちょっと面白いことを発見した。明治36年第5回内国勧業博覧会に堺煉瓦と貝塚煉瓦が「三吋型」煉瓦を出品している(c.f.審査報告第5部巻之4・吸水率検定表)。表の他の出品と合わせて眺めると「東京型」や「並型」と同列の煉瓦規格を示すものらしい。そうして2社が出品しているということが単独社の思いつき規格でなかったこと即ち比較的流通していた規格だったことを物語っている。

3インチ=7.62センチ。これは東海道線の大津〜米原辺でよく見られる肉厚煉瓦のサイズに近い。旧桂川橋梁の下流側橋脚の異形煉瓦も厚7.6cm。このあたりが建設された頃、明治20年代〜30年代にこの厚さが流行したと推定していたが、それがどうやら「三吋型」煉瓦だったらしい。

実際、この厚さの煉瓦で堺煉瓦刻印が押されているものをいくつか検出している。例えば桂川橋梁跡で採取したnot異形の肉厚煉瓦。上新庄の異形煉瓦もそう。測ってはいないが遠目からでもそうだとわかる。 画像の説明

さらにいうと、瀬田で取得した井桁菱+カ、も厚7.6cmであったりする。この厚さと審査報告の記載、そして印影から、逆合算して貝塚煉瓦の刻印だと推断してもよいのではないか。 画像の説明

滋賀県甲賀市の杉本煉瓦工場があった在所でもこのサイズの肉厚煉瓦を多数検出する。膳所駅前の改修工事でも無刻印のこれが出てきていた。

厚い煉瓦というと山陽型煉瓦が連想されるが、これは目地込で3インチとなるよう設計されていた。三吋型は煉瓦だけで3インチあるわけだから、たぶん目地込み3・1/4インチみたいな感じなのだろう(構造物の煉瓦段数が4の倍数で作られてやしないだろうか。そこまでは合わせてないか…)。

三吋型は構造物の寸法をインチ準拠で作れるほかにどんな利点があっただろう。東京型や並型に比べて煉瓦1個の容量が大きいわけだから、同じ大きさの壁体を作るのに使用するモルタルの量を少なくすることができる。それから煉瓦の個数を減らすことができる。個数が減ればそのぶん「少ない手数」で積むことができる。煉瓦構造物の建造の手間は大部分が「積む作業の手数」なんじゃないだろうか。例えばの話、小まい煉瓦を4000積む必要があるところを3000で済むのであれば1000回の手間を節約できるわけで、これはかなりの利得だと思う。持ち上げて移動させてモルタル塗って乗せてという手間×1000回を減らせるのだし。少し重いので積む方はちょっと大変だったろうけど。

作る方の利点は。粘土の量が1.5倍ほど必要になるが、材料費増はたかが知れている。その一方で「手数を減らせる」という利点をウリに割高にすることはできただろう(高くしないと利益増にはならぬ。納入個数は減るのだからその分価格を上乗せしておかないと苦労し損だ)。焼いたり乾燥させたりするのは結構難しそう。厚い煉瓦をきちんと乾燥させ、火を通さねばならず、普通の感覚でやったらうまくいかないと思う。

堺煉瓦と貝塚煉瓦はキシレンや大阪窯業と比べて煉瓦1個の単価が安めに設定されていた(確かM34大阪府誌)。岸大の後塵を拝していた中堅会社。品質では負けるからそれなりの苦労をしたと思われ、その一つが三吋型なのかも知れぬ。

大高庄右衛門が煉瓦規格の統一を訴えたのは第5回内国勧業博覧会の2年後、明治38年。http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20180822&参照。この論文のなかでは三吋型というのは出て来ない(そのかわり「独逸型」が一時流行し廃れたことが書かれてる。これが三吋型なのかどうかは不明。ドイツの煉瓦は3・1/4だったか2・3/4だったか、ともかく端数があった@実地土木工学←検索窓で「各国 煉瓦」検索のこと)。鉄道構造物でも30年代後半からは肉厚煉瓦が現れなくなる。


2024-03-29 この日を編集

[][近代デジタルライブラリー] 清水鐵吉「東海道筋並京都大坂巡回記事略」(『工学会誌』第57号)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1528093/1/455

明治19年4~5月に西尾士族生産所を見学した記録があり、この中で生産所が鉄道局御用の煉瓦を製造していたこと、その寸法が 9 x 4-1/2 x 3 in であったことが明記されている。3インチ規格の寸法を明示した数少ない記録。つーか現時点では唯一。鉄道局側にもそれを書いたものはないのだ。

偶々見つけたこの資料で知りたかったことの多くを知れた。街なかで意図せず刻印煉瓦に出会った時のようなうれしさありがたさ。


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