nagajisの日不定記。
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でけえ。こんだけでけえの作るんだったらたしかに現地工場が要るだろう。と納得したあと綾部まで沿って行ったのだが和知辺から大阪の煉瓦が混じってくるという不思議現象を確認する結果に。下和知村の現場工場も見つけられず。どういうことだ、現地生産したんちゃうんか。
綾部から1560えんで帰宅できる裏技を発見し、よっしゃこれなら舞鶴行き砲台もとい行き放題とか思っていたら、舞鶴までいくと長距離割引のほうが効いてきて福知山線経由でGOとそんなに変わらないのであった。
秘蔵資料「煉瓦価格推移.xls」によれば明治40年初頭に突然煉瓦価格が高騰して以前の1.6倍近くになってる。現地工場ができたのはその年の5、6年頃。市場価格があんまり高くなったものだから現地でモゴモゴ…しかし煉瓦の質があれで在庫をかき集めてゲフンゲフン。
煉瓦工場がまだ珍しかった明治20年、現大正区の新田開発に功績があった岡島嘉平次を社長に戴き、 「大阪」の名を冠して創業した大阪煉瓦株式会社。統計書には毎年必ず顔を出していて、名に恥じぬ経営をしていた節があるのだが、他の工場同様操業の態がまったく記録に残されていず、無論どんな刻印を使っていたか(あるいは使っていなかったか)もわかっていない。そうして明治30年を最後にぷっつりと姿を消す。
そんな工場の消息を、先日の古新聞読みで捕まえることができた。第4面ちうと情死とか親殺し子殺しとかいった三面記事的記事が埋めている面なので読み飛ばすことが多いのだが、たまたま投げた視線が「煉瓦」の二文字に引っかかって、探していた記事だと気づくことができた。
●大阪煉瓦株式会社の出火
西成郡川南村大字炭屋にある同社は終宵夜業中昨日午前二時頃火夫が不注意にも煉瓦石焼窯へ過度の石炭を投入せし為め火力非常に強大となり窯の空気抜の蓋終に破裂しそれと同時に炎々たる火焔は工場の天井を焼抜きて見る見る内に一面の火となり折しも西北の強風無遠慮にも之を煽り立たりしかば何かは堪らん同社敷地惣坪数三千五百二十五坪に対する四百二十五坪の惣建物を物の見事に焼尽して悉く烏有に帰せしめ尚余火施て近隣三戸を全焼し半焼一戸に至って四時三十分頃鎮火せしが同社の損害見積高四千百余円に及べりという其他此火災の為め大方ならぬ迷惑を蒙りしは同社に近接せる千島避病院にて目下百名に近き天然痘患者を抱えし事といい(略)幸いに同院は類焼を免るるのみならず患者を立退しむるに至らずして止みたりとぞ
(大阪毎日新聞明治30年1月24日 4面)
明治30年の統計書(30年12月末現在のデータ)にはまだ大阪煉瓦の名があるので、この火事が同社をsudden deathしたわけではないようだが、廃業解散のきっかけになっただろうことは想像に難くない。そんな終わり方だったことも筆記記録に乏しい理由の一つかも知れぬ。地元発展の恩人の会社となればなおさら書きづらかろう。
大阪煉瓦(株)がどんな煉瓦を作りどこに供給したのかは非常に興味がある。この頃作られた近代建築於大阪はことごとく残っていないし、由良要塞でもその規模に見合うような未特定刻印はない。せいぜい五光丸と細★くらいで、大阪煉瓦と仮定するには数が少なすぎる気がする。どっちも九州で見つかってたりするけどさ。
市街地で見ていたのに気づけていないだけかも知れぬ。明治20年代の煉瓦を転石として検出することは全くないわけではないから(若井煉瓦とか堺附洲とか関西煉瓦とかさ)、無刻印のそれを見て見抜けなかったという可能性は十二分にあるだろう。