nagajisの日不定記。
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私にとって平成は「現実」だった。夢も希望もない、望みのとおりにはならない、抗えない「現実」。昭和にはもう少し何かあった気がする。
令和にはもう少し夢を見たい。 一日経ったからって新しい時代が始まるとは思えないけど、希望くらいは持ちたい。が、その前にこの語を単語登録するところから始めないといけないようだ。
M30の古新聞読み2回目として府立中央へ。前回拾い切れなかった3月末を見た段階で大和煉瓦の操業開始広告に遭遇し「山ト」の社章を得た。工場跡で採取済みだし分布もそのように言っている刻印だから今更感はぬぐえないが、駄菓子可視文献による裏付けがあるのとないのとでは雲泥の差であるだろう。これで探索をCLOSEDできるというのも心安くていい。淡路のあの工場のことは棚に上げてそう思う。
予想通り津守の認可告示が見つかったが社章はなかった。もう少し後かも知れぬ。かわりに中河内煉瓦の社章を得た。工場が稼働していたかどうか(刻印に使ったかどうか)はわからないが・・・。なにしろM30は前年6月からこの6月まで20幾つも煉瓦会社が出来上がったという年。継続して操業したのはそのうちの半分もない。
この、明治30年のパンデミックは、ずっと日清戦争の影響かと思っていたけれども、大阪毎日の記事は大阪築港との関連を指摘している。どうやらそれが正しいようだ。
その後東大阪の旧村を歩いてみることにする。東大阪は明治年間を通して広大な耕作地帯だった。そのなかに砂漠におけるオアシス、あるいは宇宙のなかの銀河星団のごとくにぽつりぽつりと村落があった。その村落を繋いで歩いてみることにしたのだ。そうして確かにそんな旧村落のエリアには古煉瓦がある。
菱江ではこんなのを見た。見慣れた日本煉瓦の花形刻印……と思いきや花形が線描になっている。通常は花形全体が陰刻で、その底にさらに英数字やら漢数字やらが陰刻されている。そうでないパターンは初めて見た。
同所の岸煉刻印も地味に興味深い。手成形煉瓦裏面の筋の部分にでかい×印が押されている。筋がついた上から押してある、つまりは作業の前後関係が読み取れる刻印である。
岩田町は思いのほか古く広かった。最近は三津浜煉瓦と認識しつつある大型の三本線刻印。小口幅が10cmを下回る小さめの煉瓦だった。
そこからさらに西の方へ歩いて行ったら、いつのまにか司馬さんちの辺りに到達して、そこで岸×泉に出会うことができた。旧版地形図の頃からある集落ということだけを目印にして歩いて行ったら偶然に遭遇したのだった。
下小阪では”○ウ”も検出。大阪城本丸、桜ノ宮駅に続いて三例目、ということでカテゴリーを新設しておくことにする。