nagajisの日不定記。
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何があってもなかっても。何もない一日をさみしいと思わず何もない一日と認識するのみのがよい。
大阪でもどんどん罹患者が増えている。一時期の落ち着きは何だったのか。そうして相変わらず無縁な私。この世の中のどこで流行しているのかという気がする。夜のお店にも満員電車にも縁のない私。
最近らじるらじるで更級日記の解説を聞くのがマイブーム。あの手の古典文学は高校の時に問題で断片的に読む程度だった。勉強する対象みたいな印象。感情移入のできないどこか遠くの国のおはなし、みたいな印象。でも、懇切丁寧な解説のおかげで作者の意図とか機微とかが知れてなるほどなるほどと頷いてばかり。女性が月を見るのは不吉とされていたとか、月光に照らされるのはよくないことと考えられていたとか、ここは源氏物語のどこそこの条をモチーフにしてるとか、そういう背景を知っていて初めて趣がよくわかるものなのだと知った。はしるはしる。
藤原孝季女って今で言う喪女だよね、ワナビーな女オタクだよね。うんうん。たぶん一億万回以上言われていることだろうけれど。でもまあ後には結婚して子供もできて普通の人生を歩めるようなのでよかったじゃないか。
時系列を整えれば、いまの日本人は平安時代の人間とあんま変わんないってことになりそうであるが、楽して生きたいとか空想の世界に生きるとかは人間という生き物に普遍の性質であって、千年万年経っても変わらないのかも知れない。そう願いながらそのように生きることができないのも。
何のために生きているのかを考え始めると最終的には闇に呑まれてしまいがちなので、何をして生きれば自分は満足か、を考えるようにしている。何をしたら楽しいか、ではなくて。楽しいことを追求するのも行き先は崖だ。崖の上だったり崖の下だったりで結局は行き止まる。その崖をよじ登ったり這い降りたりするのもいいかも知れぬが大変だ。それに費やす時間があったらもっと他のことに使いたい。
「マスクをしなければ罹患する可能性があります」
「マスク着用によって熱中症にかかる可能性があります」
「可能性」。どうもあまり好きになれない言葉。間違ってはいないが免罪符か何かのようになっていないかと思う。そりゃ、可能性はゼロにはならない。全く安全、心配いらないとは言えない。そうなることが起こり得ることに思いも及ばないひとに対する注意喚起にはなる。なるだろうけれども、なんかもやもやする。
「ORJが爆売れする可能性がある」。文法的日本語的には間違いじゃない。だがその可能性は限りなく限りなく小さい。九十九里浜のどこかに落としたピアスの片方を見つけるくらい小さくて、ほとんどゼロとみなしてよい。だがゼロと言い切るには寂しいので「可能性がある」と言っておく。そんな使い方が世の中に横行している気がする。
そうして人は「可能性がある」の部分を、誇大解釈なのか意図的なのか、はたまた無知の賜物なのか、無視しがち。「マスクをしなければ罹患する」「マスク着用によって熱中症にかかる」と理解する。1/10000の可能性に一万をかけて1にしてしまう。よってマスクをしなければ不安になる。旅に出なくなる。どころか、他所から来た人を病原菌扱いして忌避する。そのくせ世の中は後藤トラベルである。
GoToトラベルという発想自体は悪くないと思う。そうでもしなければ地方が死ぬからだ。可能性はあくまで可能性であって必然ではないと、きちんと理解している人の発想の所産である。そうしてそれと「一般」の解釈は合わない。噛み合うはずがない。
仮にすべての可能性を数字で示すことができたとしても、例えば0.001%の確率で罹患すると言うことができたとしても、わずかでも可能性がある限り、それは100%にされてしまいがち。人が賢くなり、さまざまな想像ができるようになり、起こり得ることをあれこれと列挙できるようになればなるほど、可能性に縛られることになる。雨に濡れたら風邪を引くとは思われていなかった。体温を奪われ自律神経が乱れているときに病原菌を得て風邪をひくことがある、と考えられるようになって初めて「雨に濡れると風邪を引く」ことになる。故に昔の人は雨に濡れても平気だった。その後の対処法を知っている。
トイレットペーパーが品薄になる可能性があるから買い溜めをする。隣国に侵略される可能性があるから武装する。将来の一大消費地になる可能性のある地域が他所の国に取られてしまう可能性があるからこっちから戦争を仕掛けてやる。みな、可能性に踊らされている。
可能性にゼロを乗算する回路でもあればいいのに。除算してundefinedでもいいんだけれど。後者のほうがいいかな。