nagajisの日不定記。
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3度固まり一度は復帰、一度は席移動で継続。三度目に3/31を見ようとしてまた固まり諦める、うえに複写申請に書き漏らしがあって日付がわからんのが出てきた。ビッグシット。
M24の1月だったかに国会議事堂が焼失し、それに関する話題が多く出てくる。といったようなことを書いたほうがなんぼか意味があるかも知れない。はじめ電球が火元ではないかと報じられたため、大阪電燈や電球製造会社が「電球は安全です」という広告を何度も出している。内務省技師がその説を否定したという記事もあったりした。見た範囲では火元が特定されたという報はない。
確かに電球が火元になることは稀だ。そばに可燃物があって熱的影響を与えて火事になったということはしばしばあるが、確かこの記事では割れた電球が漏電して云々というものだったと記憶する。
今の時代に生きる私たちには そういうことはないと言えるだけの知識がある。大慌てで火消しに走る会社広告を鼻で笑うような心もある。でも、私たちの知識は過去の歴史の蓄積のうえに成り立っているわけで、その知識でもって過去を嗤うのは物識らずであり滑稽であるだろう。数年後数十年後、 新型コロナウィルスの根本的対処法が確立した頃になって西暦2020年を振り返り「○○○○もなかったんや」「なんで△△△せえへんかったんやろ」「マスクとかw」と訝りあるいは嗤いするようなものである。
似たような知ったかぶりの解釈はいろんなところで同時進行中である。「勝てるはずのないアメリカに戦争を仕掛けたのは愚」「坂本龍馬が暗殺されていなかったら日本はもっと良くなっていた」云々。違う。様々な要因が複雑に絡み合って身動きできない状態になったからそうなった。そうなったから今の私たちがいる。それが必然だったとか運命だったとかは言わない。過去の結果である。今の私たちが今の世の中をお気に召さなければ、歴史に学んで、参考にして、それに立脚して未来を望む方向に向けていく努力をすればよいだけである。
いま日本には「いま」を生きるだけの人間であふれている。世の中をこのように変えていこうという見通しを持ち、かつ実行する人は稀だ(どちらか一方だけはある、という人物はないでもない)。自分さえ良ければ、自分さえ楽しく生きられればいいという一般市民ばかりではあるまいか。だとしたら現状維持が関の山かも知れない、一億六千万人ぶんの「自分さえ」の最大公約数は限りなく小さく、ベン図の重なりは芥子粒ほどもないに違いない。
自我というものが、よくわからない。辞書的な意味はわかるのだけれども、それを自分にあてはめて考えた時に、一抹の不安を感じてしまう。自分と自分以外を区別できる能力だとすれば幼稚園以前からあった気がするのだが。
自分のために何かをするというのが下手である。飢えて死ななければそれ以外はどうでもよいと思っているところがあって、着飾ったり自己の主張を主張したり人に誇れる高価なものを手に入れたいという気が起きない。もちろん捨て鉢な生を生きているつもりはなくて知りたいことを知れた時の喜び、疑問が解決した時のうれしさは何物にも替え難いと思っている。それさえあればいいと思っている。加えて知れたことをアウトプットできればなおさらいい。溜め込むのは好きではない。
華やかなスポットライトを浴びて生きていた人が、急にライトを浴びなくなった時、どれだけ不安になることか想像してみたりする。注目を浴びている自分がほんとうの自分だと思っていたら、そしてその注目が極度に高いものであったら、そうでなくなったときのに感じる差は相当に激しいに違いない。誰一人私を知っちゃいないと気づいた時の焦燥感は有名人でも何でもない自分ですら苛まれることがある。不安である。でも、誰にも知られていない自分が本当の自分なのだと気づきさえすれば何ということもないのであった。ゴミの山に埋もれて死のうが崖から落ちて卒しようがこの世の中に対して何ら影響を与えない。気楽でいいではないか。