nagajisの日不定記。
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服装検査なく、以後十四時に至る間独逸語図画をなしたり。為に頭ぼんやりとなりたり。休日はやりたくなし。集会所へ行きても面白からず、何を行いても面白からざる日なりき。独逸語はやれば面白きものなり。其れをなさゞりし事は残念なり。
午後菊池会。詫磨ヶ原に全軍を東西両軍に分ち行く。着きてより下川生徒監殿及び池田教官殿の話を聞く。主に武朝公のこと。及び菊池精神に付き。幕舎構築・飯盒炊事をなし二十時より競技場にて会食。折しも月上る。二十二時就寝。
菊池氏実に忠誠無二の彼の精神愈〃是に慕いて赤誠を固めん。
サポートボードが大騒ぎになっている。今回はかなり広範囲に影響があるようだが。幸いなことにウチは問題なさげ。一日中FTP接続していたしな。
hotmailにメールが遅れるよう、根元から修正を加えているのだが・・・いくつかミスって御迷惑をおかけした方が何人もおられるはずだ。申し訳ない。こればかりはサーバの問題にあらず。
根元の修正に乗じて、懸案の「購読のてびき」書き直しも行なっている。文章もひどいが流れの方向性がおかしくなっているようだ。
変更方針
できるだけ仔細に書いておくという方向性をやめ、読者登録から実際にpdfを手にするまでの流れを俯瞰できるようにするのを最優先。詳細は以下クリックで。
なので絵で。
朝を待つ間の時間潰しに簡単な報告をかいてみる。
今回の見学会は鉄道中心。何てったってあのOさんが案内して下さるのだから。事前調査ですごく詳しい資料を作って下さっていて有り難いこと限り無し。これと比べると廃道巡のnagajisの栞なんてやっつけ仕事だ。
いきなり脱線した(鉄道の見学会だけに?<だから脱線するなと)。最初は南海浜寺公園駅。明治時代に作られた希少な駅舎だとは知っていたが辰野金吾の設計だとは知らなかった(甘。ただいま高架化工事が進められていて、現位置から移動させられることになっている。あ、詳しいことはヌキにしてnagajisの「へー」だけ書きますあしからず。
浜寺公園駅というからには浜寺公園の入り口になるわけで、その浜寺公園にも立ち寄った。明治6年に大久保利道利通の一言から始まった海浜公園整備事業。最盛期には一夏百万人が訪れたというほど有名な観光地だった。ゆえに足となる鉄道も複数作られて、例えば南海があり阪堺電鉄があって、壮絶な旅客争奪戦が繰り広げられたのだそうだ。
これともう一つ、昭和11年(だったっけ)から18年まで存在した幻の一線があった。孝子街道沿いに作られた軌道が公園の北端に乗り入れていたのだそう。「跡はなあんにもありませんけど…」というお言葉通り何もなかったがそういう見えない遺構は大好きだ。松林がそこだけポッカリあいていて、確かに駅舎か何かがあったように感じられる。
南海駅に戻って中の見学。Oさんはレール研究の第一人者なので古レールに関するいろんな発見をさせていただいた。例えば浜寺公園駅には路面電車で使われていた溝付きレールを流用した架線柱があると教わった。nagajisは実物を見るのが初めてなので結構嬉しかったり。溝付きレールはすべて外国からの輸入ものだったという解説もへぇボタン50回くらい叩きたくなった。量が捌けないから自前で作るより外国から買ってきたほうが安かったのだそうだ。
この駅には他にも古レールが沢山使われていて、刻印が読めるものは1897、1898年のCARNEGIEを中心にいくつもある。当時の南海の社長がカーネギー氏に傾倒していて、そのせいでCARNEGIEが圧倒的に多いらしい。へぇ〜へぇ〜へぇ〜。
KINIAS見学会は1人じゃ入れないところに入れてもらえることが多いのが魅力(と勝手に思ってる)。この日も普段入ることのできないホーム(今は退避線になっている)へ入れてもらえた。このホームは今の駅舎が作られた時からあるものだそうで、当時はあまりにお客が多いせいで浜寺公園始発の電車というものがあり、それがこのホームから出ていたのだそうだ(であってるかな・・・うろ覚えで書いている)。ホームを横から見ると当時の石組みが見え、それは当時南海が初採用した床高電車の床の高さと同じであるらしい。
もう一つ、見学会の魅力は大勢で批評できること。ゆえにいろんな発見がある。写真のプラットフォーム屋根の構造もそう。一見なんでもないアングル構造なのだけど、L鋼は中央のガセットプレートや古レールのガセットとはリベット1本だけでつながっていて、いわゆる剛接合にはなってない。すなわちここがヒンジの役割をして、自由度の高い構造になってる、という指摘が参加者からあった。屋根が風に煽られても応力が逃げる(古レールがたわめる)構造なのだ。浜に近いから浜風を考慮したものらしい。使われているL鋼も今のJIS規格にはない細いものなのだとか。実務経験のある人じゃないとそういう指摘は出て来ないよねー。
その後隣の諏訪の森駅へ移動。この駅舎も浜寺公園駅と同時代の作大正時代に作り直されたものっ。ステンドグラスが嵌め込まれたオシャレな建物だ(なんとかという様式に則った建物なのだけど・・・失念した上いただいた資料が埋もれてて発掘できず)。写真のような小粋な装飾があちこちにある。
公式な?見学会はここで解散。以降オプションツアー的な見学会。
さらに移動して住吉公園へ。太鼓橋は架け替え工事中だったけれど、沢山ある石灯籠の一つが吉野材木方から寄進されたものであることを発見して1人wktk。筆頭の「北村又右衛門」は下市の大林業家だ。明治時代には土倉庄三郎と双璧をなしていた(北村家は代々この名を継いでいて、今でも当地の林業の中心人物だ)。
んでもってその筋には有名な阪堺電車のダイアモンドクロッシングを見に行く。大阪で唯一残る路面電車の阪堺線(恵比須町〜浜寺駅前)と上町線(天王寺駅〜住吉公園駅)がクロスする場所。複線×複線なので複雑極まりないコトになっているうえ例の溝付きレールが現役で使われている。しかも上町線はこのクロス(住吉駅という駅でもあったりする!)の隣が終点。開設や統合の歴史があってこうなってるんだろうけれど、存続させてるのは阪堺が楽しんでわざと残してるに違いないと思う。
大阪に長いこと住んでいる割に阪堺に乗ったことがないので、こういうのがあるのを知っただけでも充分面白かったのだけれど、帰りはその阪堺に乗って天王寺まで行っちゃったり。路面電車いいよね路面電車。
上町線は明治30年代に作られた馬車鉄道が元になっている。その終点駅だった東茶屋駅には「馬車鉄道跡の碑」があって、これを見にゆくというOさんに御同伴させていただくことにした。思わず一駅乗り過ごしてしまったのだけれど折角なのでと古レールを探しつつ北上。
北畠駅から東天下茶屋へ向かう途中でOさんが見附八田もの。一見するとただのH鋼(を使った架線柱)に見えるけれど、実はレールだ。通常のレールよりも背が高いHTレールと呼ばれるブツ。これに側面からもう一つ通常のレールをリベット留めしている。言われなきゃ気づかないよウワァァァァン!
東天下茶屋からさらに一駅歩いてみることになり(ヤッタァ!)、沿線の鉄柵に使われている古レールをチェックしつつさらに北上。沿線のレールはことごとく1897or1898のCARNEGIEで、そうして到達した松虫駅の駅舎のレールもCARNEGIE。心底残念そうなOさんに探究者魂を垣間見させていただきました。
自分はここから西へ歩いて阪堺線経由で帰ることにしてみる。見ず知らずの夕暮れの住宅街アンド商店街を歩いていったが、心慣れた大阪ゆえか寂しさは感じず。むしろ面白かった。到達したのは松田町駅(写真)。このうす寂しさがいい味を出している。
たまたまこの駅舎にも古レール。Oさんに習って私も古レール鑑定をしてみたところ、ここでようやくCARNEGIE以外に出会った(浜寺公園駅にもドイツ製レールがあるけどね)。
BV& CO,LD 。1897年。びっくりする位に綺麗に読めてwktkしたものの、珍しくない英国製レールみたい。末尾にあるのはK.T.K.で関西鉄道クワイシャのもの? 上り下りの両駅舎の端の柱がみなこれだったのはわざと選んで使ったのだろうか。
カレンダーの「今日は何の日」を作成していて、谷坂隧道の着工/竣工の年月日がひどく錯綜していることを発見した。
【道路の改良・地方通信】(昭和9・10年発行)
昭和9年10月22日 起工式
昭和10年 10月下旬には完成せしむべく目下西口の鋪装を進めている
11月6日の菊花節には開通記念式典を予定。
【隧道扁額】
昭和10年12月 竣工
【竣工記念碑】(昭和15年11月設置)
大正14年10月21日 隧道期成同盟設立
昭和7年 県会で建設議決(日を卜して着工)
昭和10年9月 成
【滋賀県土木百年年表】(昭和48年発行)
昭和8年10月21日 着工
昭和10年3月1日 竣工
【滋賀県の近代化遺産調査報告書】(平成12年)
大正14年末 谷坂隧道期成同盟結成
昭和8年 県事業として着手
昭和10年3月1日 貫通
同10月末 竣工完成
滋賀県近代化遺産調査報告書は小林博「谷坂トンネルについて」(『滋賀県地方史研究』第3号:平成5年)を参考文献としている。未見。「谷坂隧道竣工記念写真帖」は序文の辺りを撮り損ねた・・・。
隧道の貫通、隧道工竣工、取付道路の開通(共用開始)、開通記念式典、いずれの日も竣工だといえば竣工で、その辺りのあいまいさが錯綜の理由だろうと思う。しかしこれだけばらけていると何を採用していいのかわからないな・・・。
…箝口令?
うーん、大分では何と言ったっけ。大学の友人(誰か忘れた)はメバチコと言っていた覚えがある。柳田翁がまとめてたはずだが見つけられない。
いつものところに。なんか画像の数が足りん気がするが無視する。
改めて見ると、ようこんだけ作ったもんだと感心する。感心せざるを得ない。呆れざるを得ない。
いつものカレー屋でカレーを喰いながら筒井康隆『乱調文学大辞典』(単行本)を読んでいると店員さんに話しかけられた。何を読んでいるのか? と。どう答えたものか悩んだ末「えへへ、本が好きなんです」とか何とか答えてお茶を濁したnagajisは卑怯者である。あまつさえ「ぶんがく、ですか?」と聞かれたにも関わらずだ。「まあ、そんなもんです」という返答もちょっとどうかと思った。まるっきりの嘘とは言わないが着地地点がずいぶん離れてやしないか。かといって「辞典でんねん」と答えるわけにもいかないだろうけれどもさ。
そもそも本を読みながら食べるなちう話かも知らん。ちぎったナンを箸で食うなということかも知らん。勝手な客ですまぬ。
敦賀市国広町の公園。記憶が正しければこの公園で二度野宿をしている。一回目は1999年の北海道旅行の帰り。二回目は2003年の長旅から帰ってきた時だ。
新日本海フェリーの上り便は嫌がらせかと思うような真夜中に敦賀港に着く。そうして土地勘のない旅人を真っ暗闇に放り出す。哀れな他所者たる私は、蛾が灯し火に引き寄せられるようにして駅へ向かった。そうしてそこから駅前ロータリー向かって右のアーケードをとぼとぼと押していって、そう離れていないところの小路に右して入り込んだ。その先にあった公園で野宿をした。小さな公園で民家も間近だったからテントは建てずにロールマットとシュラフだけで寝たと思う。蚊が多くてちっとも眠れなかったのを覚えている。
4年後に同じようにして敦賀の夜に放り出され、記憶を頼りに同じ公園を探し当てて泊まった。敦賀で知っている場所はそこしかなかったからだ。
1999年は翌朝日が明けやらぬうちから脱出して敦賀駅に向かい、始発の電車で帰阪した。2003年の時も早々と退却して馬背峠経由アゴウオ越ピストンを実施している。故に公園以外の記憶はない。
今回改めてその公園を訪れてみたのだが、正直なところ、ここだったっけ?という思いのほうが強い。周囲は潔癖な新興住宅街で、こんなに新しかったような気がしなかった。ここ十数年の間に区画整備されたのだとしたらなおさらこの公園でない可能性が高くなる。公園だけ残して周りを整備することはないだろう。
左手にあるシーソーは若干記憶に反応があった。こういうのがあったような気がする。そして何よりこの公園には水道がある。実はこの手前にもう一つ公園があるのだが、そちらには水道がなく、当時の私ならまず利用しないだろうと思われた。水道があるからここに泊まったという微かな記憶がある。
それにしても、人の記憶、思い出なんて、突き詰めて明らかにしたところで何にもならないものだと思い知らされたことだった。いまの私には何の由縁もない感情移入すら拒まれる見ず知らずの日常がそこにはあったというだけだ。
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丁度良いタイミングで開催される。また行ってみようかしら。今度は若井か青山かがあの煉瓦を供給したのだということ、浪花工業が請け負ったこと、開通直前に東口を付け替えたことなんかを頭に入れた上で、その目でもう一度見なおしてみたい。とかなんとかいうが要するに煉瓦刻印探してえってだけなんだけどな。
なぜかは知らないが↑の参照元ページ(王寺町観光協会)を開くとChromeがおちる。未だにXpだからだろうと納得しておくことにする。nagajis来んなというメッセージであったとしても頑として無視する。
3度固まり一度は復帰、一度は席移動で継続。三度目に3/31を見ようとしてまた固まり諦める、うえに複写申請に書き漏らしがあって日付がわからんのが出てきた。ビッグシット。
M24の1月だったかに国会議事堂が焼失し、それに関する話題が多く出てくる。といったようなことを書いたほうがなんぼか意味があるかも知れない。はじめ電球が火元ではないかと報じられたため、大阪電燈や電球製造会社が「電球は安全です」という広告を何度も出している。内務省技師がその説を否定したという記事もあったりした。見た範囲では火元が特定されたという報はない。
確かに電球が火元になることは稀だ。そばに可燃物があって熱的影響を与えて火事になったということはしばしばあるが、確かこの記事では割れた電球が漏電して云々というものだったと記憶する。
今の時代に生きる私たちには そういうことはないと言えるだけの知識がある。大慌てで火消しに走る会社広告を鼻で笑うような心もある。でも、私たちの知識は過去の歴史の蓄積のうえに成り立っているわけで、その知識でもって過去を嗤うのは物識らずであり滑稽であるだろう。数年後数十年後、 新型コロナウィルスの根本的対処法が確立した頃になって西暦2020年を振り返り「○○○○もなかったんや」「なんで△△△せえへんかったんやろ」「マスクとかw」と訝りあるいは嗤いするようなものである。
似たような知ったかぶりの解釈はいろんなところで同時進行中である。「勝てるはずのないアメリカに戦争を仕掛けたのは愚」「坂本龍馬が暗殺されていなかったら日本はもっと良くなっていた」云々。違う。様々な要因が複雑に絡み合って身動きできない状態になったからそうなった。そうなったから今の私たちがいる。それが必然だったとか運命だったとかは言わない。過去の結果である。今の私たちが今の世の中をお気に召さなければ、歴史に学んで、参考にして、それに立脚して未来を望む方向に向けていく努力をすればよいだけである。
いま日本には「いま」を生きるだけの人間であふれている。世の中をこのように変えていこうという見通しを持ち、かつ実行する人は稀だ(どちらか一方だけはある、という人物はないでもない)。自分さえ良ければ、自分さえ楽しく生きられればいいという一般市民ばかりではあるまいか。だとしたら現状維持が関の山かも知れない、一億六千万人ぶんの「自分さえ」の最大公約数は限りなく小さく、ベン図の重なりは芥子粒ほどもないに違いない。
自我というものが、よくわからない。辞書的な意味はわかるのだけれども、それを自分にあてはめて考えた時に、一抹の不安を感じてしまう。自分と自分以外を区別できる能力だとすれば幼稚園以前からあった気がするのだが。
自分のために何かをするというのが下手である。飢えて死ななければそれ以外はどうでもよいと思っているところがあって、着飾ったり自己の主張を主張したり人に誇れる高価なものを手に入れたいという気が起きない。もちろん捨て鉢な生を生きているつもりはなくて知りたいことを知れた時の喜び、疑問が解決した時のうれしさは何物にも替え難いと思っている。それさえあればいいと思っている。加えて知れたことをアウトプットできればなおさらいい。溜め込むのは好きではない。
華やかなスポットライトを浴びて生きていた人が、急にライトを浴びなくなった時、どれだけ不安になることか想像してみたりする。注目を浴びている自分がほんとうの自分だと思っていたら、そしてその注目が極度に高いものであったら、そうでなくなったときのに感じる差は相当に激しいに違いない。誰一人私を知っちゃいないと気づいた時の焦燥感は有名人でも何でもない自分ですら苛まれることがある。不安である。でも、誰にも知られていない自分が本当の自分なのだと気づきさえすれば何ということもないのであった。ゴミの山に埋もれて死のうが崖から落ちて卒しようがこの世の中に対して何ら影響を与えない。気楽でいいではないか。
10円玉。10円の価値を持つ貨幣であり、銅であり、円い金属であり、厚1mm強の板でもある。見地が違うというだけでどれも正しい。どれか一つだけというわけではない。
世の中の事象も同じように考えたい。安倍氏の国葬。人の評。ものの価値。自身の見地に基づいて、あたかも自分の見方が唯一無二の正解だと云わんばかりに主張する人ばかり。10円玉を銅板だと主張してそれ以外を認めないようなやり方だから軋轢を生む。
皆が皆、複数の正解を認められる世の中になってほしいものである。その結果として秩序は失われるかもしれないが。
Before...
_ iso [公式サイトみたら書いてありましたね。そういう実習みたいな講義、いいですね。]
_ 絹路 [お、おもっきり今住んでる近所やんwww 連絡もらえたら顔だせたかも。]
_ nagajis [あー!そうでしたっ。お誘いすればよかった・・・。 ちなみに次回は北摂の多田銀山です。会員外でも参加できますのでどうぞう。]