nagajisの日不定記。
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午後は体力機能力検査あり。今日のみにては、二つ上りたり。運動班運動ありたり。
昭和十六年十二月八日ハワイ作戦の際特殊潜航艇乗務員は、全員二階級とび大尉の方は中佐になられたり。岩佐大殿の方は二十七才にして中佐となられたり。八日には艇五隻を用い、共に沈み、戦死されたり。死すこと必定なるに、進みて死地に赴く。豈偉ならずや。在濠法人の記事を読み、混血児の多きに驚く。地久節なり。
昨日、蘭領印度諸島の首都バタビアを占領せり。
光陰は矢の如し、二年もあと九日となれり。予今最も楽し。代数の代りに地理ありて支那を終う〔わる〕。午後は作業にて台上に於て二手に分れ各〃電話機に於て話をなす。明治四十年製作の事故十分には聞こえざりき。久方振りに剣術をなす。面の斬撃不十分なるを知る。練習すべきなり。土曜の為か、やゝ気力に欠く。即ち消極的なりき。良好なり。
headlineの通り。またしくじった・・・。メールアドレスが使い回せないので登録して確かめられない仕組みなのだった。対策を取って今度はちゃんと確認した。だから動いてるシステムに手を加えたくないのだよ・・・トホホ。
原稿書き上げる。岡の辻峠はほとんど消滅に近いので隣の小部峠も含めよう、と考えていたが結構な量になった(かも知れない)。カイモリ峠は独立頁にしても充分なボリュームがあると思うので別稿へ回す(歩いた範囲はとても狭いけれど)。心地よい峠道のあの感触を、次号まで忘れずにいられればいいのだが。
こうして見ると第一回からたてつづけに未訪の峠が続いている。いろいろ言うくせに北摂を知らないnagajisなのかも知れない。無論知り尽しているとは思っちゃいないしだからこそ改めて北摂を取り上げようと思ったのだ。実際、稿を進めているうちに新たな発見がいくつも出てきて楽しい。体は昔のようには動かなくなったけれど、その分バックグラウンドを抑える力をつけておいたからな。それは唯一成功した人生設計だったかも知れないとふと思ったり。
河川事務所から(わざわざ)承諾メールをいただいた。有り難いことだやってみるものだ。しとろんさんのツッコミもあるし、少し勇気が湧いてきたぞ(って何という現金なnagajis)。
炬燵布団兼掛け布団に蒸されて汗だくでうなされて起きる春朝。ここで再び惰眠に落ちる快楽を語れば袋叩きに合う自信がある。なお囀りは形容句が長過ぎる傾向にあってたいへん見苦しい。まるでnagajisの書いた文章のようだ。
気分を変えようと思って廃毒を進めてみたが、ギコギコな感じは些かも解消されず。より角度が鋭くなっただけだという気がする。そういう韜晦後悔だけ述べてまた布団に潜り込む。精神東海前夜の兆しがここにもまた。
昨日100えんでげっつした一枚.この構図があるとは知らなかった.東口なので,ここに写っている三つ鉾と,向かって右側の翼壁が今も露出していることになる.背後の土留石垣もそうだったのだな.
撮影年度は不明だが,かなり苔むしているところを見ると戦前後半か戦後すぐといったところか.笠石のところに落書きがある.「天下の畑 □分団」? なんのこっちゃ.
面白くも何ともない名勝絵葉書,と思ってしまった人は左上の隠しカメラに向かって尻振り百回.とか偉そうなこと書いておきながら土木学会附属図書館にあるはずの資料が見つけられなかった.土木学会誌第10巻第4号(大正13年8月発行)瀬田橋改築工事報告概要だ覚えとけnagajis.
瀬田橋は琵琶湖の流出口に架かる橋で,東海道の要衝かつ名勝之地.太平記にも出てくる由緒ある橋だ.大正13年の架け替えでは木橋の雰囲気を残しつつ近代的な工法でもって行われた.曰く鉄筋混凝土橋脚にI鋼桁9本を載せたうえで鉄筋混凝土床版を採用.その上で路面に木板を敷き,木製欄干を作り直して元の擬宝珠を載せた.橋側面の庇(霧除庇)も木製だった.
そうか,その頃のをアプれば早いのか.
大正13年架替後の姿.こう見るとほんと木橋のように見える.木の皮を被った鋼橋だ.
最初の絵葉書はその化けの皮が剥がれたところ.庇が腐朽して落ちてしまったのだろうか,すっかり取り払われてI鋼桁が露わになっている.キャプションが右書きなのをみると戦後のものであるらしい.最終的にS53に架け替えられて現在の鉄筋混凝土桁になった.
100えん也.
ドライブウェイのは結構よくある鉢地坂.遠望の一枚を持っていたのだけど,もっといい構図のを入手した.100えん也.
「日本の近代土木遺産」ではスパンドレル部の隅飾が特徴の一つに挙げられているが,確か御坂隧道とか,福岡の秋月隧道,櫨ケ峠隧道にも似たような装飾がある.ここを三角に飾るのは思いつきやすい発想だったのかも知れない.それよりも笠石に何やら微細な飾りが見えるのが気になる.あと,扁額ちっせえ...
鉄道は貨車が写ってるだけでにせんえんとかゆう巫山戯た価格設定になっていることが多い.対してケーブルカーやロープウェイはめっぽう安く手に入る.誰も買わないからよく余っている.そんな中から拾い上げた珍しい?一枚.
昭和の初めに開通し,S13の阪神大水害で壊滅廃業した六甲山ケーブルの絵葉書は数からして少ない.今までみつけることができたのはこれ一枚きりだ(ネットで探せば売ってるんだろうけどね).なお支柱は切られてコンクリ基礎だけになっている.
中津道路の鹿倉隧道を抜けた先に作られた橋.しろさんがサイトで使っているのを見つけて欲しく思っていた.絵葉書のキャプションでは舞出橋になっているが,大分県人的適当さによるものである(多分.舞鶴≒まいづる≒舞い出づるなのだろう).
絵葉書下辺から時計回りに下って行って,橋を渡り.回って橋の下を抜けていく.いわゆるループ路線.明治24年竣工だから,ひょっとしたら日本で最初に作られたループであったかも知れない.玖珠郡長・村上田長がこの路線を建設した時,鹿倉の高低差を攻略しあぐねていたところ,鶴が舞い降りてくる姿を見てこのループ式を思いついたと言われている.ホントかどうかはさておき.
この橋があったところは農産物直売所だったか食事処だったかの駐車場になっているが,橋は当時の姿のまま埋められたはず(「九州の峠」だったかしらん).掘り起こして村おこしに使おうという機運は……一切ないのだろうな.
橋の絵葉書を購入対象にしている.なかでも増田淳設計の橋梁を探しているというニッチの狭間をすり抜けるようなことをしている.確か大陸でも可動橋を設計してたよな,と思ってこれを購ったが間違いだった.増田の設計は釜山渡津橋だ(しかも支承周りしか設計が残ってねえ).
とはいいながら,単に橋として見ても面白い構造だ.単純バスキュールが向かい合わせになっているように見えて実は違う.可動桁の端が固定桁端から外れて高く持ち上がっているから,複雑なリンク構造によって可動桁が持ち上がるようになっているはず.そうすることで航路幅をめいっぱい確保している(単純バスキュールだと「_/ \_」の字に開くので航路を阻害する).おそらく大船橋と同じロール式の可動橋だろう.
ToDo消費し切れてないのに次々と。しなければ。ならないことが。
ORJ原稿の整理・訂正・バック・作成
「鉱石の道」報告書修正
調査員受諾のメール(済)
大正中央中学校へのアポイント
調査のスキームを考える
学会誌の編集・バック
あれや これや
ちゃんちゃらんちゃちゃんちゃらんちゃ
デフラグくらいじゃ足りないぜ.いろいろ不足している・いったりきたりしすぎ.換骨奪胎して別記事にするくらいしないとなおらない.おとなしく「ない」で終われ.
サブ記事のくせに時間かかりやがる・・・どうしたものか・・・
_ しとろん [土木遺産関係はまだまだ一般の認知度は低いし、そういったお仕事に携わっている方からはもっと知ってもらいたいという気持ちも多いと思う。 だから、きちんと扱ってもらえるならば協力するという所も多いのでは..]