nagajisの日不定記。
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今日を以て一年の授業も終了したり。午後は体力機能力検査ありて、運搬が以外にも多く下りたり。思うに彼の土嚢は五十キロ近くあらん。二千米は第三学班にては一番なりたり。然し、門松に、三秒負けたるは残念なり。以後は随意なりき。随意自習は嬉しき時間なりき。風強く吹き、二千米の際は逆風にて走りにくかりき。
臨時外出し大石さん・山根・平川・児玉・藤江との六人にて武蔵塚に飯盒炊事に行く。極めて為になりたり。予惟うに、四十五期三学班が崇敬する方は大石さんなり。何処となく特に我々を思い給う故なり〔一文朱傍線、欄外朱「然り言葉や形ばかりにては人は動かず」〕。斯様に下級者に対してやさしく親切に真に兄を思わせる三年生となる〔らざる〕べからざる事を感じたり。徒に我意を張り又其に反して自由主義的行動は之を避けざるべからず。十三時火災呼集あり。町田週番司令殿注意に曰く、火事は最初の五分間にて遊兵になること勿れ。と。先ず人員少き時は全員をして火元に馳する可きなり。頗る良好なり。
2つかかる。1つは9割、細部のツメは持ち越し。1つは6割か……変化を出すためにいらんこと凝ってみたのがアレだな。前没覚悟でゆく。
文字数計算がかなりシビアに要るうえ後半の密度がただならない。他のネタに歴史依存できるのをうまく活用しないといけない。
追記:2も9割。ひゃひゃひゃ、読みにくいぜ! これは15文字折り返しで詰めないとしぬる。
ORJのほうもざっくり書いた。あとは余計を書き足すのみ。ここからが長い気がする。
「もする」じゃ怒られるか。週末最初にかかって文字サイズの手直しの必要が出てきてコンニチハ坊ちゃん一緒にWordの×××!!!とか何とか叫びながら一段落させているのだ。
明日(今日)はホウボウにPUSHしないといけない・・・結講胃が痛い。さらに痛くなること請け合いの一週間のはじまりはじまり。
街頭の光で15秒露出。ホワイトバランスはAUTO。個人的には納得行っている。
S100FSの筺体でEXRに載せ替えただけ(+あれこれ機能を削ってコストダウン)というS200EXR。世間評では手抜き作だとかハミ子だとか言われているけどそこそこ気に入っている。自分にはちょうどいいものだと思う。不満を言い出したらきりがないし、良さを追求したら天井ないだろうし。
不満:日陰モードで長時間露光したときに赤味が強く出過ぎる(S9100比)。あの緑色好きだったのになー。
細部がつぶれる。松の木を撮ったらモワモワの塊になる・・・。印刷してもそこまで出ないんだと割り切ればよい。
納得:光学系が変わらずセンサーだけ小さくなった結果、広角側が30mmからになった>そのほうが写真が歪まない。つーか引け。
外部液晶が固定>どっちでもよくなってきた。活用できるのは資料撮影の時くらいだものな。
手動ズーム最高。
満足:やっぱり手ぶれ補正があると違うよ、うん。
フィルムシュミレーションが面白い。単調な廃道写真に味が出るー。S9100 にも似たモードはあったけれど妙にケバくなり過ぎるので使うことがなかった。
絞り開放側の画質の向上。
電池がもつ。
微妙:ダイナミックレンジが広くなったのは正直微妙。いつもマイナス補正して使っている。使い方が悪いんかなー。
先週日曜日に購ったこんにゃくが消費し切れていない。端物の詰め合わせ1kgくらいが300円だったので思わず購入したのはまあ良しとしよう。おでんにしたのも間違ってない選択だと思いたい。しかし一つ袋に入っていて一度開けた以上はすべて調理しなければならないという罠、及びこんにゃくばかり食い続けるのは結構大変なことだということを後で気づくべきではなかった。味は一緒だし食っても栄養にならないし。食べ物を粗末にしてはならないという信念とこればかり食い続けたら餓死するのではないかという危機感を綯い交ぜにした複雑な目で大量に残った灰褐色を見つめている昨今である。
ドキッ!こんにゃくだらけのおでん大会!
語呂だけでそんな言葉を呟いたりしている。そこにはじゃじゃ丸もピッコロも孫悟空も介在しない。あるのはこんにゃくのみである。そもそも大会ってなんだ。こんにゃくが煮えてのたうっているだけではないか。
さらにそも、こんにゃくを繰り返し煮てもいいものなのだろうか。今食っているのはかれこれ4度も火を通したこんにゃくだが徐々に弾力が増して来た気がする。終いにはゴムの塊みたくなってしまうのではないか。一度凍らせてから煮たこんにゃくの食感には到達していないがそれを彷彿とさせるものになりつつある。
我慢して食べ過ぎたせいか腸が激しく鳴っている。そういえば「こんにゃくを食べると腸の掃除になる」と聞いた覚えがあるが、あれはどういう原理なのだろう。子供の頃は未消化のこんにゃくが塊のまま腸を通過するため不要蓄積物即ち宿便をこそぎ落としてくれるのだろうと考えていた。しかし固形のこんにゃくが尻から出てきた記憶はない。食物繊維が云々ということなのか。しかしそれも「云々」の部分がはっきりしない。やはり繊維がこそげ落として以下同文なのだろうか。少なくとも明白なのはいま腸が大変なことになっているという事実だけでありこのままだと固形こんにゃくを含む液状便をぷぴょぽんぼぽっと噴射しかねないということである。恐ろしいことである。
以上を読んで饅頭恐いの類と判断しこんにゃくを送りつけたりするようなことはゆめゆめなさらないよう願う。これ以上こんにゃくを食うと恐怖こんにゃく男かこんにゃく大王になりかねない。余ったこんにゃくは今夜食うとか寝言を言い出すかも知れぬ。あと、食する以外の使い方を提案するのも不可。すでに全部煮こんである。
前フリとなるイベントが何か有ったように思うのだが思い出せない.ともかく女性と石屋にいる.意味合いとしては現実の町で時折見かけるパワーストーン屋といった態の店なのだが実際のそれそのものというわけでもない.ピンククオーツもラピスラズリもトルマリンもない,ひどく地味な石ばかりを売っている店である.
彼女行きつけのこの店で,彼女が何か「買うもの」があり,私はその付き添いとして入ったように思う.その証拠に,私はいま手持ち無沙汰だ.藁籠に入った石たちを,手にするでもなく品定めするでもなく,しかし一つ一つの籠の中身を点呼するように眺めながら彼女の後をついていくだけだ.
売っている石がずいぶん大きいのも現実的ではなかった.握ればそれ1個で手一杯になるだろうという大振りの石ばかりだ.小さくてもピンポン玉くらいはあり,2,3個握って胡桃グリグリをしたくなるような佇まいで籠の中に収まっていた.中にはぴかぴかに磨かれて光っていたり,妖艶な模様を秘めたものもあったりするのだが,概して地味な色合いの,石らしい石のほうが多かった.だから「石屋」と呼んだほうがしっくり来るように思うのだ.
棚に並んだ籠の中から彼女は手早く目的の石を選び出す.蛤の化石のごとき石を5つほど.現実にそのような形でコロンと採れるものかは知らないが,大きさといい模様といい,ざらざらした手触りといい,「蛤の化石」としか言い表しようのない石だった.それから,十六面体のサイコロの角を削り落としたような石を同数.こちらはつるつるに磨かれた黒地の肌が光っている.角度によって輝きが変わるキャッツアイのような模様と原色の斑模様が入り交じっていて,まだ若干パワーストーン的だ.
私はそれを抱えてレジへ運ぶ役目を仰せつかった.運びながら「これ,何に使うん?」と聞いた.曰く首飾りにするのだという.そして,そういう加工もここでしてくれるのだとも言った.確かに,店の隅にはそれ用の素材と思われる編み紐や,無地のベルト,サスペンダーなどが掛けられていた(加工した石を飾りにするのだ).あんな大きな石を首飾りにしたら肩が凝るんじゃないだろうかと素面の今は思うのだが,夢の中の自分はさも謎が解けたかのような納得をしてその言葉を聞いていた.あるいは演劇に使う小道具的なものを作ろうとしているのかも知れないと.事実その石は大きさこそ大きいものの重さを感じさせなかった.夢ゆえに重さのことがすっかり抜け落ちていたのだ.
店の奥に加工機械を置いた一室がある.そこで店主が加工してくれるという.ものによってはその日のうちに加工し,出来たものを持ち帰ることもできるようだったが,今日は予定が詰まっているのか,預けて別の日に取りに来ることになったようだった.
そういう二人のやりとりを退屈そうに聞いていた私に,店長が気を回して加工機械を説明してくれた.卓上版三次元切削機とでもいえばいいのだろうか,固定した石に様々な角度から切削を加えることができる機械であるらしい.「どれ一つ試してみようか」とか何とかいって,鮮烈なオレンジ色をしたプラスチックのような石をひとつセットし,瞬く間にそれを削り上げていった.
回転しながら右に左にせわしなく動く刃によって平面が削り出されていく.本来こういう工作機械は刃を定位置にして削る対象を動かして削るものだが,その逆だ.そのせいか若干ビビって波打っているように見えたが,そこはそれ,あとでヤスリで磨いたりなどするのだろう.だんだんと形が整っていき,厚切りにしたかまぼこのような半円形に,左右に小さな突起がついた何かが出来てきた.「何を作ってるかわかるかい?」店長が聞く.うーん,と首をひねる私.
2,3秒して閃くものがあった.
「ひょっとして,あれですか? ナンバーくん」
〠
「その通り!」
児玉清氏のような口調でそう言われた.
なぜここでナンバー君が出てきたのか一向にわからない.しかも自分は間違って「ポスト君」と覚えていた(これを書くために検索して気づいたのだ).そんなうろ覚えな記号がこのシチュエーションで現れた理由が解せぬ.そのぱっちりお目目が日本語フォントに登録されている不思議,および一生涯使うこともないだろうと思ったことはあるが,それ以上でもそれ以下でもない存在である.しかもこの先どう作るつもりだったのだろう.「〒」の上辺など,削ったら取れてしまうではないか.
女性は小学校時代の同級生である.同級生であるという以上の接点を持たないし,卒業以来20数年もあったことがなく,顔すら覚えていない人物なのだが(そういえば卒業前に越していったのだっけ,と今更ながら思い出した),何故かよく登場人物として出てくる.顔を覚えていないのにそうだとわかるのも変な話だが,私の夢の登場人物は皆そんな感じだ.名前と存在感だけでそれが誰であるかが決定されるのだ.
今すぐにでも戻せるぜヒャッハーと喜んだのも束の間、断面を確認したら、これじゃ戻せねーじゃねーか。真に元通りにするためにはちいと土木工事が必要になる。nagajis仮説はどっちも当たってどっちも外れてたってことか。うーむー。
で、約束通りこの件は次号に回すことになる・・・。忘れんうちに書いとくと元の木阿弥だな。参った。
ふと脂っこいものが食いたくなり脂っこいものを食ったが胃が脂っこいものを受け付けてくれなかった。どうしてくれよう。カレーで迎え撃つしかねえ。
林春樹という人が書いた 『 徴兵旅費の参考書 』 という本に興味深い記述がある。この本自体は徴兵検査や何やらで移動した際の旅費の制度を解説したもので、主に徳島県のことが例に出されているため、徳島県下で発行されたものと思われる。発行は昭和5年である。
本県に於ては大正十年四月二十八日告示第一四六号を以て県下各市町村に於ける道路元標の位置を定め(付録参照)徳島市に於ける道路元標は徳島市西横町新町橋北詰と定められた而して元標は道路法施行令第九条により其の元標位置(即ち道路)の管理者之を建設するのであつて徳島市の元標は県に於て建設を要するのであるが未だ建って居らない其他の町村に於ても未建設の所が沢山ある、而して現在の元標里程なるものは此の元標を起点として実測したるものにあらず大正二年調査したるものにして同年十一月二十八日徳島県告示第四十号を以て大正三年一月一日より施行されたものを元標里程として居るのである其大正二年調査当時に於ては里程元標(今の道路元標に当るものにして町村の中央枢要の地又は役場所在地にあった)を起点とし調査したるものである。
其後新道の建設今は拡張等により各市町村間の里程に異動を生じ之が里程の改正をされざるが為め依然旧里程に依り里程を計算し旅費を支給されつつあるもので不合理不経済なる計算方であるが里程の改正されざる以上又已むを得ないのである。
(注:カナ旧漢字を新字かなに変更)
要するに徳島県ではT14告示第146号で道路元標位置が告示されたが、実際に設置されたのはわずかで、徳島市道路元標ですら建っていなかった。その一方、旅費の計算に道路元標間の里程を用いるようにという通牒があるため、過去に測量(告示)された里程元標の里程を仕方なく用いていると。昭和5年時点でこんなのだから、その後終戦までにどれだけ改善されただろう。道路元標制度は不徹底だった説の傍証の1つとして覚えておきたい。
上のような状況でどんな不都合があるかという説明もなされている。 互いに2里離れた三角形配置の3つの村、甲乙丙村を考える。大正2年当時は甲村と丙村を直結する道がなく、必ず乙村を経由する必要があったが、その後甲~丙間に2里の新道が完成して便利になった。ここで甲村と丙村を行き来することを考えた時、今は片道2里,往復4里で済むけれども,大正2年の里程は乙村を経由していた頃のままであるので、片道4里・往復8里で計算しなければならない。旅行者本人は実際以上に旅費を貰えて得するかも知れないが、国家的見地からすれば無駄な出費だ。また、山間部の町村は急坂道で結ばれていることが多く、里程が短かく設定される傾向にあったが、その後平坦迂回の新道を築いたため、実移動距離のほうがが長くなるという現象も生じた。
「道路管理者に設置義務がある」というのも地味に重要な示唆である。府県道は県が管理した。町村道は町村である。したらば府県道の通過しなかった町村は自前で元標を建てねばならなかったことになる。辰市村には府県道は通過しなかった・・・!
旅費計算は元標里程に依ること、の根拠。内務大臣官房会計課長の通牒。 最後に「一般の旅費も」とあるので、官吏の旅費も元標里程に従ったのだろう。奈良県の場合は元標距離は告示されてたっけ。府県道延長は統計表にT12まで載ってたはずだが。
元標里程により陸路算出の件
大正十二年十二月五日
長第二二号 赤木内務大臣官房会計課長
表記の件に付各庁府県に於て元標里程に依るべきか実距離に依るべきかに付取扱上区々と相成居り殊に市区町村に於て一層不統一の為明治三十七年一月及大正二年六月の通牒に関する支払上支障有之趣に候処爾今各府県の元標里程に依り支給相成様致度此旨管内市区町村長へも御通知相成度
尚一般の旅費に付ても之と同様元標里程に依るべき儀に付念為
(注:カナ旧漢字を新字かなに変更)
(旧)道路法施行令。大正8年11月5日勅令第460号公布、大正9年4月1日施行。
第九条
一 道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置ク
二 道路元標ノ様式ハ建設大臣之ヲ定ム
三 道路元標ハ管理者之ヲ建設スヘシ等級ヲ異ニスル道路ニ係ルモノナルトキハ上級道路ノ管理者之ヲ建設スヘシ
(旧)道路法。 大正8年4月11日法律第58号公布、大正9年4月1日施行。T11に郡制廃止に伴う改正。
第二章 道路の種類、等級及路線の認定
- 第十条
- 国道の路線は、左の路線に就き、主務大臣、之を認定す。
- (略)
- 第十一条
- 府県道の路線は、左の路線にして府県内のものに就き、府県知事、之を認定す。
- (略)
- 第十二条
- (削除:郡道は郡長が認定)
- 第十三条
- 市道の路線は、市内の路線に就き、市長、之を認定す。
- 第十四条
- 町村道の路線は、町村内の路線に就き、町村長、之を認定す。
- 第十五条
- 一 市町村長は、市町村の為特に必要ある場合に限り、市町村外の路線に就き、地元市町村長の意見を聞き路線の認定を為すことを得。
- 二 前項の路線にして、市長の認定したるものは市道の路線、町村長の認定したるものは町村道の路線とす。
- 第十六条
- 上級の道路と下級の道路と路線が重複する場合に於ては、其の重複する部分は、上級の道路とす。
第三章 道路の管理
第十七条 国道は府県知事、其の他の道路は其の路線の認定者を以て管理者とす。但し、勅令を以て指定する市に於ては、其の市内の国道及府県道は、市長を以て管理者とす
阪急西宮北口駅から今津線に沿って北上すること約3分のところ(線路西側パーキングの縁)で播州煉瓦合同「ヲ」を見つけた。あれだけ再開発されているなかにひっそり残り続けている戦前に敬意を覚える。隣の松並木も多分古いのだろうけれども。
「ヲ」=播煉説は根っこが緩んでる。バンレンの話では三者合同したから三本線マークを社章にした(と説明されている)そうだ。じゃあなんで大日本商工録は「ヲ」を掲げてるのか。なんかの間違いなんじゃないかと思うことがある。初代取締役の小田千代蔵の「ヲ」なのかと思ったりもするが、しかしそうだったら中播煉瓦時代から「ヲ」だった可能性が出てくる。
「ヲ」刻印は印南郡じゃ結構ポピュラーだし、大阪市東淀川区まで浸出していたりするほどの流通量。中播は印南郡最初の煉瓦工場。
あるだろうと思って行ってあったらやっぱりうれしい。そうして案の定○Dは欠けている。
あるとも思っていなかったものが見つかるとこまる。
これが抱き沢瀉だとわかるnagajisは放置するとしても、ここにあってくれると水野氏の根崎煉瓦工場印でなくなってしまう。かといって明治20年代初頭に抱き沢瀉を使っていたと推定できる工場がない。どうしたものか。一つわかると二つ三つわからなくなるのはチーターの呪いと思われる。
2日めは愛知県公文書館でコピー三昧。苅谷煉化工場については想像していたような文書でなくヘルマン・エンデに見本を見せたく候的な単発文書であった。もしこの時刈谷士族授産所が質の高い煉瓦を供出していたらチーゼも来日してなかっただろうし東京官公庁計画が実行されていたらそこに使われていて日本煉瓦製造も出てこなかったかもしれぬ。全ては実現しなかった未来である。そのかわりに貸下金一件書類で東洋組解散前後の各工場の詳細を得られたのでこれを解読することで状況を明らかにできるかもしれない。西尾には23もの窯があったうえに洋風焼窯とか試験窯まであったというのは驚きである。それと同時に、そんなに沢山あったら焼き色とか焼成痕とかで西尾製品と見当をつけるのが不可能ということではあるまいかと思ったりもする。岡崎の就産所でも最初は煉瓦製造をやっていたことも判明。西尾から人を派遣して教えたが土が向かないことがわかり土管専業に切り替えたという。
東洋組→天工会社→精成社の流れとか東洋組事件の内容も明確になりそう。刈谷も天工会社を名乗っていて工場前にでかい標柱立ててたりしたというから天工会社≒東洋組のようなものとみてよい。東洋組が貸し下げ金の返済不可能になり、工場資産を差押えられそうになったので先に別の個人にそれを抵当にして借金し工場を継続? 東洋組の中で煉瓦製造をやっている部内会社としての天工会社(だったか精成社だったか)。そうして東洋組系列のしがらみを完全に断ち切るために精成社を解散して(株主が損を被る形)同日付で西尾士族生産所。これがM19.3.6だったかの話。その後西尾士族生産所の社長は国だったか県だったかの士族授産のための貸付金制度を利用して資金を得たりしてる←アジ歴。東洋組への貸付金の残余負債は(南部氏が代納するとかなんとかの話もあったけど)齋藤実堯が旧公債証+残金年賦でもって返済することが許可されたが(第二号諮問案。旧公債証額面≒貸付金残余なので目減りしている分を現金で年賦払)、当面国に上納しなければならない金を地方費から支出せざるを得ず、その可否について議会が紛糾したのが愛知県会史のいう東洋組事件。以上9割方うろ覚えの覚書。
ちがうちがう。もともと東洋組は齋藤実堯一人の運営で、東洋組の傘下に煉瓦石製造会社・瓦製造会社が存在しそれぞれに立株&定款があった。その煉瓦石製造会社と瓦製造会社が合併して新会社たる天工会社を興した(ので刈谷就産所も天工会社刈谷分局になる)。このとき株は天工会社株へ移行したようなので煉瓦製造・瓦製造会社株主→天工会社株主となった。天工会社の株主は大半が東京の旧華族。最初に問題になった国貞知事からの貸し下げ金は東洋組にあてたもので、それが解散し天工会社となったために賦金負担の責任が不明確になった(このへんは法整備が行き届いていなかった時代であったための混乱と思われる。あるいはそういう作戦であったのかもしれぬ)。それがさらに精成社となったために事態はややこしくなる。
賦金問題が取り沙汰された頃には天工会社西尾分局が精成社として独立、その株は旧西尾藩士らの金禄公債によって賄われた(東京株主は全損)。それをさらに東京の旧西尾藩士笠松氏が買い取って西尾士族生産所とした。それによって運転資金を手に入れようとしたのかしらん。
天工会社・精成社は純益のいくばくかを東洋組に上納することになっていた。ゆえに東洋組とのしがらみがつきまとっていたわけなり。以上46『上申留』「東洋組始メ会社組織株主資産等取調ノ件」(の筈)。
_ あきら@大阪 [手遅れだろうが、田楽味噌買ってきたらええやん。]
_ nagajis [すでにその手は使ってあるわな・・・]