トップ «前の日記(2007-06-24) 最新 次の日記(2007-06-26)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2007-06-25 しおりup ほか [長年日記]

[企画] 第三次OFF会

見出しは統一したほうがいいよな、と思いながらいつも適当だ。OFF会なのか探索なのか、それ以外の伺かなのかすら解らぬ。そうして内容も見出しとは乖離した話から入る。

今日は府立図書館に籠って資料ゲッツに費す。「麗しの愛宕山索道」は単なる小説で絵的な資料にはならず、当時の写真は京都電燈五十年史の一枚だけとなった。ま、愛宕山以外の資料をがつがつゲッツ(後述)したので私個人は困らない。帰りに旭屋で地形図を購入。必要なものが解っていて一発で引き出せるというのに若い2人連れが地図台占拠していつまでもだらだらやっててキレそうになる。ヴィトン風情が地形図に何の用か。地形図を写メールするな。それは犯罪だ。とここで文句を言う気弱なnagajis。わざわざ混雑する紀伊国屋を避けてこちらに来ただけに余計に腹が立ったのかも知れない。ケツの穴のちいせえ奴だな。しかしデカくっても得することなどないだろうが。

帰宅して一風呂浴びた所で寝てしまった。工事中の鉄骨建屋みたいな所で秘密裏に大根を栽培している(部屋に相当するブロックが土になっていて真横から大根を植えたり引き抜いたりしている)ヤミ屋集団に慣れない博多弁で話しかけ、横から植えてもやっぱり鉛直方向に根を伸ばす大根の律義さに感動したあげくに寛解する夢を見て。そうして起きたら24時だ。とほほ。という訳で発行は1日遅れの25日です。あっ、あれって6地区のど根性大ちゃんと今日の鉄骨なのか。いま気づいたぞ。おそるべし昼間の残滓。

当時の写真は一枚と沿線案内図で我慢してください。他は暇な時に見るための文字資料です。

なお、現時点で7/1(日)の天気は曇り。降水確率40%。ここからどう我々を翻弄してくれることか。

[] 府立図書館情報

最近備忘録の必要性をとみに感じるnagajisによるnagajisのための府立図書館の備忘録。

  • 府立にあるTunnelingは田辺朔郎の読んだTunnelingではない。Housacの西口の絵と良きエントランスデザインについて少し触れているだけ。Practical Tunnelingのほう?
  • 近代化遺産調査報告書、徳島と大阪府が新着。
    • 徳島には府能隧道と旧橘の2つが載っているが、bondが「オランダ積み」になっていたりしてちょっとどうかと思う。ナキイルカさんやマフ巻さんのところのほうが詳しい。何より橘のばあちゃん出て来ないもの(笑。むしろ青石を使った石蔵(逆ハの字!)とかのほうが興味深かった。
    • 大阪府はさすがに分厚い。300数十ページ。第2次調査の分まで写真つきなのが豪勢。隧道が全くない。。。(あれ、千早洞もなかった?)。もちろんメインは橋梁なのだろうけれど、寂しいぞ。蕎原は無理でも箕面の旧標識大日嶽は入れて欲しかった。
      • 十三橋梁(M6)→両ナントカ橋(M20代)→十三橋長柄運河跨橋(M42)→浜中津橋(S6)。おそるべし大阪人の毛チップ裏。もといもったいない精神。
      • 木津川のスキュートラスだと思っていたのは一つ隣の運河橋! スペックは全く同じ。
      • 高槻に「タチソ」30本。
      • 洗堰とコウ門があるんだった・・・>大阪。いつか行ってみよう。
      • 今号の報告書中で触れた箕面の落合橋は当初からコンクリートアーチだった模様。表面だけ補修しているのか? 独り気にしているつるしまばしについては記述なし。戦後のものだろーか。
  • 原田碧関連。
    • 福岡県出身?攻玉社卒。明治20年に攻玉社の師の講義を要約した曲線解法本、明治30年に土木関係の数値便覧を編集。実用鉄筋コンクリート構法は明治44年。最後の一冊はなかなか参考になる(モニエ式とメラン式がどう違うのかとか、鉄筋の形状についてとか)。前2冊はいずれも編簒者として、鉄コ構は「技師」になっている。この頃には京都にいたらしい。
    • 京都府下の高瀬川沿線には少なくとも明治44年以前に姉小路橋など数橋の鉄筋コンクリート橋が架設されている。特に姉小路橋は橋台控えまで鉄筋が続いているカンチレバー式。もう一橋は歩行者専用で、道路から階段で登って橋を渡るもの。高瀬川の水運を考慮したものだろう(当時の高瀬川は道路とほとんど同じ高さを流れていた)。ちょっと面白い形式。でも何で彼が大原・二之瀬を設計したのか?
  • 今回の目玉、鉄道技術発達史。そうして自分は土木辺りから読み始める天の邪鬼。
    • いわゆるポーナルガーターには作錬式、作25年式、30年式の3種類あり。初期のポーナルガーダーには橋台橋脚に接する部分に平面支承はおろか補強すらなかった。直置き・ボルト止め。フカダソフトさんが支承の部分を注意してはった意味がようやく解った。作25年式で初めて底板がつく。35年には杉氏による和設計?のPG、ここから米式に移行する。上路PGに横綾構対傾構が入るのもこの頃から。支承付近の腹板にかかる応力を均等にするため橋台(脚)端に相当する部分にもスティフナー。
      • 後で第1・2鞍馬橋梁の写真を見直してみたが、橋脚端の底板もスティフナーもない。3枚の腹板から構成され中央腹板の上部に3段目の蓋板がある(というか橋端から見て2枚目3枚目しかなく1枚目がない。中央だけわずかに高い)。そもそもスティフナーはT型鋼。相当古い?作錬式??? まさかね。グラインダーテストおながいし□>叡電
      • トラスについては鉄道省設計標準が他の地方鉄道でも踏襲された。PGは?
    • 7月14日に書庫見学会あり。一度入ってみたいものだ。

    何か一気に鉄道マニアになったような一日。鉄道の機械的な何かより黙って仕事している構造物の肩を持つ鉄道マニア。カテゴリとしてはあり得るのではないか。

[独言] SPAM

Subjectが″何中?″というのが来た直後に″For nadachu″。お前等人のメールで会話するな。

[懐古] 2002年6月24日

水沢峠の麓から移動。いよいよ茨川へ移る。というか移動しただけの一日。記録によればこの辺りから本格的に雨続きとなったようだ。

麓のかもしか山荘での休憩。ベンチだったかブランコだったか、そこに座ってコーヒーを飲んだ。誰もいない庭。ここに自分がいることも誰も知らない。その安堵感。

平子峠(何もないゆえ記録も記憶もない)を越えて日野町中心部。そろそろ買わなきゃと思っていた中部のツーリングマップルを買う。これが初めてのリング綴じでないTML。機動隊の基地?がある瓜生津峠を越えて八日市市。マックスバリュでしこたま買い込んで登る。確か永源寺付近は旧道を通ったな。あの寂れた商店街(今で言う感覚の商店街の2世代くらい前の商店街)はちょっと旅情を誘うものがあった。

永源寺ダムの付近はあまり覚えていない。このダムの底にも昭和の旧隧道が一つ眠っている(はず)。そうか、左岸を通ったのだったな。杠葉尾の道路脇の大きなタイヤに腰かけて休憩したのを思い出した。車線変更のために置いてあるやつだったと思う。

持参の地図では国道から茨川までの道が破線表記になっていたため「これ全線薮漕ぎやったらヤバイな」と思っていたけれど、そんなことは微塵もなく、普通に車道林道だった。ただ国道から茨川まで10.5kmもあるため人里離れた感はすさまじい。茨川に入る直前、比較的新しいコンクリートの橋が見えただけなのに、それに人けを感じてほっとしてしまうほどだった。

大きく蛇行する茨川の隈に小さな河原。そこに続く道跡。平地らしい平地はこれくらい。あとは背後の山に2、3段の家が貼りついて連なっていたらしい。今はほとんどが崩れ去って、八幡高校山岳部の登山小屋になっている元公民館くらいしか残っていない。その軒下にテントを押し込んで泊まる。

この日写真を撮ったのは昼間に落石注意の看板を撮っただけ。何しろ充電式かつ電気バカ食いなデジカメだ、今後しばらく山ごもりすることを考えると無駄な写真は撮れない。というか何で看板なんか撮ったのだろう、それこそ無駄ではないか。


トップ «前の日記(2007-06-24) 最新 次の日記(2007-06-26)» 編集