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2007-06-24 プチ連絡 [長年日記]

[企画] OFF

しまった、asamo氏から御連絡いただいていたグロメク氏の参加を加え損ねてた。大変失礼いたしました。ホハレ峠を踏破したお二方であります、私に代わって東京組を迎え打って下さるでせう(だから煽るなと

只今の参加予定

あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、グロメク氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏(山さ行がねが)、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(萬流智隧道)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)。

おまけのナガジソ。

multi氏やtori氏ヨッキ氏は前日から京都入りされているとの事なので、開催時間が早めになると予想されます。あとは雨が降らないようお祈りするだけです。

だいたい上記のようなことを昨日最後に書いた積もりだったんだが。反映せずに寝てしまったか。ということは一穀橋のこともか。うーん。

[懐古] 2002年6月23日

水沢峠を担いで越えた日。水沢峠は国道477号武平トンネルの南方にある地形図破線道の峠。全くの山道だ。

西側からのアプローチは風化したての花崗岩の白い砂が印象に残っている。小さな沢渡りを何度も繰り返す道で、使い古された道というよりも登山のためにつけられた新道のように感じる。峠もあまり峠らしくない、尾根の一角を無理矢理乗り越えるような感じの峠であった。それでも後に登る鞍掛峠も似たような道・峠だったから実際には往来があったのかも知れない。写真は峠直下の最後の登り。

水沢峠は峠から伊勢方面の眺めがよいことが特筆される。峠のある谷が真っ直に開けているせいですこぶる見通しがいい。道は東西とも谷底を辿ってゆくものであった(この日も目の前の谷を延々と担ぎ下った。よくもまああんな所通ったものだと思う)。

柳田國男の「峠の表裏」に照らし合わせるならばどちらも表。これだけ見通しが良いのだから尾根を伝わずとも街を目印に下って行くことができたのだろうか。それともどちらの側も「鈴鹿山脈に登るため」の登山道として生まれたのか。先日登った白髪峠も峠付近から集落を見渡すことができたけれども、あちらは尾根をたどってその集落へ下っていった「裏」の道だった(東征伝説でも南から北へ、大和目指して越えている)。ここの場合、古えのモチベーションはどちらを向いていたのだろう。名前は東向きにつけられているが、西側に目だった集落がないことも関係しているかも知れない。


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