nagajisの日不定記。
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橋本市に問い合わせ。電凸という言葉は嫌いだ。知りたいから聞いてみただけで、いつものことだ。
建設課のほうでは「危険なのでとりあえず塞ぎ、現在修復の工法を検討中」とのこと。思い切って、先日大人数で押し掛けたので迷惑かけたんじゃないですか? って聞いてみたのだが、笑われたorz。ついでに地区の方が早よ直してくれと行ってましたよとも伝えたが、もっと笑われたorzorz。ともかく保存の方向で動いているのは間違いないようで一安心。なに、そのきっかけになったのであればかえって本望也。
市史編纂室はちょうどお留守で、教育委員会(社会教育課)に回していただいた。4年前に電話で伺った時はどちらだっけ・・・。詳しい方は席を外しておられたのだが、感じとしては以前より貴重なものだという認識を持っておられるような印象。ただ「紀見村郷土誌」に明治17年竣工という記録があることはまだ把握されていないようだったので、そのことや近代土木遺産Bランクの件だとか石組坑口の全国レベルでの珍しさなども含めてお伝えしておいた。特に中者は結構驚いていたような感じ(つーか推薦したなら早よ伝えとけ>nagajis)。
2005年の1月、初めて柱本隧道に行く前、隧道のことを尋ねた時にてくころ文庫の件を教えていただいた。これには明治22、3年頃作られたということが(地元の方からの聞き取りの結果として)書かれてある。柱本隧道が建設された頃はまだ細川村・柱本村に分かれていたが、合併して紀見村ができ、岡貫一郎氏が初代村長になったのが明治20年代のことで、恐らく「初代紀見村村長・岡貫一郎が主導して・・・」という部分がごっちゃになって伝わった結果と思う。隧道はあくまでも明治17年に完成している(但し石組み坑口の話は出て来ない。あくまでも隧道が最初に作られたのがこの年というだけで、坑口だけ後付けである可能性もなきにしもあらずだが、石組みの技法やモルタルを使っていないところからしても当時からこの姿であった可能性のほうが高い)。ということを電話口でちゃんと言えたかどうかは覚えていない。こっちだって冷や汗かきながらなのだから。
これで電話を切ったら「クーッ!決まったーッ!そして男は名を名乗らずに去っていくのであったー!」((C)榎本俊二)なのだがしっかり連絡先伝えた辺りは小心者らしさの発露であろう。そもそもこの一回だけで何かが激変するとは思わない。そこまでうぬぼれてはいないつもりのnagajisだ。
古坂隧道の件を書いている。一時期かなり煮詰まって、一人でダメ出しして悄気ていたのだが、何とか形にすることができた。そうかそうか、そう展開させればあの文章に近付けるのか、という小さな発見あり。読めるのと書けるのとは別物なのだなあという思いを深くした。でも多分次の記事を書く頃には忘れているだろうし、いま思えば東熊野の書きかけ原稿にも似ている気がする。うーむ。
それにしても一つの原稿に時間をかけすぎだ。掛けた割にはどうでもいい仕上がりだし。もちっとちゃきちゃき書けんものかは。
次回このテーマで書くとしたら、ネタのストックとしては苔縄か多井畑で。でもどちらも現役時代の写真がなく、古坂以上に難しいだろうと思う。…ってGoogle画像検索したらこれとかこれとかこれとかが引っ掛かった。どこが苔縄だというのか>Google
柱本、ホッですね。それにしても、まさかエノさんがお好きとは。ゴールデン・ラッキーから反逆ののろしまで家にあったりします。
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