nagajisの日不定記。
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昨日のきずの為練兵休になり戸山学校教官殿の指導をも受くること能わずして残念。無為の日。
八板生徒監は昨日我々と別れをつげて今日夕上京せられたり。何となれば陸大専攻〔「攻」朱線で消〕科に入学された故なり。別れ亦残念の点なり。別れに臨まれ言われしことは
一、死生論ずるに足らず。本分に邁進すべし
一、部下を持ちたれば愛を以て教育せよ
一、物事をなすにあたりては何事も力なり
佐中の先生、石田・久保田先生見学に来られ一泊の予定。
日朝点呼にて喇叭より相当早く集合する故に起床後の十分間を利用し用便・洗面をすまし全速力にて来り三十秒くらい前に集合すべし。之が動作の迅速にして、点呼後も沢山人より物事をなすことを得余り早く集るが能に非ず。時間の厳守とは「プープー」となるや動作を起し迅速に時間までに集合することなり。我も亦之を然りとなす。訓学は兵科の本領、剣術→こせヽせず遠間の面の斬撃をなすべし。体当り亦熊幼の伝統となすところなり。剣術はつくヾ練習不足なるを感ず。もっと物事を熱心になすべし。やゝ良好。今一段。睡眠不足。
廃道の植生について書こうかと思い、ぽちぽち書き始めてみたのだが、途中で方向性が変わって「何年で廃道になるか」みたいな話になった。どちらも長年考えていた疑問であったので、この際だと思い書き続けてみる。
現状ではトンネル竣工・新道竣工から○年経った廃道の写真を集めてみただけだ。そこから普遍的な何かが引き出せたかどうかは、書き上げた今でもわからない。本気でやるならもっと数を集めて統計的にやらないとだめだろうということはわかった。
ちょっとだけ収穫。廃道度h=α・exp(-β/t)っぽいコトになりそうなのがわかって瞠目した。植生変遷で極相林になるとそれ以上の変化を見せなくなる。
6月3日夜 おおさかをはなれる
6月4日午前 工学院大学新宿図書館へ行き、工手学校同窓会名簿を閲覧。
午後 埼玉県立文書館で文書に埋もれる。浦和図書館へ行ければ行く。
夜 ヨッキれん氏宅で野宿
6月5日終日 イカロス出版社と打ち合わせ
夜 ヨッキれん氏宅で野宿
6月6日午後?実業之日本社と打ち合わせ
夜 ヨッキれん氏宅で野宿
6月7日終日 未定
夜 とうきょうをはなれる
工学院大学、埼玉県立文書館は村田に会いに行くためだ。明治42年2月、工手学校卒業。この年埼玉県へ入庁している。
最大の謎は43年〜44年にかけて勲八等を受けていること。この時期埼玉県の土木部は40年水害・43年水害と立続けに水害を受けて天手古舞だったことはわかるが、それでも叙勲を得るほどの働きとは、一体何だったのか。
答えはきっと川越工区にある。村田の初所属は川越工区であるらしいことを、浦和図書館のSさんに聞いている(要確認)。川越工区の人員は少なく、その少ない人員の何人かが同時に勲八を貰っているらしい。この時期に川越で何かがあったことは確か。それを見極めなければならぬ。
もう一つ、大きな謎。大正4年の山田博愛を初めとする滋賀県への職員の大移動。初代隧道工営所所長・遠山貞吉。吉田勇。杉山豊吉。そして、最後まで村田と席を共にした中澤徳次郎。みな埼玉県から滋賀県へ移った土木技手だ。土木部長であった山田の異動は上層部の意向であったはずだが、判任官クラスの残りの彼らまでもが、まるで山田を追い掛けるかのように移籍しているのは、何を示すものなのか。
遠山はすぐに関東へ帰ってしまったが、吉田、杉山、中澤、そして村田は各所工区長を勤めるまで出世した。そうしてそれ以上のポストを得ることなく去っていった。最後まで残ったのが村田と中澤だった。
一介の素人vs埋もれた史実。決戦の日が刻々と近づいている。
橋本市に問い合わせ。電凸という言葉は嫌いだ。知りたいから聞いてみただけで、いつものことだ。
建設課のほうでは「危険なのでとりあえず塞ぎ、現在修復の工法を検討中」とのこと。思い切って、先日大人数で押し掛けたので迷惑かけたんじゃないですか? って聞いてみたのだが、笑われたorz。ついでに地区の方が早よ直してくれと行ってましたよとも伝えたが、もっと笑われたorzorz。ともかく保存の方向で動いているのは間違いないようで一安心。なに、そのきっかけになったのであればかえって本望也。
市史編纂室はちょうどお留守で、教育委員会(社会教育課)に回していただいた。4年前に電話で伺った時はどちらだっけ・・・。詳しい方は席を外しておられたのだが、感じとしては以前より貴重なものだという認識を持っておられるような印象。ただ「紀見村郷土誌」に明治17年竣工という記録があることはまだ把握されていないようだったので、そのことや近代土木遺産Bランクの件だとか石組坑口の全国レベルでの珍しさなども含めてお伝えしておいた。特に中者は結構驚いていたような感じ(つーか推薦したなら早よ伝えとけ>nagajis)。
2005年の1月、初めて柱本隧道に行く前、隧道のことを尋ねた時にてくころ文庫の件を教えていただいた。これには明治22、3年頃作られたということが(地元の方からの聞き取りの結果として)書かれてある。柱本隧道が建設された頃はまだ細川村・柱本村に分かれていたが、合併して紀見村ができ、岡貫一郎氏が初代村長になったのが明治20年代のことで、恐らく「初代紀見村村長・岡貫一郎が主導して・・・」という部分がごっちゃになって伝わった結果と思う。隧道はあくまでも明治17年に完成している(但し石組み坑口の話は出て来ない。あくまでも隧道が最初に作られたのがこの年というだけで、坑口だけ後付けである可能性もなきにしもあらずだが、石組みの技法やモルタルを使っていないところからしても当時からこの姿であった可能性のほうが高い)。ということを電話口でちゃんと言えたかどうかは覚えていない。こっちだって冷や汗かきながらなのだから。
これで電話を切ったら「クーッ!決まったーッ!そして男は名を名乗らずに去っていくのであったー!」((C)榎本俊二)なのだがしっかり連絡先伝えた辺りは小心者らしさの発露であろう。そもそもこの一回だけで何かが激変するとは思わない。そこまでうぬぼれてはいないつもりのnagajisだ。
古坂隧道の件を書いている。一時期かなり煮詰まって、一人でダメ出しして悄気ていたのだが、何とか形にすることができた。そうかそうか、そう展開させればあの文章に近付けるのか、という小さな発見あり。読めるのと書けるのとは別物なのだなあという思いを深くした。でも多分次の記事を書く頃には忘れているだろうし、いま思えば東熊野の書きかけ原稿にも似ている気がする。うーむ。
それにしても一つの原稿に時間をかけすぎだ。掛けた割にはどうでもいい仕上がりだし。もちっとちゃきちゃき書けんものかは。
次回このテーマで書くとしたら、ネタのストックとしては苔縄か多井畑で。でもどちらも現役時代の写真がなく、古坂以上に難しいだろうと思う。…ってGoogle画像検索したらこれとかこれとかこれとかが引っ掛かった。どこが苔縄だというのか>Google
一日過ぎたが。50号記念企画のページを作成中。早く仕上げないと。
OFFもテもそうだが自分で何かを企画して実行するというのが経た糞だもとい下手糞だと思う(驚くなかれ、こういうのがORJの変臭長なんだぜ!)。人に頼って生きている現状を少しでも改善したいと思って焦っているのかも知れぬ。人一人生きるのが精一杯で他人を思い遣るまで至らないと言えば言い訳になるのだろうな。今は何をしてもダメッポだははは(乾いた笑い
つくづく思う。人を思い遣る事の難しさ、喜ばせることの大変さ。それが難しいからといって避けて通っていてはいつまでも人になれない。早く人間になりたーいby溶解人間ジス
振り返って後悔するんじゃなくて、それを糧に・踏み台にして前とか遠くとか見たいよね。そう思うことにする。駄目だーで黙ってたら進歩がないし、人を幸せにすることなど出来ないじょ
歴史関係がさっっっぱり進まなかったので困っている。これはもう一度現地へ行って、『緑色の店の方』へ聞き込みせねばなるまい。
ダイジェストすると、
参加者:ピカさん、よととさん、むねぞうさん、こけさん、みつさん、私
あったもの:手押し軌道と思える軌道跡。犬釘と枕木(自分でもゴッドハンドかと見紛うような奇蹟的発見、&よととさんの鋭い観察眼による発見)、事業所跡でまさかのレールベンダー!byこけさん、そして切り通しと化していた隧道跡。索道上部盤台も(その形状だけ)見つかった。
見つからなかったもの:木梶川右岸のトロ道(それかも知れない小径は見つかったが・・・確証が乏しい)、索道下部盤台(何しか道はあったけれど!)、そして流浪するnagajisの魂の帰る場所。
前日に行った大津古谷も発見があって有意義だった。謎だらけの採石場跡の秘密もわかったし、上流の木馬道と下流木馬道の2本であったということも判明。前回ので気づいとけよ>nagajis!と思わんでもないが久しぶりの野宿は心地よかった。楽しんでもらえただろうか。こちらももうちょっと上手く回せたら良かったのだけど。
そうそう、大津古谷の上流木馬道の傍らに山の神の祠があって、ちゃんと由緒書きが残されていたのが強く印象に残っている。何でも明治44年に此の場所へ移設してきたのだという。木馬道の桟が残っていたのも初めての経験で、学ぶ所大だった。こういう日の目を見ない道が無数に残っているのだろうな・・・。
こちらでは初めてとなる古本市が開かれるそうな。6/18より数日間。どこかで必ず行っておきたい。四天王寺の古本市も久しぶりに行きたいなぁ。前回はたまたま立ち寄っただけだったから、今度はちゃんと腰を据えてあれこれ探したい。見つかってもおいそれとは買えないだろうけどな(漠
北海道の林鉄について少しずつ情報収集中。たまたま近くの古本屋でS31・5万図・十勝川上流を入手。どこも車道林道化しているものと思っていたが、細かく見ていくと案外残っているものだ。最新地形図では集落丸ごと消滅しているのが寂しい。
北海道の林業事業を俯瞰できる報告も入手。北海道の林鉄の始まりは大正期なのだね。ちょと意外。北海道ほど林鉄の似合いそうなところ(似合うというより機能するというほうが妥当か)はないのになぁ。
それで今日もまた足を運んでみると、今度は和食に林鉄線をハケーン&衝動買い。行く暇なんてないだろ>nagajis。興味のある方はご一報ください。那賀川周辺(ほぼ消滅)・八重地隧道付近から西→稜線越え→北の谷に入ってく軌道がありまする。
携帯がなくても認証できるルートが用意されていて、その通りに申請したら(ちと間違えて滞ったものの)ちゃんと入札できるようになった。なるほど、こうするべきであるのか。一見しただけではわかりづらい所にあるのはこの場合正しいと思う(制作者サイド的な意見)。
お陰でまっくで地図ソフトが使えるようになった!
ネタが尽きてしまい過去の物件に手を染めなければならぬようになった。いい兆候なのか悪い兆候なのか。
某氏からの頂き物が入っていた袋。何でも長野の地方銀行が昭和50年代?に作成したものらしい。この勢いがORJにもほしい。「15日はともかくORJへ!」「消費予定があろうとなかろうとORJへ!」「ボーナス払いが待ち構えていようともORJへ!」とか臆面もなく言ってみたい気がする。あくまでも気がするという所に弱さを露呈しつつそう思う。無理にとは申しません。買って下さると編集部員が悦びます。少しだけ長生きできます。
調子に乗ってもう一丁。右の看板に中程度の奇妙なポテンシャルを感じる。所謂色抜け看板だが抜けた結果が何とも言えぬ味わい。誰が見てもカエルだとわかる絵に「カエル」という説明。ただそれだけなのに込み上げてくるものがないだろうか(この場合、「ゴミは持ちカエル」だということに気づくべきではない)。ぼんのくぼに「ぼんのくぼ」と書いてあるのを見てしまったような可笑味。
無事終了.最大の収穫はこれ.ホフマン窯で煉瓦を焼く時,このような井桁を組んでいたという.以前杉本隧道でゲッツした不良煉瓦がなぜあの形だったのかはっきり理解された.
この積み方は中山煉瓦で実際に行なわれていたものだとか.かつてここで働いていた人がたまたま見学に来て教えてくれたという.こういう偶然の伝承はとても貴重だと思う.書いて残しておく.記憶せよ諸氏諸嬢.
(中山煉瓦の煉瓦が杉本隧道に使われたということではない.杉本のそれ専用に設けた施設で作られたらしいし,中山煉瓦以外にも小さな煉瓦工場がいくつもあったそうだ).
中山煉瓦へ向かうバスの中で地元のおばあちゃんと話し込んだ(このバスにこんなに多くの人が乗るのは珍しいといって驚いていた.今回は総勢20人近い参加者).若い頃は煉瓦の素材になる土を運んでいるのをよく見たという.田畑の表面の土(アマツチというそうだ)をはがし,その下にある赤土を,ちょうど煉瓦のサイズに切り取って運んでいたという.それをチャプチャプ水が入るほどに舟いっぱいに積んで,八幡掘を通って中山煉瓦へ運んでいた.仕事に従事したのはみな身持ちの男性ばかりだったという.そうでなければ勤まらない重労働だったという.
その土をママ乾かして焼くのかと思ったらそうではないらしい.石井さん曰く,近江八幡一帯の赤土は砂分が少なく,煉瓦向きではないとか.砂を加えて練り直し,素材にしたそうだ.その機械も残されていたが…名前を忘れてしまった.
松葉菱に英数字の刻印は広島物産陳列館(いわゆる原爆ドーム:大正4竣工)に使われていたものと同じフォーマット。通説では讃岐煉瓦のものとされているが、大阪では松葉菱にサのものしか見つかっていなかった。全く同じフォームのは初めて。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20130129102712966_ja
そのそばでこんな煉瓦も発見した。空欄の松葉菱と丸で囲った何かが打刻されている。○の中身は時間がなくて確認できなかったが漢字一文字のようだった。
この煉瓦の近くには樽井煉瓦のTARUI.GO.や堺煉瓦もあり。しかし後年寄せ集められたもののようで、共使いと云うべき状況ではない。同時期に作られた煉瓦でない可能性もある。とはいえ上記の工場はすべて時間軸上重なり合わないことはない。
松葉菱の別解。ちょっと見にくいが中央に「イ」が入っている。東淀川区三国本町で撮影。豊中市桜塚高校の煉瓦壁に同じものが使われている。
さも全くチェックしてないような断定口調で言われることほど腹が立つことはない。さも他店より手抜きしているような断定をされるとな。
で、なんか書いて返信しようと思ったがやめた。定型文でも食っとけ。
入口のボロンボロンのマットを片付けた。劣化して千切れた擬似芝を箒でかき集めてゴミ袋に入れたのはよいが、千切れ芝と一緒に砂利が沢山入ってしまい、それはまあ仕方ないと諦めるつもりであったのだが、またなんか文句言われそうな気がしたので、ポリバケツに水を張って中身をそこにぶちまけ、浮いてきた擬似芝だけをすくい集めて袋詰めして出すことにした。うむ我ながら賢いと自画自賛。残った砂利はほげたあなにほかした。入口がきれいになって通路の穴もちょっとふさがって一石一・五鳥くらいだ。
明日は草刈りでもしよう。ナタ持っていく事。
定期的にちまちま書き続けた甲斐あって中くらいの二つできそうな塩梅。由良要塞は第一砲台で切ってもええんじゃね。でまた次回西熊野と由良要塞の二本立ててお送りしますンガッンックンと。
Before...
_ しとろん [土曜日だと、昼間どこか廃道関係か土木遺産でも見に行くことになります? nagajis氏が行きたいところがあるとか。 そちらの方はセッティングはする能力が無い(特に廃道関係)ので、その場合はどなたか..]
_ nagajis [個人的には ・隅田川の橋巡り ・畑隧道 なんかを考えていました。当地のいいものをご存知であればお教え下さい・・・ 帰阪はバスになります。23時過ぎに新宿発です。]
_ MIMIZUK [畑隧道なら時間によっては当日夜勤入りの当方が待ち伏せしよう...]