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nagajis不定記。
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2010-09-26 [長年日記]

[][絵葉書] 鈴鹿隧道その他

画像の説明本日の活動とはあまり関係がないが、いや関係ないこともないが、ともかく先日この絵葉書を入手した。存在することは知っていたが実物を入手できるとは思っていなかった一枚。これもある意味果報者に与えられた天与だろう。

画像の説明ついでにこれも入手した。能勢妙見ケーブルのこの角度の絵葉書は珍しいのではないか。もう一枚、上の駅を写したものもある。

[企画] 隧道写真募集ページ作成

一行書き加えた。年や月はわかっても日までは厳しいかも知れない。せめて月がわかれば。ただし3月はもうずいぶん一杯になっているので外したほうがよさげだ。

[独言] 村田のいた街

画像の説明松本高見組1057-1。草津工区に勤めたあとの村田が大正の末から昭和11年の夏まで住んでいた住所である。行っても何もないだろうとは解っていたが、一度行ってみたいと思っていた。その願いが叶ったが実際何もなかった。要するにミーハーな物見遊山だ。

今日この住所(松本高見組という字)は存在しない。剰え過去にそういう住所があったようでもないらしい。滋賀県立図書館や大津市役所に尋ねてみたものの、そういう字は聞いたことがないという。「角川地名辞典」や平凡社の「滋賀県の地名」を見ても高見組という地名は見つからなかった。

しかし、大津市役所へ問い合わせた時に、下の番地?に掛の方が反応した。この番地は番地ではなく地番ではないだろうかと仰るのだ(そもそも今の番地制度は戦後に出来たものなのだとか。昔は地番=住所だった)。地番1057はいまの松本二町目の4番地に相当する。下の「-1」は分筆したことを示す数字だともいう。やはり餅は餅屋に任せるべきであると思った。

写真はその松本2丁目4番地。近代化された表通りから一歩入り込めば、しもた屋的古い民家が軒を連ねるこじんまりとした宅地街。それ以上のものではなかった。幾ら何でも昭和初期の木造建築があんなに立派ななりで残ってはいないだろう。当時からすっかり変わっているように見受けられた。

ただ、この場所は県庁の目と鼻の先で、出庁するのに歩いて5分もかからないような場所である。県庁勤めをする者にとっては一等地とも言える場所。某人の想像するごとく、かつては県職員の宿舎があったのかも知れない。あるいは高待遇を受けての結果か。怠け者の私は8:55にのんびり家を出る姿を真っ先に想像してしまったが、泊まり込みせずとも済む環境、あるいは缶詰を回避しつつ奉職できる環境を求めた結果であるかも知れない。

大津市役所の方はさらにこんなことも教えてくれた。高見「組」はないが高見「町」というのはあった(もともと江戸時代の大津宿は組制度が取られていて、上組中組下組のような組割り?があった。それに由来するものかも知れない>高見「組」)。高見町は今の中央町二丁目(だったっけか)の一部で、松本二丁目のはす向かいの辺りになる。無理を言ってこの辺りも歩かせてもらった。松本二丁目にも増して新しい住宅街になっていたが、かつて大津宿のなかを鈎字に曲がって流れていた吾妻川がそのままに流れていた。

画像の説明大津公会堂の3階、大ホールの入り口に一扁の額が架かっていた。知らずに入って立派な額だと見上げて魂消た。赤城の額だ。堀田義次郎だ。

高懐、だろうか。遠大な思いという意味。ここで彼の筆を見るとは思っていなかったので大層驚いた。何より昭和9年という銘が意外だった。堀田が知事を務めていたのは大正の末までだからだ。

そういえば、大津市長であった時期もあるような気が・・・そう思って帰って調べてみると、確かに彼は第13代大津市長であり、昭和8年から17年までの長きに渡りその職を勤めていた。知事を辞めてからも滋賀県に留まっていたのだ。よほど滋賀県が気に入っていたのだろう。堀田は福岡二高の出身であって滋賀県とは縁もゆかりもない(はず)。もちろん群馬とも関係がない。

次にお前は「だからどうした」と言う。

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_ iso (2010-09-26 19:06)

トップページ左カラムにあるカレンダーへのリンク、スペルミス(?)で飛べませんよーーー

_ nagajis (2010-09-26 20:22)

ooo, これは失礼しました。


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