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2010-09-27 [長年日記]

[独言] 村田のいた街 second season

画像の説明大字の一文字がよくわからなかった。そのせいで後回しにしてしまい、驚愕の事実に気付くのに遅れた。

大正7年4月に埼玉県内務部土木課を辞し、同年10月に滋賀県へ赴くまでのごくわずかな期間、村田は大阪府庁に務めていた。正確に言えば大正7年5月7日から9月28日までの4カ月強である。その頃村田はどこに住んでいたかというと、右の住所であった。滋賀県に提出された履歴書にそう書かれてある。あるいは府を依願退職した後の仮の住まいであったかも知れないが、ともかくこの場所に村田鶴は住んでいた。

ぱっと見でピンと来る住所ではなかった。しかし改めて“解読”してみると

大阪府豊能郡秦野村大字

であった。驚かないわけがない。豊能郡といえばいわゆる北摂と呼ばれる地域であり今の池田市である。私がいま住んでいる場所から5kmも離れていない。天神荘に居た頃には北摂詣でや暇つぶし@池田のために何度も何度も何度も通った場所である。

秦野村は明治半ばの町村合併で誕生し、昭和10年に池田町と合併、池田市となって消滅している。今日秦野という地名は小学校や派出所の名前に残っているだけだ。大字田というのもよくわからなかったが、今の表記で言えば田であることが、昭和14年発行の「大阪府池田市土地宝典」によって判明した。この頃すでに秦野村は消滅しているが、旧田村の名を継承したと思しき大字「田」があり「北田」「中田」「南田」の3小字も見える。書き方はまさに村田の字の通りである(字田は昭和19年まで存在。その後才田町になり、昭和35年に城南3丁目、40年に八王子、、緑丘、鉢塚、井口堂、荘園、旭丘の各大字に分割された)。

画像の説明田であれば旧版地形図(大正2年版「大阪西北部」)にも載っている。旧能勢街道が貫く要衝の町。今日この方面の幹線道となっている国道171号は昭和の初めに府の十大路線の一つとして整備され、才田の南、阪急宝塚線と平行する新線として誕生した。今日の才田はかつて能勢街道の要衝であった頃の面影は全くなく、真新しい住宅が立ち並び、かたや産総研が殿と控えるような土地になっている(字北才田、中才田の一部が産総研の敷地になっている)。

画像の説明画像の説明

画像の説明
ここから府庁へ通ったのだとしたら…。能勢街道を10分ほど歩いて池田駅へ。そこから箕電(現・阪急宝塚線)で約1時間で大阪へ出ることができただろう。南へ向かって石橋駅(!)から乗ることもできる。車があれば、西国街道を通って三島郡味舌村の現場へ行くこともできただろう。いずれもちょっと遠いが、当時この辺りを小林一三が絶賛売り出し中だったことを考えると、荒唐無稽な家選びというわけでもなかったように思われる。

画像の説明東国から大阪に移るということは、茨城から埼玉へ移った時とは比べ物にならない変化だったに違い無い。激変した生活環境に村田は何を思っただろう。石橋以南は畑続きの超ド田舎を走り「ミミズ電車」と蔑まれた茶色い電車に乗って何を思ったか。阪急電車に乗りながらそんなことを考えた。まさかこの電車に、村田繋がりを見い出すことになろうとは。

[奇妙なポテンシャル] #197

画像の説明流行の事物あるいはキャラクターを用いて印象に刻もうという手法は否定しないが、もう少しものを考えてからやってもらいたいものである。だいいちこの宣言、主語がわからない。誰がアルパカを守らなければならないのかがわからない。仮に主語が『一般市民』であり一般市民に守ってもらいたいルールをア・ル・パ・カの4字に載せて伝えようという意図だとしたら、『パ』の「パトロールしましょう」が場にそぐわない。一般市民がパトロール、などというと井戸に毒を放り込んだ疑いでの私刑が罷り通る自警団とかモヒカン刈りトゲトゲショルダー集団による「汚物は消毒だー」な世界に通じる暗さばかりが感じられる。かといって主語を『池田警察署』とみなすのも難しい。警察が自身に向かってわざわざ「『ル』ルールを守りましょう」と訴える姿など見たくは無い。『ア』に至っては主語以前の問題である。「安全安心なまちづくり」をどうしようというのか。するのかしないのか。そこは空気読めという向きもあるかも知れないが、「する」だとしても「どのように安全安心にするのか」がはっきりしないまま「アルパカ」に乗せたところで何になろう。「アルパカ」を覚えたところで終いではないか。「アルパカの『ア』」→「安全安心な町づくり」、以上。では、何の発展も齎さないではないか。次のアクションあるいはその引き金となる何かがなければ、印象を刻んだところで無駄無価値である。

要するに「パトロールの『パ』」が言いたかっただけちゃうんか、と思う。そこから始まり無理矢理「ア」「ル」「カ」を紡ぎ出したに違い無いのだ。

[独言] 続・才田

旧秦野村の村域にはもう一つ才田という小字があった。土地宝典時代の小字だから秦野村大字才田である可能性もある。念のために、というよりも最初の目星として向かったのがこちらの才田だった。

いまの池田市と箕面市の境の辺りにある。渋谷高校のはす向かい、西国巡礼街道沿いと言って解る人はあるまい。ともかく阪急からも国道からも離れた辺鄙な所である。

池田市の他の地域と同様、新興住宅の立ち並ぶ一角だが、巡礼街道に面した所に小さな畑があった。そこで草取りをしている方に話を伺ってみた。たった4カ月しかいなかった人のことを問うのは無駄だろうが、この土地がどんな土地なのか、話を聞いてみたくなったのだ。その方は、確かに父親からサイタという地名を聞いたことがあると仰った。しかも400年来の過去帳があるという。そのような旧家の主だったのは意外でもあり小さな収穫でもあった。こういう偶然があるから、人は「神の悪戯」などという言葉を編み出したに違いない。

この土地を「池田の北海道」と仰ったのはある種の諧謔だとしても、不便な場所であることは間違いない。池田駅、石橋駅、箕面駅、いずれの駅にも徒歩30分。かつては池田山手線も通っていず、バスさえ通わない郊外の外だった。ただし、北摂山地の裾野の最上段である故に見晴らしは大変良い。ビルや建物が立て込んでいなかった昔−−−主は人っ子一人いない原野のような場所だったと仰った−−−は大阪市街まで見通せた。実際マンションとマンションの隙間から梅田のスカイタワーを見ることができた。

いくら箕電が通っていた村だとしても、府庁勤めの人間が住まうのに適した立地ではない。そう判断した。しかし見ず知らずの人と話し込んだ夕まぐれの一時が忘れ得ぬ印象となった。

そういうことを書いてみることのできる場所は、ここしかないのである。誰かと共有した時間は、その人との思い出として、公に語るのは憚られる。大事に大事に取っておきたい。ただ一人で歩いた夕闇の街並の、寂しさと懐かしさと驚きがない交ぜになった印象こそ、書いて誰かと共有したくなるというものではなかろうか。例えそれが「だからどうした」と継がれようとも、だ。

[独言] で、

明日こそは奈良図へゆく。目が覚めたら12時過ぎだった体たらくをくり返してはならない。じょ。

今日は休館日だぜ! 事前に気づいてやったぜ! ざまあみろヒャッハー!

[独言] うむ

もうちょっと練習せねば。画像の説明

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]
_ こけ (2010-09-26 22:11)

自分を探しに出かけて、世界中を歩いて、しかし自分は見つからず。帰りついた自分の家の押し入れに、探していた自分がいた。・・てきなオチがつきましたねえ。あれ?ちょっと違う?

_ nagajis (2010-09-26 23:04)

似たようなモンテスキュー。

_ みつ (2010-09-27 04:06)

元上池田住民なので懐かしい地名が、、、、五月山の鉱山跡も探してみたいものです。

_ 井口堂をこよなく愛するひと (2012-12-03 15:37)

豊中駅がない!!<br>jisちゃんかわいいですか<br>あと、阪急の創業者は『小林十三』ではなく『一三』です。


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