nagajisの日不定記。
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日本道路史資料編より引用。国道表公布に先立って陸軍省と協議したときのやりとり。以下あらまし。
※明治19年街路取締規則標準
(7)国道の等級廃止と幅員の制定に関する諸通達<1−3−6(1)>
内務省稟候
道路分類等級の義に付ては去明治九年六十号達を以て制定の未当省乙第七拾三号調整方達に依り各地方庁に在っては管内限路図調整差出候付爾後当省に於ては右図面に基き其接続を取調且他の実測国図に拠り別に全図を製し而して更に全国の路脈に就き関係の軽重を酌量し取捨増減を加うる等前後詳密なる取調に従事したるを以て為に巨多の歳月を累[かさ]ね候儀の処此程に至り整頓候に付
此際国県道共斉しく線路御確定可相成筈の処県道に至ては爾後制度の沿革に従い其分類等今日に適せず其他更に取調を要する廉も不少蒡即今御裁定の運に至り難きのみならず之を国道に比すれば緩急も有之且国道経理の義に付ては此程允裁の趣も有之目下線路確定を要し候義に付此際先ず国道のみ別紙図面の通り御取定の上速に御布達相成候様致度
将又右御布達相成候に付ては此際道中の規模をも御定相成度尤も明治九年第六十号御達に国道は一等七間二等六間三等五間と各等級に依道巾の広狭を定められ候得共並木敷を設くるや否も分明ならず
夫道巾は四間以上を以駅路の適度とする処にて別に並木敷の為め三間の余地を要するものなれば一等を七間と為すは並木敷をも見込みたる如しと雖も二等三等の道巾に於ては並木敷の余地を見ず
元来道路に等級を附せられ候儀は其経営上に於て緩急軽重の標準と為すべしと雖も斉しく国にして之を軒輊[けんち:優劣・軽重・大小などの差]するは穏当ならず之を軒輊せんとするより転た道巾に広狭を区別せざるを得ざるは様相成儀に付断然国道の等級を廃し其道巾の制を更正せられ国道は道巾を七間以上と為し其内四間以上を以て道敷とし道敷の外左右に各五尺の並木敷を設け該敷の裏面と外面とに別に各二尺の湿抜きを整通するものと其規模を一定せられば国道の体裁も完備すべしと存候
今也交通運輸の開くるに従い行旅車馬の往来歳月を追い頻繁を加うるに従来国道中にも僅に二三間に過ぎざる狭路も猶各地に儘之あり不便も亦甚し
自今官の管理に属する以上は其新設に係る道路は必ず此規模を保ち旧道は漸次之を目的として改修を勉むる様致と存候
且並木は盛暑に在っては炎気を遮り深雪の地にては路線を標し吹雪を防ぐ等道路に功用を与え湿抜きは地盤を鞏[かた]むるに必要のものに候間崖傍水涯等実地差支ある地所に非る以上は並木敷湿抜を設けずんばあらず
右は修繕費支出方等の設計上に於て関係不少に付第六十号達中先国道に係る等級を廃せられ其道巾の制御改正の義も此際府県へ御達相成候様致度
路表図面並御布達按御達按等相添此段相伺候条至急仰御高裁候也 17年8月23日
追て本件陸軍省へ及協議候処別紙の通回答有之該意見中道巾を六間半以上と定めらるる儀は実際難被行既に明治九年中道巾の制を公達せられたるも該制に依り旧来の狭路を改修したる向も無之只旧狭路を改修せらるのみならず爾来続々新道開鑿稟中候も大抵其巾三間許に過ぎず弐間半許にて止むものも亦少からざる程にして今一般に四間巾と為すも全国の広き巨額の工費を要し漸次に非らずんば被行間敷見込に有之
若し同省意見の如くするときは莫大の潰地を要し為めに田畠を損するのみならず工費に於ても貲[はか]られざるべく而広潤の道巾なるときは自然修繕掃除等も難行届より荒廃の隙地を生し平時維持の方法行届難く行軍の日に在っても却て使用を為さざるの恐有之況んや国中到る処山間河崖の地多く畢竟うべく行われざるものと相考候
又各軍管より営所並要港要塞に聯絡するものを国道に増加せられ度云々に於ては明治九年公達の制規を改正せざるを得ず 該制規を改正するに於ては各軍管より営所等に通ずる道路にもならず此外にも国道に編入せられるべき見込のものも可有之
猶該制規御改正の儀に付ては追て可相伺積に候此外橘祭[ママ]巾員坂路傾斜等の儀は全省の意見を須たず本省にても橋梁巾は道巾と同からしめ坂路勾配は廿分一よりも緩ならしむる見込に之有
右等の次第猶同省へ遂協議候上上陳可仕義には候得共本文申陳候通本件の儀は国道経理上に関し目下速に御裁令を仰ぎ度見込も有之徒に往復に時日を費すの恐あるを以て不取敢同省回答書相添進呈仕候条何分の御高裁を仰ぎ度此段追申候也
伺の趣聞届候事 18年1月6日
[別紙]
陸軍省より内務省へ回答 17年8月12日
国道線及び巾員等の義に付去る6月7日付御内議の趣致承知候
右国道の儀は之を軍事上の要旨即ち全国防禦の大計より考案を下すときは実に緊要なる軍路にして其経始の如何は大に兵略上の計画に得失を与え影響の及ぶ処遂に国家の大事にも関する儀に有之候得ば之が制限を建んには深く慮り以て永遠の規模を定めざる可らず自然目前の小利害に拘泥し苟且に失する如きあらば他日の憾を遣や必ずせり
故に軍事上の要旨に基き論究せるに別紙事項の如きは国道即ち軍路の制限に於て最も緊要なる者と相認め候間宜敷御詮議相成度別冊国道表返進此段及御回答候也 17年8月12日
追て橋梁並坂路傾斜の二項は御内議中には無之候得共右は国道に附帯する事件に付是亦可然御詮議相成度此段申添候也
一 国道巾 六問半(十二米突)以上と被定修造困難なる場所は四間(凡七米突)を以て最小限と定められ度事
此理由 軍事上即ち行軍等の利害に就て考うるときは我国現制の六馬の砲車(馬並に車を併せ長さ凡十四米突)を以て背転行をなすには其巾通常凡九問(十六米突)を要し四馬に在ても尚十二米突を要す(別紙附図)縦令不便を厭わず変法を以て背転行を為すも六馬の砲車に在りては決て十二米突を下るべからず
是れ十二米突己以上の道巾を要する所以なり然れども実際上種々の原因に依り此の如くなる能わざる場合あらば其局部に限り七米突を以て最小限と定められ度此巾は尚一層の変法即ち後車を解脱して漸く背転を為し得べき最小限を以てなり
但最小限(四間)の道巾の所に在ては路線の曲折部は務めて鈍角なるを要す若し己むを得ず鋭角となるときは道巾の広さを加えざるべからず
二[ママ] 橋梁巾 三間(六米突弱)以上と被定且支柱は充分砲車の重量に耐ゆべからしめ度事
此理由 明治九年第六十号御達中橋梁巾員の義は道路の種類に随うを至当とす然れども其巾の如きは必ずしも道巾に随うを要せずと有之のみにて其制限に一定の明文無之然るに砲車互に行違うに要する最小限は六米突弱(欄干を除き真の通行路)を下るべからず是此制限を要する所以なり然れども右は永久の架橋に限り一時の仮橋に属するものは勿論此限にあらず
但橋梁の一端より直に曲折の道路接続する所は最も車軸の通過に困難なるを以て務めて鈍角なるを要す己むを得ず鋭角なるものには十分の余地を設けざるべからず
一 坂路の傾斜 二十分一より峻急ならざる様被定度事
此理由 二十分一は欧州に於ける山路傾斜の上極にして之より峻急なる時は砲車の登上に困難多し若つ夫れ百分の九乃至十八(五度より十度)に及べば馬数を増加せざれば砲車を登らしむる能わざるの大困難あり然れども現今俄に此の如い緩傾斜に悉皆作為し能わざれば事情あらば漸を以て改良の目的に定められたし
一 国道聯連絡線 左の通増加相成度事
第一軍管内
一 武蔵国横浜より相模国浦賀へ
一 下総国舟橋より同佐倉へ
一 同国千葉より上総国富津へ
一 甲斐国甲府より信濃国下諏訪近傍へ
第二軍管内
一 越後国新潟より同新発田へ
一 同国新発田より羽前国米沢近傍へ
一 陸前国仙台より羽前国山形近傍へ
一 陸前国仙台より同荻ノ浜へ
第三軍管内
一 加賀国石川或は越中国高岡近傍より能登国七尾へ
一 近江国木本近傍より越前国教賀へ
一 伊勢国山田より志摩国鳥羽へ
第五軍管内
一 伊予国松山より同三津浜へ
一 伊予国松山より同宇和島へ
一 安芸国広島より備後国三次を経て出雲国松江近傍へ
第六軍管内
一 筑前国福岡より同山家近傍へ
一 肥前国柄寄近傍より同伊万里へ
一 肥後国熊本より同百貫石へ
一 肥後国熊本より同大津を経て豊後国大分へ
此理由 軍事上より見を下せば何れも営所要塞若くは要港等への聯絡にして最も要用なる軍路なり 他日兵営要塞等増加に従い線路の延長を要すべしと雖も現今に在ては先此分を必要とす
(国道表省略:出典「日本道路史」、原文新字カナ、赤字太字[]はnagajis注)
センター試験を受けているらしいのだがパソコンの前に座っている。解答はパソコンを通してFTPサーバに一時保存することになっているらしい。何だかんだしてひととおり解答し終え、保存する。
余った時間で暇つぶしをする。テキストエディタでAAを作成した。結構な力作だ。こういう時ほど保存し忘れたりするんだよなーと思いつつ、その動いているAA(スクワットしてた)を眺めながらCtrl+s。と同時にさっきの回答を上書き保存してしまったことに気づく。うわっ、やっちまった! バックアップなんて取ってねえぞ!
慌てて記憶をもとに解答をでっちあげようとするが、細部まで思い出せず、苦労の3割方が飛んでしまったような感触。脱力感。嫌になって立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
試験会場は大きなスーパーの一角にあって、壁なしで陳列棚のある空間につながっている。そこで元主将のIw氏に出会う。早く解答を終えて暇を持て余しているようだった。
Iw氏は陳列棚の一番下の棚に置かれてあったイカ燻駄菓子の袋を手に取って言う。「最近これまずくなったんだよねー」と。それはホタルイカをまるごと燻製にしたような感じのイカの駄菓子で、私も好きなやつだった(ちょっと酸い味の噛みごたえのある駄菓子、ということに夢の中ではなっている。実際にあるものなのかどうか覚束ないが、探せばありそうな気がする)。開けてみると形はイカだがご飯粒を練り固めて作ってあった。白い粒々の塊だ。一つ食べたがもさもさするばかりで確かにまずかった。五匹も入っていたのは質低下のお詫びのつもりなのか。こんなにいらんっちゅうねん。
席に戻って続きをやる。4,5人×何十列の隊伍を組んだ隊列が、奥から左手前に向かって行進している映像。その角の人物が誰かを答える問題(その人物だけ黒塗りになっている)。さっきは何て解答したのだっけ。女の子だったか、子供だったか、それともヒゲのオヤジだったか・・・。姿を想像するたびに映像にカートゥーン風の手が入り角の人間を入れ替えていく。悩み過ぎたせいで隊伍の並びがぐちゃぐちゃになってしまう。時間は刻々と過ぎていく。
学生を演じる長大リアリスティック夢を見たんだが内容を忘れた。もったいない。
商売繁昌を願うつもりで服部神社へ。今回は大人しく杖を2本ついていく。住宅街を通っていくといろんな発見があっていい。
例えばこの飛び出し注意看板。坂の途中にある、曲がりくねった狭い丁字路に置かれてあって、確かにあらまほしき場所の注意君だと思う。設置した人には思慮がある。しかしこう切り取ってしまうと、向こうの壁が道路に飛び出していることに注意せよ、という看板だと取れなくもない。飛び出し注意君の向きが効いているのか。
それからこの看板。人のイラスト(恐らく市議会議員大町氏)に「前向きな行動」と書かれてある。これを見て、人物像の向きが前向きなのだろうか、即ち左が前なのだろうかと思い、しばし立ち止まって悩んだ。「前向きな行動」の文字は左書きなのから左が前と取れなくもない。しかし人名および看板の向きは縦であって、ちょっとそぐわない。そうだからといって上が前だとして上を向いているイラストも変だ。右を向いていたらなおさら左書きの文字と喧嘩してしまう。
いっそのこと正面向いたら万事解決! 常に前向き! とホクホク顔で結論に至ったものの、それだと単なる似顔絵だろ、と気付いた。
ハナから「前向き」と顔の向きを掛けていたりしなかったのかも知れない。そう思ったほうが心が落ち着く。
これは奇妙なポテンシャルではない。石垣石に石臼を使っている実例を初めて見た。ちょっとうれしかった。
石臼を石垣に混ぜ込むのはある種のまじないで、そういう風習が全国各地にあったそうだ。富や食の象徴である石臼で家を支えることが縁起がいいとか、水平にして使うから石垣が安定するとか何とかいう意味が込められていたはず。神戸六甲のほうに行ったら多そうな気がするがじっくり見たことはない。
カレーに林檎を入れたらバーモントカレーだわーいと喜びつつ一玉入れた上におつとめ品セロリ一本を刻んで放り込みついでに旧臘の白ネギを刻み入れぐつぐつ煮込んで香味芬々なカレーが鍋一杯出来上がりつつあったところへ思いつきでイワシ蒲焼きの缶詰めの残り汁約1ccを入れてみたところ全てが殺されてイワシ蒲焼き缶詰カレーになってしまった。この劇的な変化は水炊きに未処理のトド肉を投入してしまった大学4年のクリコン以来の発見だ。匂いだけで味がないのも味覚をおかしく刺激する。
カレーに魚の缶詰めを入れるというのは王道といかないまでも旧街道くらいの常道だと思っていたのだが記憶違いだろうか。あれはさばの水煮だったっけか。イワシ蒲焼きが特に缶詰臭を発するような気もする。
これでようやく年末に買い溜めておいた野菜を消費し尽くした。そして頂き物の野菜がまだまだある。
入浴剤を購入するより100円ショップで塩を買ってきてドバッと風呂に入れたほうが効き目がありそうな気がするのだがどうだろうか。浸透圧の関係で痩せたりしないだろうか。
他にも酸性洗剤を薄めて入れてみるとか、重曹入れてアルカリ泉とか。酢とか。炭酸泉というのはあっても塩酸泉とか酢酸泉とかはないから新しい泉質開拓も兼ねて試してみるべきだろうと思う。