nagajisの日不定記。
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今更そう思った訳ではないのだが近頃つくづくそう思う.以前はものを識らなかったおかげで気安くいろいろ言うことができた.体力に任せて無茶をすることができた.自分を主張するためにあえて脇道を選んだりする徒労を厭わなかった.その結果としていろいろなことがわかってくると,考えてものを言ったり沈黙したりすることを覚えて,逆に慎重になってしまう.得た知識で帰納的に答えが出せるようになることはいいことだが,その結果として考えが一本道化してしまっている気がする最近.こんな時はこう.あんな時にはあれ.延髄反射で親父ギャグが出るのと同じ理屈で思考が単純化してきている.
ものを識らない時のほうが総当り的にあれこれ試して,その過程で思いがけない知識に行き当たって知識の幅が広がっていたように思う.頭が固くなるのはいやなことだ.だからあえていろいろなことを書いてみたり考えてみたりしている.もともと芯のない人間で,それはよくないなあと思っていたけれども,しかし指向があちこちを向いていること(いたこと)は逆に利得とみなせるのかも知れない.そのそれぞれを放縦に任せておいたらいいわけだから.アメーバの手のごときもので.てな具合で自己完結しがちなのも宜しくない傾向であることよ.
信念はあるつもりでいるけれども,それを不可侵唯一神のごとくに考えるのは止したほうがいい.信じ奉りながらもどこかで間違っている可能性を考えておくべき.新たに積み上げる何かを探しているべき.自省,研鑽,して再構築.その面倒を厭わないようにしたい.ということを「技人一如」を読んで思った.いや別に自分は技術者でもArchtectでもないのだけれど.
人はいい人になりたくて模索をするから,聖人とか達人とかイチローとか,完成形に近いように見える人をあやかる.常に未完成であろうとする自分のようなものは不要なのである.
堀のいう「キャラクター」.設計した構造物,あるいは例えば彼の助役としての仕事のような,には設計者のキャラクターが出るという話.「性格」もしくは序でも何度も出てくる「人格」という言葉で置き換えても良さそうなのに,あえてキャラクターという言葉をもってきたのはなんでだろう.
Websterでは第一に印章の意味があって,第二義に性格的なことが書いてある.
2 a : one of the attributes or features that make up and distinguish an individual
(個人を作り上げ,区別する特徴・特性の一つ)2 c:the complex of mental and ethical traits marking and often individualizing a person, group, or nation
(人,グループ,国民を特徴づけ,時に独自のものにする,精神的倫理的特徴の複合体)
[Merriam-Webster]
2cのような意味合いを含ませたかったのだろうな.いまキャラクターというと「キャラが立ってる」みたいな軽いイメージばかり先行するから,かえって浮いた感じがしてしまうのが惜しい.これは自分の意識を改めなければならない.キャラクターとは内面から滲み出てくるもの,仕事や作品に否が応でも発露するものであると.
片付けついでにディスプレイしてみた。覚えているうちにタグ付けておかないと、どこで拾ったものかわからなくなるからな。研究資料として必要があれば貸し出します。
高原豊隆鉱山軌道/神子畑上部軌道/沢川林鉄/音水林鉄赤西上部軌道/大杉谷林鉄水越線/大杉谷林鉄日浦杉線(枕木共止め用長尺)/加賀山軌道(仮)/内山鉄之助の軌道/南和鉄道(JR和歌山線)川端支線
み、耳が痛いわ…(完璧なシンクロ同感)
難しいお話ですねぇ。<br><br>実はものを多く知っていても,何も識っていな人が居ます。少しのことしか知らなくても,万象の元にある本質を識っている人も居ます。知識の量と本質は関連がないだけでなく,知識の量が多いことが逆に本質への遠回りを強いている場合もあるのかも知れません。<br><br>年を取ると頑固になるとよく聞きます。若者ほど頑固であるとも言います。女は生まれたときからおばちゃんだとも言いますがw 頑固か否かは年齢には関係しないのかも知れません。「私は昔の私じゃないのよ」などというセリフをドラマでは聞きますが,三つ子の魂なんやらで,実はcharacterは変わらないのでしょう。<br><br>私の場合には,年を取るにつれ,「それはそれでもいいだろう,あれはあれでもいいに違いない,どれもそれぞれに構わないのではないか」と思うようになりました。個々の事象などどうでもよいように思えて来ました。<br><br>若い頃は物事に対する持論への拘りというのが強く,人からも頑固と言わていましたが,年を取った今はフレキシブルになったと自覚しています。同時に,これまでの経験から無意識に最短距離を取るようにはなっているようです。俗に言う丸くなったということなのか,焼きが回ったということでしょうが,それでもcharacterは変わっていない。自分は自分からは逃れられないのでしょう。<br><br><br>年を取ると,考えるのが面倒になります。新たな知識も驚く程吸収されなくなります。メモしておかないと忘れるというのはまだまだ健全な状況で,メモしたことすら忘れます。とりわけ自分にとって非常に重要でない事象に関してはそうなります。重要な事象さえすべて忘れるようになったら病的痴呆でしょうが。<br><br>平均寿命は80を超えていますが,実は人間はそれほど生きておりません。個人差はありましょうが,経験上,人間は40代後半を過ぎると「廃」に向かうもののようです。30代には思いもしなかった脳の硬直化を実感し,それに驚愕し,恐れおののきます。それでもcuriosityのあるうちは人として在れるのだと言い聞かせています。<br><br>信念・信条というのは人の柱となるものですが,五重塔の心柱のように確固でありつつもフレキシブルであるのが理想でしょうね。信念・信条も揺れることはあっても倒れなければいいのでしょう。しかし,それらは一瞬で覆る可能性もあるものです。<br><br>「人≠ひと」であり,時に「人≒ひと」でもあり,「人=ひと」であったりします。人間とは不可解なものですね。今回の「人≠ひと」は,前に書いた「人≠ひと≠hito」の意味ではありません。<br>,<br>ションベンの垂れ流しのような内容ですが,こういう感想を今回の元コメントに対して持ちました。元コメより長くなり失礼しますた。<br><br><br>油絵のようにも見える上の絵葉書は迫力ある構図でありますね。橋自体も美しいですね。
いつも深い示唆をありがとうございます。年を重ねないとわからないことが沢山あって、そういうもののほうが本質なのですよね。慌てて求めても仕方ないのだと思う昨今です。
ひとのブログでの失礼をいつも許容頂き感謝しています。<br><br><br>ただ年を取ればわかるというものでもないでしょうし,何が本質であるかも私には今でもわかりませんが,ただ,その時にやるべきことのうちで出来ることをやり続けないと,そこには永遠に辿りつけない,ということは確信を持って言えます。<br><br><br>峠の茶屋辺りからの俯瞰のようですが,木々の背丈が低いですね。特に天狗倉山の周りがそう見えますが,写真の関係でしょうか。現在は夏の大雨で峠への道が通れなくなっているようですね。ところで矢の川峠って吉熊国立公園だったっけ?<br><br><br>犬釘コレクション,貴重ですね。おっしゃるとおりタグなしでは価値なしです。近所のおばはんが知ったら白い目でみられるので隠しておいて下さい...w<br><br><br>今月のページはとても長いので,コロコロでは最新カキコまで行きつけず,横の棒をズィーと引っ張っていますww <br>またコメントが長くなってしまった....
そうですね,無為に年取るだけではいけませんね.常に考えておきたいものです.<br>絵葉書の袋に路線図が書いてあるんですが,紀勢西線が木之本駅で止まっているので,S15〜S31のものと思われます.峠の茶屋から俯瞰したものや小坪ループトンネル(矢の川隧道)の写真なんかもありますよ.